差し伸べられた手
暗闇に包まれた街の中を一人の少年が駆けて行く。
その後ろから五、六人の男たちが、とっくに眠りについた静かな街に不釣り合いな怒鳴り声を上げて少年を追いかけていく。
街の人々は厄介ごとに巻き込まれないように息を潜めているのだろう。聞こえるのは自分の荒い息遣いと足音に男達の怒鳴り声だけだった。
「まてぇ!」
使い古した雑巾とでも言えそうなほどボロボロの服を身に纏った少年は、後ろから掛けられた怒鳴り声にも耳をくれず走り続ける。
で傷付いた少年の足から流れた血が地面を赤く黒く汚していく。
ーーーーー身体中が痛い。
毎日のように鞭や暴力で虐げられて身体中についた擦り傷や打撲などの傷の痛みに以上に、ずっと走っているせいで、足が一番深刻な痛みを少年に伝えていた。
じんじんともじわじわとも表現出来ない痛みに、なるべく痛まないように走ろうと思っても、手加減をして走っていたらあっという間に捕まってしまうだろうという状況が簡単にはそうはさせてくれない。
痛くて、苦しくて少年は正直立ち止まって休みたかった。
しかし、今立ち止まったら前と同じ、人として扱われず、動物や物としてしか存在できない暮らしに戻ってしまうということに対する恐怖心が彼を動かしていた。
この男たちから逃げられれば自由が手に入る。
その思いだけで夜の街の路地裏をどこに向かっているのかすらわからないまま少年は走り続けた。
ーーーーーーー身体中が痛い。
同じ考えが頭の中を無限にループし、痛みと疲労で思考が麻痺してきた中、追いかけてくる男たちを振り切ろうと、咄嗟に道の角を曲がった少年はその先に居た男に反応しきれず、走ってきた勢いそのまま男にぶつかる。
「う、わっ……」
ドッと音を立てて弾き飛ばされた少年。
少年の細い身体はいとも簡単に吹き飛ばされ、少年はズシャッと音を立てて地面に尻餅をつく。
少年とぶつかった男は少しもよろめいた様子のないが少し驚いた様子を見せつつ、闇に紛れた色のマントの裾からさっと少年に手を差し伸べる。
「すまない。大丈夫か」
「っ、……」
低いその声にビクッと怯えたように体を震わせた少年はキッと顔を上げると男を睨みつける。
「お主は…」
少年の青い瞳に睨みつかれて、少し驚いたような声色で男がなにか言いかけたとき、後ろから少年を追いかけて来ている男達の怒号が聞こえて来て、ハッとした表情を浮かべた少年は男の手を借りること無く再び立ち上がると男の脇をすり抜けるようにして走り出す。
慌てて走り出した少年と少年を追いかける男たちの距離は少年が男とぶつかったロスタイムにより縮まっていて、さっきより近くから聞こえてる怒号に後ろを振り向いた少年は、その距離の近さに焦りを隠せない様子で唇を噛み締めながら走っていく。
焦った少年が更に細い路地裏に逃げ込み、暗い道を進んでいくと、家々の壁で円状に囲まれた場所に出る。
ーーーーーーー行き止まり?
