第十一話 緑の海と天然の隠れ家
一歩踏み入れた瞬間、肌を撫でる空気が明らかに変わった。
ルミナ村を囲んでいた乾いた草原の風とは違う、濃密な湿気と、樹液の青臭い匂い。頭上を埋め尽くす鬱蒼とした樹冠から、細い木漏れ日が幾重にも筋を作って降り注いでいる。
「……ここが、ヴェルデの樹海」
思わず呟いた僕の肩越しに、アリアが琥珀色の瞳を細めて森の奥を睨み据えた。
すでに彼女の手には、使い慣れた狩猟用の弓が握られている。背負った矢筒の矢羽を指先で弾きながら、獣のような鋭い気配察知を周囲に巡らせていた。
「街道沿いの森とは気配の濃さがまるで違うわね。……リュート、私の足跡をきっちり踏んでついてきて。どこに底なしのぬかるみや、獣が仕掛けた罠が潜んでるか分からないから」
「うん、わかった」
「きゅう……」
僕のシャツの胸元から、ハクが銀色の鼻先を覗かせた。
冷たい樹海の空気に小さな耳をピクピクと動かしていたが、やがて何かを恐れるように、僕の肌へぐりぐりと頭を押し付けて丸まってしまう。
「ハクも警戒してるわね。上位の霊獣の幼体とはいえ、生まれたてだもの。……まずは日が暮れる前に、今夜のねぐらを見つけなきゃ」
アリアの言う通りだった。
樹海の木々はあまりに高く、地表に届く光はすでに薄暗い。この魔境で完全な夜を迎えれば、どんな上位魔獣の餌食になるか分かったものじゃない。
「アリア、あっちの岩壁の下なんてどうかな? 風を遮れそうだけど」
僕が数十歩先にある、切り立った巨岩の窪みを指差した。
アリアも足を止め、「確かに三方を塞げて良さそうに見えるけど……」と呟く。
その時、僕の【至高の食卓】が、微かな違和感を告げるように胸の奥でチリリと熱を帯びた。
視界の隅に、青白い文字が浮かび上がる。
――対象判定:岩壁の窪地。
――食卓適性:不可(野営非推奨)。
――環境要因:
・風抜け劣悪(火を焚いた場合、煙が滞留し一酸化中毒の危険性)。
・土壌腐敗度・中(湿地毒茸の菌糸が堆積。夜間に微弱な誘引胞子を飛散、肉食獣の巡回ルート)。
「……っ、ダメだアリア! あそこは危ない!」
「えっ!? どうしたの急に……」
「僕のスキルが教えてくれたんだ。あそこは風が通らなくて煙がこもるし、土の奥に魔獣をおびき寄せるキノコの胞子が混ざってるって……!」
「なっ……!?」
アリアが即座に駆け寄り、足元の腐葉土を短剣の先で小さく掘り返した。
すると、黒ずんだ土の中から、蛍光塗料のように毒々しい紫色をした微細な菌糸の塊が顔を出した。
「……ほんとだわ。『紫這い茸』の菌糸根ね。夜になると甘い匂いを出して魔獣を引き寄せる厄介なやつよ。……ちょっとリュート、あんたのそのスキル、そんなことまで分かるわけ!?」
「えっと……『美味しいご飯を食べるための環境』かどうかを見分ける力みたいで……」
僕自身、自分のスキルの万能さに驚いていた。
ただ食材を美味しくするだけじゃない。【至高の食卓】にとって、毒煙が充満し魔獣が乱入してくるような場所は「食卓として失格」なのだ。
「最高じゃない! 狩人の勘よりずっと頼りになるわよ!」
アリアが感嘆の声を漏らし、僕の背中をバシッと叩いた。
「きゅうっ! きゅう!」
その時、僕の胸元から抜け出したハクが、僕の肩によじ登り、森の北東の方向へ向けて短く前脚を伸ばした。
鼻をひくひくさせ、何か澄んだ空気の気配を捉えている。
「ハク……? あっちに何かあるの?」
「行ってみましょ。ハクは風の霊獣の子よ、淀んだ場所は嫌うはずだわ」
アリアを先頭に、低木と絡み合う蔦を鉈で払いながら進むこと十数分。
かすかなせせらぎの音と共に、視界が一気に開けた。
「……わぁ……!」
巨木の根元をくり抜いたような、巨大な一枚岩の張り出し。
頭上は分厚い岩板が天然の屋根となって雨風を完全に遮り、足元は湿気のない硬く乾いた白砂が敷き詰められている。
すぐ脇には、苔むした岩肌の間から、水晶のように透き通った湧き水がトクトクと小さな天然のプールを作って流れ出していた。
すかさず、僕の【至高の食卓】が鮮やかな黄金の文字を目の前に展開した。
――対象判定:清流の岩棚(天然のテラス)。
――食卓適性:極めて最良(理想的な調理・野営環境)。
――環境要因:
・通風極良(上昇気流により、調理の煙は上空数十メートルの風で瞬時に拡散)。
・水源清浄度・特級(ミネラル豊富、魔獣忌避の微弱な聖神気を含有)。
・防壁堅牢度・高(背後完全遮断、正面視界良好)。
「……ここ、完璧だよアリア!」
「ええ、信じられない……! こんな森の奥に、雨も風も防げて水場まである天然のシェルターがあるなんて!」
アリアも周囲の安全を確認し、大きく息を吐き出して相好を崩した。
「きゅぅ~!」
ハクは乾いた白砂の上に飛び降りると、嬉しそうに短い尻尾を振り回しながら、白銀の毛並みをくねらせて転がった。
「ふふ、ハクもお気に入りの場所ね。……決まりね、リュート! ここを、私たちの最初の拠点にしましょ!」
「うん!」
僕たちは重い背負い袋を下ろし、未開の樹海の中に、二人と一匹の小さな『最初の家』を構えたのだった。
(第12話へ続く)




