深夜に
深夜遅く、ある村の小さな家の扉が叩かれる。
とっくに眠りについて静かな家にコンコンッ、と扉を叩く音が鳴り響き、何度目かのノックの音でその家の住民が目を覚ます。
眠りから覚めたその家の住人の女性は少し乱れた状態の髪もそのままに、隣ですやすやと気持ちよさそうに眠る少女を起こさないように物音を殺してそっとベットから抜け出す。
ひんやりとした空気の中、彼女が窓から入ってくる月の光を頼りに扉の前へと行くと、再度扉が叩かれる。
「ーーーどちらさま?」
普段ならこんな時間に人が訪ねてくるはずもないし、仮に村のどこかで火事でもあればもっと大きな騒ぎになっている筈で、女性が警戒しつつそう扉の向こうにいる人物に問うと扉の向こうから返事が返ってくる。
「私だ」
低い、聞き慣れたその声を聞いて、無意識のうちに詰めていた息をほっと吐き出した女性は扉にかかっていた留め木を外ずして扉を開く。
軽く引けば、ギィッっと軋む音を立てて開く扉。
まだ冬の名残を残した外の空気は冷たく、扉から僅かに吹き込んできた風にその女性はふるりと身体を震わせる。
「すまないな」
女性にそう言って中に入ってきたマントを被った男、ヴァイスハイトは背中に1人の少年ーーカイルーーを背負っていて。
「おかえり……って、兄さん、この子はどうしたのさ」
煤や埃に汚れて少し白くなっている深い蒼色の髪で顔を覆い隠した少年を見て驚いたようにそうヴァイスハイトに問いた女性。
「人買いから逃げていたところを助けたんだ」
そう言ったヴァイスハイトはぐったりと四肢を投げ出して彼の背に覆いかぶさるように乗って眠っているカイルを暖炉の前に置いてある樫の木で出来た簡素な椅子に下ろす。
「へぇ」
ヴァイスハイトと同じ色をした目を軽く見開いて驚いたようにそう言いながら彼女はヴァイスハイトがカイルを椅子に下ろすのを手伝う。
カイルの身体は彼女の想像よりもずっと軽く、彼女は手応えのない軽さに少し不安を感じながらも楽々とした様子でカイルを椅子に下ろすが、カイルは彼女に身体を持ち上げられても起きることなくぐったりと頭を垂れる。
そんな彼を見つめた彼女は彼が薄汚い格好をしていることに気がつくと部屋の隅に置いてある大きめの壺に近づいて、桶に一杯の水を汲む。
ついでに桶を片手にマッチで火をつけた彼女は燭台に刺さっている蝋燭に灯を灯す。
「わざわざそんな子を拾ってきたってことは、この子を兄さんの跡継ぎにでもするのかい?」
蝋燭のぼんやりとした明かりの中、隣の部屋で眠っている娘を起こさないように声を潜めて彼女がらそう聞く。
ヴァイスハイトは「うむ」と低い声で頷くと、昏々と眠り続けるカイルを見つめる。
「そのつもりだ」
その言葉に女性は大きな溜息をこぼすと、桶の中に浸したせいで水をたっぷり含んだ布をギュッと固く絞る。
「そんな急に言われてもねぇ」
そう言いつつも、彼女がヴァイスハイトに跡継ぎを作れと行った張本人で、実際は少し安心しつつ形だけ呆れた様子でそう言った彼女は絞った布を片手にカイルに近づいて行くと、彼の汚れた身体をそれで拭き始める。
黙々と少年の身体にこびり付いた汚れを落としてく彼女はふとため息をつく。
「跡継ぎが出来たのは手伝いも増えるし嬉しいけどねぇ。……まぁ、サナはお兄ちゃんかお姉ちゃんを欲しがっていたから喜ぶだろうし、いいのかねぇ」
カイルの腕を拭きながら彼女は今年で十歳になる自分の娘の名前を出してそう呟く。
その傍らで暖炉に火をくべ始めるヴァイスハイト。
シュッと音を立てて火をつけると、パチパチと木の燃える音がなり、あっという間に炎が上がってヴァイスハイトはオレンジの光に照らされる。
少し炎の前でじっとしていたヴァイスハイトは隣に置いてあったまだ中身の残っている鍋を手に取ってそれを暖炉の炎の上に吊るす。
残っていたのはこの地域に昔から伝わるいわゆる伝統食という代物で、ヴァイスハイトの好物でもあった。
表情には出さないものの内心喜びつつ、ヴァイスハイトが鍋の中身を木ベラでかき混ぜているとだんだんとそれは温まってきて、いい匂いを部屋中に漂わせながらグツグツと煮立ってくる。
ヴァイスハイトが暖炉の前で冷たい風に吹かれて冷えていた自身の身体も暖めていると
「リアンも稽古にちょうどいい相手ができたって喜ぶんじゃない」
「ああ」
彼女が今唯一ヴァイスハイトの稽古を受けている村の少年の名前を出し、ヴァイスハイトは彼女の言葉に頷く。
村の男達は大抵自分よりも年上の熟練の者に稽古を付けてもらって己の腕を磨く。
ヴァイスハイトも幼い頃からそうやって己の腕を磨いて来たが、十年ほど前にヴァイスハイトの師匠が世を去ってからはヴァイスハイトが教える側に立ち始め、ヴァイスハイトはすでに十人余りの村の男子に稽古をつけていた。
しかし、去年まではヴァイスハイトの稽古を受けていたのはリアンも含め四人だったのだが、リアンよりも幾つか年上だった三人は成人の年齢に達し、それぞれ村を出て都市へと仕事をしに行ったり、家を継いだりとしなくてはいけないため稽古を卒業したのであった。
それからはリアンはヴァイスハイトと一対一で稽古をしていて、それはそれで実力が付きそうだが、共に刺激しあえる同年代の者がいた方が成長できるというものだろう。
温めたスープを食べながらヴァイスハイトが考えを巡らせていると、背後でカイルの身体を拭いていた彼女が僅かに息を呑む音がする。いつでも冷静というか、肝の座っている彼女が驚くのは割と珍しく、ヴァイスハイトは皿の中身をかき混ぜていた手を止める。
「兄さん」
静かな声がそうヴァイスハイトを呼んで、ヴァイスハイトが彼女を振り返ると、彼女は髪をどかしたせいで露になったカイルの、少し力を込めて握れば折れそうなほど細い項を凝視していた。
「これ……」
小さな声でそう言った彼女の表情がその先に続けるつもりだった言葉を物語っていて。
カイルの項に刻まれていたのは、黒く焦げ付いた跡の残る人買いの意味を示すための烙印で、知識とは知っていても、初めて目にするそれの生々しさに彼女は目を奪われる。
痛々しいあとを残すそれに痛ましそうに僅かに目を細めた彼女は少年の項にそっと伸ばす。
そこに彼女の日々農作業やらををこなしているせいで少しかさついた手が触れる寸前、まるでそこに触れられることを拒絶するかのように不自然に少年の身体が前へ傾いた。




