第132話:旅立ちの朝は、重たい胃もたれとともに
いつもお読みいただきありがとうございます!
前回の第131話では、不思議な本が光り輝き、ついに次なる目的地『エルフの隠れ里』が示されました。
感動のタルト編、これにて本編は見事に完結を迎えたのですが……。
皆様、忘れてはいけません。
その本編の裏舞台(第130話)で、萌ちゃんの涙目を阻止するためだけに「真っ黒焦げの炭」や「鉄板生地」を命がけで完食した大人たちの存在を――。
今回は、そんな優しくて過保護な男たちの、ちょっと
(かなり)悲惨な翌朝のお話です。
お肌ツルツルで無敵なお母様との温度差にぜひクスッとしていただければ幸いです!
爽やかな朝の光が、公爵家の立派な窓から差し込んでいた。
小鳥たちのさえずりが聞こえ、まさに新しい旅立ちの朝にふさわしい
最高の目覚め――。
のはずだった。
「……う、ぐ……。さすがに、昨夜は少々食べすぎただろうか……」
いつもなら完璧な身のこなしで優雅にベッドから起き上がるはずのジント様が、今朝ばかりはまるで重い荷物を
背負ったかのように、のろのろとお腹を押さえて起き上がってきた。
その顔は、普段の陶器のような美肌が
どこへやら、ほんのりと青白い。
昨夜、萌ちゃん(うさぎ姿)の
「みゅ〜う(食べ物を捨てるのはイヤ
でしゅ)」という切なげな鳴き声に心を動かされ、深夜のキッチンで繰り広げられた決死のフードバトル。
ジント様は魔法での隠蔽を却下され
みちゃーれの『分離したドロドロ生焼けカスタードクリーム』を一気飲みするという暴挙に出たのだ。
最高峰の魔術師の胃袋をもってしても、水分と油分が完全に喧嘩した地獄の液体は、一晩中腹の中で大暴れを続けていたらしい。
「おはよう、ジント。……ふっ、情けないな。あの程度の甘味で胃を痛めるとは。私は至って、いつも通り、万全
だよ……?」
コンコココン、と小気味いい音を立てて部屋に入ってきたのは、アレク兄様
だった。
いつも通り、一点の乱れもない完璧な
制服姿。
メガネの奥の瞳は知的で、どこからどう見ても公爵家の長男としての威厳に満ち溢れている。
だが、その声は心なしかいつもより
二オクターブほど低い。
というか、喋るたびに喉の奥から
ヒィ、と微かな風切り音が漏れている。
そしてその立ち姿。
一見すると直立不動の美しい姿勢だが
よく見ると両膝がほんの少しだけ内側に絞られ、ガチガチと小刻みに震えて
いた。
(くっ……! だ、誰も私に話しかけるな……! 今、少しでも腹筋に力を入れたら……一歩でも大股で歩いたら
すべてが終わる……!)
アレク兄様は心の中で、人生最大の
絶望と戦っていた。
昨夜、彼はライダ兄様が混ぜすぎた
『フォークも通らないカチカチの鉄板生地』を3枚同時に口へねじ込まれたのだ。
高密度に練り上げられた小麦粉の塊は
一晩経っても全く消化される気配を見せず、今やアレク兄様の下腹部で猛烈な
G(重力)を発生させている。
(トイレ……! 今すぐ廊下の突き当たりの個室へダッシュしたい……!
だが、公爵家長男としてのプライドが、そんな無様な姿を晒すことを許さない……っ!)
