第333話 上手に使って、ね
少し湿り気を帯びた柔らかな感触が顔に触れて、ファイの意識は覚醒する。
「う、ん……?」
重いまぶたを開いてみれば、こちらを見下ろす中型犬と目が合った。
「わふっ♪」
ハフハフと息を吐きながら、舌を出してファイを見下ろしている犬。鼻周りが白く、目の周りや耳が黒い。そして、何より特徴的な、左右で色の異なる瞳。
右目が水色であることから、すぐにファイは目の前の犬が誰であるのかを特定した。
「ムア……?」
ファイの言葉に目の前の犬、もとい、獣化したムアが「わんっ!」と元気に鳴く。どうやらムアがフワフワの肉球でファイの顔を踏んづけ、起床を促していたようだった。
寝ぼけまなこのまま、とりあえず目の前にあるモフモフへと手を伸ばすファイ。だが、ファイの手が毛並みに触れるより早く、ムアは踵を返してファイの上から退いてしまった。
「ユア~、ファイが起きた~」
尻尾をぶんぶんと振りながら、双子の姉の名前を呼ぶムア。彼女の毛並みを追いかけるようにファイが身を起こすのと、ユアがやって来るのがほぼ同時だった。
「あ。ふぁ、ファイちゃん様……。おはようございます……」
「うん、おはよう、ユア。えっと……」
「わふ?」
ひとまず獣化したユアを捕まえておくファイ。腕の中で疑問の鳴き声を上げながらも抵抗を見せないムアを撫でながら、周囲を見回す。
と、ここでようやくファイは、自分が今いる場所がユアの実験室であること。また、自分がユアの物と思われる寝台に寝かされていることに気づく。
ついでに、いま腕の中にいるムアの毛がべたついていることもきちんと感じ取った。
以上3点の理解の中からファイが真っ先に触れたのは――ムアの毛並みについてだ。
「ムア。お風呂入ろう」
「きゃいんっ!? い、嫌だ~!」
お風呂嫌いらしいムア。ファイの口からその単語が出た瞬間、鼻先から尻尾の先まで全身を使って全力の抵抗を始める。
そして、獣化して力が落ちているとはいえ、今のムアは橙色等級の魔獣くらいの身体能力はある。現在のファイに、彼女を取り押さえるだけの力はない。
なんなら、暴れるムアの足がファイのお腹に触れた瞬間、パキッ、と。ファイの体内から乾いた音がする。
「あ゛っ、う゛ぅ……」
「あっ……」
ろっ骨が折れた痛みで思わずユアを手放してしまうファイと、自身のやらかしに気づいたムアの声が重なる。
恐らくムアは、少しでもファイに怪我をさせるまいとあえて獣化していたのだろう。姉のユアが人の姿である一方、ムアがわざわざ身体能力が落ちる獣化形態を取っているのが良い証拠だ。
「わ、わふ……ふぁ、ファイ……。その、ごめんね~……」
寝台の上。尻尾を後ろ足の間に通したムアが、前足をファイの胸辺りに乗せて謝ってくる。
そんなユアの頭を優しく撫でてあげながら、ファイは首を振る。
「だ、大丈夫……。私に“痛い”は、ないから」
「わぅ? そんなわけないじゃん。ファイ、痛いときの汗の臭いするし、それに……」
言いながらムアが骨が折れた部分を軽く前足でつついてくる。当然、ファイの喉から漏れるのはうめき声だ。それと同時に、大量の脂汗が全身からにじみ出る。
「ほら! ファイ、嘘つきだ~」
「ち、違う……よ? これは痛いんじゃな……う゛っ」
「えい、えい♪」
弱みを見せたファイに、ガルン人としての本能がうずいたらしい。先ほどまでの申し訳なさそうな態度から一転、尻尾を振りながらムアがファイのお腹をつついてくる。
ただ、ファイも道具としての在り方を捨てるつもりはない。顔を土気色にしながら、懸命に痛みに耐える。
と、そんなファイに救いの手を差し伸べてくれたのは、ユアだった。
