その頃のバーティ侯爵邸では
「ちょっとアンタ、待ちなさいよっ!」
よく晴れた日の朝、バーティ侯爵家の廊下を歩いていたアリッサは誰かに呼び止められ、声のする方へと顔を向けた。
「あら、ジェシカさん。御機嫌よう」
見ればそこには侯爵の愛人ジェシカが鬼の形相で立っていた。
その眉を吊り上げた怒りの表情はもちろんのこと、今の彼女の出で立ちはまさに鬼女のよう。纏めもせずおろしただけの艶の無い髪、昼間だというのにやけに肌を露出させたドレスはよく見ると皺だらけだ。
「なに呑気に挨拶してんのよ! ふざけないで!」
「まあまあ、そんなに怒ると頭の血管が切れてしまいますわよ?」
「なにサラッと恐ろしい事ぬかしてんのよ!? それよりこれはアンタの仕業でしょう? いったい何をしたのよ!」
「? これ、とは何のことです?」
「とぼけるんじゃないわよ! 屋敷から使用人が消えたのはアンタが何かしたからでしょう!? 見なさいよ、これ! メイドがいないから身だしなみすら整えられないじゃない!」
そう、現在のバーティ侯爵家には使用人がほとんどいない。
驚くべきことに昨晩家令が逃げるように辞職したのを皮切りに、なんとほとんどの使用人が辞表を提出して屋敷から去って行った。
辞めていった使用人のほとんどが貴族家出身者で、平民の下女や下男だけが残った。彼等は力仕事や水仕事は得意だが家人の身の回りの世話などは不得手……というより専門外だ。そういった仕事は本来貴族家出身の侍女や侍従がするものだから。
幸い、料理人は残っているので食事にはありつけている。
しかし身だしなみ関係は無理だ。当たり前だが、身の回りの世話をする者がいなければ貴族は身だしなみすら整えることができない。髪を整えることも服を着ることも一人では難しい。
「あー……もしかして、朝から侯爵様の姿が見えないのは身だしなみを整えていないせいで部屋から出られないからでしょうか?」
「……そうよっ! 髪は乱れているし、無精髭も生えているし、服だって寝間着から着替えることが出来ないのよ! 可哀想に……こんなみっともない姿じゃ部屋から出られないって嘆いていたわ!」
「別にジェシカさんが身だしなみを整えてあげたらよろしいではありませんか?」
「はあ? アタシに出来るわけがないでしょう!?」
「まあ、貴族としての出で立ちを整えるというのは難しいと思います。あれはそういった教育を受けた侍女や侍従がするものですから。ですが、最低限の身だしなみならば出来るのではなくて? 髪を梳かして、簡素なシャツやスラックスを着せて、剃刀で髭を剃るくらいは可能なのでは?」
「はあ!? 無理よ、そんなの!」
「ジェシカさんは以前は村で暮らしていたのですよね? 村で身の回りの事はご自分でされていたのでしょう? それに平民は夫の世話を妻がすると聞きました。ならばそういった花嫁修業はなさっていたはずでは? 元々村長のご子息の花嫁候補だったのですから」
「え? ちょっ……なんでアンタがそんなこと知ってんのよ!?」
自分の素性を知られていることにジェシカは警戒の目をアリッサに向ける。
得体の知れない女だとは思っていたが、まさかこちらの情報を握られているとは思ってもいなかった。しかも貴族なのに平民のことにも詳しい。
「あ、それとも村長のお宅は身の回りの世話をする小間使いがいたのですか? それでしたらジェシカさんが世話をする必要もないですし、そういったご教育を受けていないかもしれませんね」
「いないわよ小間使いなんて! 村長っていっても、そこらの村人と一緒よ。小間使いなんて雇えるお金なんてないわ! というか、そんなことはどうでも……あれ、なんでアンタはそんなに身だしなみがきちんとしているの……?」
今初めて気づいたのだが、邸内から使用人がいなくなったというのにアリッサは髪も服もきちんとしており、化粧までしていた。確か彼女は自分の家から使用人は連れてきていないはずなのに……。