少年の脳内がその言葉を弾き出して、麻痺しかけていた脳が現状を認識した瞬間、少年は目を見開く。
慌てて後ろを振り向いた少年。
少年の視線の先からニヤニヤと軽薄な笑みを浮かべた男が息を荒らげながらゆっくりと近づいてくる。
「っ……」
「もう逃げられねぇなぁ」
ーーーーーーーーー追いつかれた。
そう気付いた時にはときすでに遅し。
少年は腰に剣を携えた、一様に黒く同じデザインの服を来た五人の男たちに囲まれる。
「お前にはいい客が付いてんだよ。逃がすかっての」
周りの黒い服の男たちとは一人だけデザインの違う服を着た、どこか蛇を連想させる顔立ちのこの一団のリーダーである男ーーダルドーーが笑みを含めた軽薄な声ででそう言うと、周りにいた男達が少年を捉えようと手を伸ばす。
逃げ出そうとあがくものの、手を強引に掴まれ、少年の軽い身体は簡単には引きずられる。
「やめっ、ろっ……。はなせっ!」
バタバタと対抗するものの、少年の細い身体では対抗することが出来ず、地面を引きずられ、いとも簡単に後手に捉えられた少年はダルドを恨めしそうに睨みつける。
ニヤニヤと下衆な笑みを浮かべて少年を見下ろしたダルドは、ボサボサに乱れた少年の髪を乱雑に掴み上げる。
「手間かけさせやがって…」
ニヤニヤとした表情から一転、憎々しそうにそう吐き捨てたダルドは少年の腹を蹴り上げる。
ダルドはプライドの高い人間である。
そのため自分より幼い人間に易々と逃げられた挙げ句、そいつのせいで上からの印象が下げられたことが悔しいのだろう。
「ぐっ……」
空気を一気に吐き出したような呻き声を上げて崩れ落ちる少年。
ダルドはその背を執拗に踏みつけ、蹴り飛ばす。
「どうせお前らは一生逃げられねぇンだよッ」
ダルドがそう言って、少年の背中を踏み躙り、少年は汚れているものの端正に整った顔を悔しそうに歪ませる。
「お前ら、さっさとこいつを連れて帰るぞ」
ダルドがそう言って少年の背中から足を退かすと、周りの男たちが引きずるように無理やり少年を立ち上がらせる。
うまく働かない脳みそに加え、ぐたりと力の入らない足で立たされる少年。
少年には気力はともかく、抵抗する体力はもう残っていなかった。
そして、男達が道を引き返そうと暗い道を振り返った時、彼らにどこか大木を連想させる低い男の声がかかる。
「止めんか」
その突然のことに、一瞬で空気が緊迫する。
「……なんだジジイ」
軽い声と一転、低い威嚇するような声でそう言ったダルドは突然現れた、闇と同化しそうな暗い色のマントを深くかぶった男を警戒の眼差しで睨みつける。
「死にたくなきゃどっか行きな」
手を剣の柄に添えてそう言ったダルド。
少年が朦朧とする視界の中見つめた、ゆっくりと近づいて来る男はマントに付いたフードを目深に被っていて怪しげな雰囲気を纏っている。
「私はわざわざ自分から危険に近づいていくほど愚かではない。……しかし、目の前で人が、特に年端もいかない子供が襲われている時のを眼の前で見せられて無心でいられるほど無情な人間では無いものでね。それにその者はお主ら達のとこで飼われるにはもったい無いと見た」
感情の滲まない声でそう言った男。
その声に気迫は感じられなかったが、その言葉は男の所属を理解した上で少年を助けるということを言ったも同然で。
一瞬でその言葉の意味を理解した男達は警戒の色を顕にし、腰に携えた刀を抜剣まではしないもののすぐに抜けるようにと柄を固く握りしめる。
「……それは俺たちへの挑発という事で構わないのか?」
低い声でそう尋ねたダルドにマントの男はフードから唯一覗く唇を微かに釣り上げる。
深く被ったフードに加え、暗闇の中のはずが異様にはっきりと見えた男の表情の変化を引き金に、ダルドの脇にいた屈強な二人の男がマントの男に襲いかかる。
男たちが素早く抜剣し、月の光を鈍く反射して不気味に光るそれをマントの男に向かって振り下ろす。
しかしその瞬間、男は冷静に身を引いて男達の斬撃を避けると、マントの中から剣を引き抜き、男たちに斬り掛かる。
キィンッと耳障りな音が響いて、何度も互いの剣がぶつかり合う。
何度もその音が響き、攻撃を受ける側のマントの男は鮮やかに剣を翻す。