「ちょっとムア! やめなさい!」
「きゃんっ! あははっ、ぶらぶら~♪」
ファイにじゃれつく妹の首根っこを掴み上げ、宙ぶらりんの状態にするユア。その声や話し方は、ファイがよく知るものとは違って親しみがにじんでいる。
一方のムアには一切悪びれた様子がない。「まったく……」とため息をつくユアの態度を見るに、姉妹にとっては日常的なやり取りなのだと思われた。
「ふぁ、ファイちゃん様。ムアがごめんなさい。これ……」
ファイとなるべく目が合わないようにしているのだろう。チラチラとこちらを見るユアが、いつものたどたどしい仕草と話し方で小さな手を差し出してくる。
そこに握られていたのは、透明な細い瓶に入った緑色の液体――傷薬だ。ルゥお手製の物と形状や栓が違うことから、恐らく市販のものだと思われた。
これはありがたいと受け取ろうとしたファイだが、すぐに思いとどまる。コレを受け取れば、痛がっていることを認めることになる気がしたからだ。
「ひ、必要ない……よ? だって私は――」
道具だから。いつもの台詞を吐こうとしたファイの口に、ユアが容赦なく傷薬の入った瓶を突っ込む。もちろん、直前に栓が抜かれた状態で、だ。
「ご、ごちゃごちゃ言わないで飲んでください……。今のファイちゃん様は、ユアよりザコザコのよわよわなんですから……」
「ごぼ!? んく、んく……」
嚥下反射のまま、傷薬を飲み干したファイ。すると、あっという間にお腹の痛みが引いていく。
かつてお風呂場で、弱っていたミーシャの面倒を見ていたユアだ。
ミーシャ同様に普段から魔獣と触れ合っているからか、姉であるからか、その両方か。いずれにせよ、ユアの面倒見の良さが表れていた。
「ぷはっ……けほ、けほ……。ユア。なんで?」
よだれと傷薬で口回りをベトベトにしながら尋ねるファイ。それに対してユアは、ムアを寝台のすぐそばに下ろしながら応える。
「え、えと……。なんで傷薬を持ってるのかについては、このあと使う予定だから、で……。どうしてこの部屋にいるのかについては、ムアにファイちゃん様を運んできてもらったから、です……」
「そうそう。ファイが弱ってる間に、ユアが実験するんだってー」
言葉足らずのファイの質問を多方面から解釈し、それぞれについて回答するユア。そんな姉をさらに補足する形で、寝台からひょっこり顔だけを出すムアが牙をのぞかせる。
まるで図ったように台詞の分担をするユアとムアに、コレが双子かと内心で驚くファイ。ただ、彼女の興味はすぐに姉妹の発言へと向けられる。特に、妹のムアが口にした「実験」という単語だ。
「じ、実験……?」
「そうそう。ファイが発情期? で弱ってる間に、色々するんだってー」
「そうなの、ユア?」
ファイの確認に、ユアがそっぽを向きながら頷く。
薄暗い研究室。ユアの横顔に浮かんでいる表情が「楽しみ」であることをファイは見逃さない。事実、ユアの黒毛モフモフの尻尾を見てみれば、案の定、左右にブンブンと揺れていた。
「おふ……」
ファイの喉から思わず困った声を漏れる。
思い返せばユアと知り合った当初、彼女はウルン人であるファイの生態に強い興味を示していた。どれくらいかと言えば、鼻息荒くファイの身体を解剖しようとしていたほどだった。
結局、ニナが禁止令を出し、かつ、ファイがユアを“分からせ”したことによって、ユアから強引な実験の誘いは鳴りを潜めていた。
しかし――
「ピュレでちょこ~っとだけファイちゃん様を監視してたんです……。そうしたら、少し前あたりから小さい方の白いウルン人がファイちゃん様を守るような動きをしてるじゃないですか! これは例の弱体化期間だって思って、わざわざムアに運んできてもらったんです!」