「ああ、私はいざという時の為に自分で身支度を整えられるよう教育を受けておりますので。といっても、服に関しましては着脱が楽なワンピースになってしまいますけどね。ドレスは一人では着られませんので」
「嘘よ! アンタみたいな貴族のお嬢様がそんなこと出来るわけないわ! 本当は部屋に使用人を隠しているんでしょう!? 白状しなさいよ!」
「疑うのでしたら部屋の中を検めてもらってもいいですよ? まだ父……いえ、ヴィクトリアが寝ておりますけど、まあ構いませんよ」
「……っ!? ふ、ふん! 今は止めておくわよ!」
「あら? 遠慮なさらずともよろしいのですよ?」
「いいって言っているでしょう! しつこいわよ!」
ジェシカはヴィクトリアこと中年女装男フロンティア子爵が苦手だ。
アリッサもそれは分かっているのでわざと引き合いに出したのだが、まさかここまであっさり引き下がるとは。
「それよりも! 一晩で使用人がこんなに辞めちゃうなんておかしいわよ! アンタが何かしたとしか思えないの!」
「いえ、私ではありません。どちらかといえば侯爵様の怠慢が招いた結果と言えるでしょうか」
「は? 何よ、それ? どういう意味よ?」
「説明するのは難しいので簡潔に申し上げますと、そのうち侯爵様の爵位が没収されるということです」
「はあああ!? 爵位が没収? 何それ? どういうことよ!」
とんでもない発言を表情も変えずにあっさりと告げるアリッサにジェシカは目を吊り上げて詰め寄った。
簡潔に、と前置きされたが説明にすらなっていない。
「その前にお聞きしたいのですが、ジェシカさんも関わっているんですか?」
「は? 関わっている? 何に?」
本当に分かっていない様子のジェシカ。
アリッサは今回の件にもしかするとジェシカも関わっているのかと疑っていたが、この反応を見る限り無関係のようだ。
いや、そもそも……これは完全に勘でしかないのだが、侯爵自体もこの件に関わっていないのだと思う。
領地で禁止植物が栽培されている、と聞けば大体の人がその領地の責任者である領主が首謀者だと思うだろう。しかし、おそらくは無法地帯の領地で領主の知らぬ間にやられてしまっているだけだ。その証拠に家令にカマをかけてみたが彼は本当に何も知らなかった。
自分の代わりに領地に視察へ行かせている家令が共犯でないのなら、侯爵が首謀者ではないと考えられる。経緯は分からないが侯爵が知らない間に領地で何者かが好き勝手に禁止植物を栽培しているのだろう。
真実はこれから明らかにされていくはず。
おそらく祖父がこのことを国王に報告しているから、近いうちに王家から騎士団が派遣されるはずだ。
「侯爵様は逃げられないでしょうけど、ジェシカさんは……どうでしょうかね」
「だから何の話!? 止めなさいよ、そういう不穏なことを言うのは!」
会話になっていない発言を繰り返すアリッサに苛つき、ジェシカは地団駄を踏んで抗議した。この訳の分からない状況で、一人だけ全てを見透かしたような態度でいることに腹が立って仕方がない。
「もう……なんなのよ! アンタが来てからこの屋敷はおかしくなっちゃったわ! 今まで幸せだったのに……どうしてくれるのよ! 責任取りなさいよ!」
「責任とは? いったい何に対して?」
「だから、屋敷をおかしくした責任よ! だってアンタが来てからおかしくなっちゃったんだから! それに……屋敷だけじゃなくてマクスもよ! このっ、泥棒猫!」
息継ぎ無しで捲し立てたせいか、ゼエゼエと息切れをするジェシカをアリッサはじっと眺めた。
温度を感じさせない冷たい目は見る者をゾッとさせるような恐ろしさがある。
「ひっ……!? な、なによ……文句でもあるの!?」
「いえ、文句はありません。ただ……非常に馬鹿馬鹿しいことをおっしゃっているな、と思っただけです」
「ば……馬鹿馬鹿しいですって!?」
アリッサの辛辣な発言にジェシカは再び怒りを燃え上がらせる。
怒ったり怯えたりと忙しい人だな、とアリッサは呆れた顔をするのだった。