額にねっとりとした冷や汗を浮かべながら、アレク兄様は冷徹な仮面の裏で、トイレへの最短ルートを必死に計算していた。
「ううう……兄貴ぃ……よくそんな平気な顔してられるな……。俺、もう一歩も動けねえ……」
ズリズリと這うような音を立てて現れたのは、ライダ兄様だった。
いつもなら元気いっぱいに剣を振り回している野生児が、今は見る影もなくお腹を抱えて顔を真っ青にしている。
昨夜、料理長が火加減をミスして生み出した『真っ黒焦げの炭素の塊』を男気で見事に完食した代償は、あまりにも大きすぎた。
「……お、おい。お前たち、そこにいるのか……」
さらに奥の主寝室からは、公爵家当主であるお父様の、地獄の底から響くような掠れた声が聞こえてきた。
恐る恐る覗いてみると、普段は国を揺るがすほどの威厳を持つ最強のお父様が、ベッドの上で完全に横になり
大きなお腹を両手でギュッと押さえてうめいていた。
「胃が……。胃の中に、凄まじい密度のドワーフの鉄鋼が詰まっているかのように重い……。今日の公務は……すべて……おやすみだ……」
完璧すぎて失敗したエリートタルト
生地を神速のスピードで胃袋に詰め込んだ結果、公爵家のトップが完全に機能停止に追い込まれていた。
まさに満身創痍。公爵家の男たちと最強の魔術師が、たった数枚の失敗作のお菓子によって全滅を喫していた
その時――。
「あら? 皆様揃ってどうなさいましたの? 新しい旅立ちの朝ですのに
だらしがありませんわよ?」
パッと部屋の空気を明るくするような華やかな声とともに、お母様が姿を
現した。
その瞬間、男たちの目が一斉に点に
なる。
お母様は、すこぶる元気だった。
それどころか、最高級の小麦粉と新鮮なバターの栄養をすべてその身に吸収したかのように、お肌はツルツルのピカピカに輝いている。
昨夜、一番美しく焼き上がったエリートタルトたちを優雅に何枚も召し上がっていたはずなのだが、胃もたれの「い」の字も感じさせない、何事もなかったかのような美しい笑顔を浮かべていた。
やはり、この家で一番強いのはお母様なのかもしれない。男たちが無言でそう確信した。
「きゅ? みゅきゅ~う……?」
そんなカオスな空間に、足元から
なんとも愛くるしい、ちっちゃな心配
そうな鳴き声が響く。
長いお耳をぱたぱたと揺らしながら
不思議そうに大人たちを見上げているのは、もちろん萌ちゃんだ。
昨夜、みんなの愛の隠し味で心の成長を遂げた彼女は、今朝はすこぶる体調が
良い。
つやつやの白い毛並みを輝かせながら
元気に朝の挨拶に来てくれたのだ。
(あれれ? ジント様もお兄様たちも
お父様も、なんだか顔色がすっごく悪いよ? お母様はあんなにキラキラしてるのに、どうしちゃったんだろう?)
言葉は通じないけれど、萌ちゃんは
短いおててを一生懸命に伸ばし、一番近くでガチガチと震えていたアレク兄様のブーツの裾を、きゅきゅっと優しく引っ張った。
「みゅー、きゅきゅっ?(お兄様、お腹いたいの?)」
それは、天使のような純粋無垢な気遣いだった。
「ひっ……!?」
だが、今の彼に触るなと言わんばかりのタイミングである。
アレク兄様の顔から血の気が完全に
引いた。
「ああ、萌ちゃん……。お兄ちゃんは
大丈夫、だよ……。ただ、少々、緊急の用事を思い出した。……失礼する……!」
アレク兄様は上半身を一切動かさないという、驚異的な体幹の強さを発揮しながら、すり足(時速1キロ)で部屋の
扉へと向かう。
「ライダ、父上、ジント……。後は
頼ん、だ……(限界)」
部屋の外へと消えていくアレク兄様の背中からは、悲壮感すら漂っている。
おそらくこの後、公爵家最奥のトイレへと、静かなる決死のダッシュ(すり足)が敢行されるのだろう。
「あ、ずるいぞ兄貴……! 俺も……俺もトイレ行く……!」
ライダ兄様もお腹を押さえながら
生まれたての小鹿のような足取りでその後を追っていった。
残されたジント様は、未だにお腹をさすりながら、ベッドの上で丸くなる
お父様を見て困ったように苦笑いを
浮かべた。
「はは……。みんな、相当無理をしていたようだね。萌、お母様、私たちは少し冷たい水でも飲んできましょうか……」
「きゅ、きゅ~?」
(やっぱりみんな、寝不足なのかなぁ?)
萌ちゃんは首を傾げながら、お肌ツルツルのお母様に抱っこされ、廊下へと消えていく男たちの後ろ姿をのんびりと見送るのだった。
新しい章、エルフの隠れ里への
旅立ち。希望に満ち溢れた朝のはず
だったが――どうやら、実際の出発までは、もう少しだけ時間がかかりそうで
あった。
(第132話 終わり)
第132話をお読みいただき、ありがとうございました!
萌ちゃんを守るためにリミットブレイクした代償は、公爵家の最強の男たちとジント様を完全にノックアウト
してしまいました(笑)。
アレク兄様の決死のすり足、ライダ兄様の小鹿のような足取り、そしてベッドから動けないお父様……。
そんな中でお菓子の栄養をすべて吸収してツヤツヤなお母様がやっぱりこの家で最強のようです。
言葉は通じなくても、みんなが自分を思ってくれている空間でのんびり首を傾げる萌ちゃん、今日もとっても
癒やされましたね!
胃もたれが治るまで出発はお預けとなってしまいましたが、次回からはいよいよ本格的に新章『エルフの隠れ里編』が動き出します!
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