夢中になっている証として、早口で話すユア。虚空を眺めながら話す姿にはある種の狂気が感じられ、知らずファイの身体がブルリと震える。
(そ、そう言えばユア、ピュレでとーちょーするのが趣味だった……)
魔獣開発の傍ら、自身の身を守る術として他者の弱みを握ることを日課としているユア。彼女の目となり耳となるピュレが、このエナリアには数多く配置されている。
そんなピュレたちを通して、ファイの弱体化を察知したらしい。などとファイが考えていれば、ユアが寝台に飛び乗ってきた。
「それで! こうやって実際に確認してみたら! ニナ様もたまに匂わせている血の臭いがするじゃないですか! これが人間族の生理……! ファイちゃん様自身も言っていたウルン人の、弱点なんですね!」
知識として知っていたものを、実際に見て、体験できた。その喜びを左右で色の異なる瞳に宿しながら、ファイに迫ってくるユア。
彼女が瞳に宿すのは、“好奇心の闇”だ。
強者であるニナからの実験禁止令。ガルン人である以上、本来であれば本能的にユアはファイで実験を行なうことができない。
だというのに、ユアはこうしてファイで実験をしようとしている。
強者に従う本能すらもはねのけてしまうくらいの圧倒的な好奇心が、ユアの瞳に闇として広がっているのだ。
その証拠に、普段はほとんど目を合わせようとしてくれないユアが、真正面からファイを見ている。これから行なうことへの楽しみ、知識が満たされることへの期待が、ユアを盲目にしているようだ。
「大丈夫ですよ、ファイちゃん様! これもファイちゃん様のため! きっとニナ様も認めてくれます! だから……いいですよね♪」
言うや否や、ファイのことを押し倒してくるユア。非力な印象のユアだが、2段階進化をしたれっきとした魔物だ。不調のファイが力で敵うはずもない。
「ムア! アレ、持って来て!」
「わおーん! これ、ムアでも勝てない時のユア! 今のファイだったら死んじゃうかもね♪」
楽しそうにファイを押さえつける姉の姿に、同じく楽しそうな声を漏らすムア。さすがに誇張はあるだろうが、どうやら今のユアはムアをも恐れさせる“無敵”の状態らしい。
遠ざかっていくムアの可愛いお尻から視線を切り、目の前――ファイの両腕を押さえつけながら、至近距離でこちらを見下ろしているユアへと目を向けるファイ。
残されたわずかな時間でユアの翻意を促す――わけではない。
そもそもファイに、実験を止めさせるつもりはない。隙をさらしたのは自分だし、自分を使った実験でユアが“幸せ”になれるのであれば、ファイとしては万々歳だからだ。
ゆえにファイがユアに伝えるのは、1つだけだ。
「ユア。上手に私を使って……ね」
自分を使って、きちんと“幸せ”になってほしい。道具である自分の生、あるいは死に、きちんと意味を見出してほしい。
道具として絶対に口にはできない自身の願い。それを優しい口調のまま、不器用な形で伝える。
この時にファイが浮かべていた表情に、何かを感じたのだろうか。ユアの瞳から、狂気の闇が消えていく。
瞳孔が収縮し、理性の光を瞳に灯したユア。至近距離でファイと見つめ合っている状況に、ようやく思い至ったらしい。「わぅ」と気弱な悲鳴を上げて、顔を赤くする。
ただ、彼女と目が合ったということは、ファイの考えていることがユアに全て筒抜けになったということでもある。
だからかもしれない。微かに目を見開いたユアは、今度こそ眼下に居るファイをまっすぐに見たかと思うと、
「ま、任せてください……!」
改めて実験の続行を、宣言するのだった。