しかし、そのうちに圧倒的に有利と見えた男達の剣が間に宙に弾き飛ばされた。
攻撃を受けてばかりだったマントの男の一瞬の反撃。
予想外のその光景に目を見開いて口をパクパクと開閉させたダルド。
しかし彼はすぐさま焦ったような様子を見せつつ素早く自身の剣を引き抜く。
「この二人に私の相手をさせている間に逃げる算段でも立てていたのように見えるな」
そう言ったマントの男は息を上げることもない様子でゆっくりと剣をダルドに向ける。
ダルドに向けられた剣が月光を反射して冷徹な光を発する。
考えを読まれていた挙げ句、それを行動に移す間も与えられずに潰されたことで顔を憤怒の色に染めたダルド。
「うるせぇッ!」
そう怒鳴ったダルドはマントの男に向かって斬りかかる。
ひょろひょろした見た目の割りに力のあるらしいダルドは、剣を扱ったことの無い少年が見てもわかるほど力強い斬撃を何度もマントの男に浴びせる。
しかし、それらを華麗な動きで全て受け流すマントの男。
またも幾度となく金属の擦れる耳障りな音が静かな街に響き、流石にお互いの息が切れかけてきた頃、
「お主らはディルバーディアンの人買いか?」
と、ダルドにそう問うマントの男。
少年にはそれはどういうものなのかはわからなかったが、マントの男が口にしたのはこの世界で一番勢力を伸ばしている人買いグループの名で、少年が囚われいた組織の名だった。
「うるせぇ!」
図星なのか、声を荒らげたダルドはこれで決着をつけると言わんばかりに勢いよく剣を繰り出す。
ブンッ、と低く風が唸り、鋭い一撃がマントの男に襲いかかる。
決まった。
誰もがそう思って瞬間、空中に剣が舞った。
「……えっ」
宙を舞った剣を見て、間抜けな声を上げたダルドが自分の手を見下ろす。
その手には握られているはずの剣はおらず、かわりに少し遅れてカランッと音を立ててダルドの剣が地面におちる音がやけに静かに感じる街に響く。
愕然とした顔を浮かべたダルドの首筋にゆっくりと剣を近づけるマントの男。
「死にたく無いのなら退くがいい」
男の顔からはフードが完全に外れていて、完全に現れた、皺の刻まれた顔が男の迫力を静かに伝えていた。
憤怒の色に顔を染めたダルドは憎々しげにマントの男を睨みつけながら、ゆっくりとその場を離れ始める。
「行くぞ……」
ダルドが回りの男たちにそう言って、男たちは躊躇う様子を見せるものの、マントの男の迫力に押され、そそくさとダルドに従って離れ始める。
男達が斬り合いをしている間、ずっと手下の男に取り押さえられていた少年は腹いせのためか突き飛ばされる。
しかし、少年のふらふらになった足では踏ん張ることが出来ずに少年はドサッと音を立てて倒れこむ。
「覚えてろよ。ディルバーディアンの人間に喧嘩を売ったことを」
低い声で憎々しそうにそう吐き捨てたダルドは男たちを引き連れて足早に去っていく。
倒れこんだまま取り残された少年に近づいた男は、手に握ったままの剣で少年の手首を縛り付けていた麻縄を切る。
ブチブチッと音を立ててちぎれる麻縄。
やっと自由になった手を使って上半身を起こした少年はぼんやりと自分の手首を眺めた後、あわててマントの男を見上げる。
しかし、少年とマントの男の視線は合わず、
「行こうか」
そう言った男はマントを翻して歩き出す。
戸惑いつつも慌てて立ち上がった少年は前を歩く男を追いかける。
「あ、あの……」
戸惑いを隠せないまま男に話しかける少年。
歩みを止めぬまま少年を見やった男は、先を促すように目を動かす。
「その、えっと、あなたは……誰、ですか」
ーーこんなことが聞きたいわけじゃないんだけど。
そう思いつつも予想もしてなかったーーーまさかこんなことが起こるとはと言った方がいいようなーーー出来事に何をどう聞けばいいのか混乱している少年。
それをわかっているのか、僅かに口角を上げた男は少年の問いに答える。
「私の名はヴァイスハイトだ。少々遠いところの村から物を売りにやって来た、ただのジジイだ」
僅かに笑みをたたえながらも、威厳を感じさせる声で紡がれるヴァイスハイトの言葉に少年は流されるまま頷きかけて、内心疑問を抱く。
ただのジジイに普段から鍛えている男達があっさりとやられるものではないだろう、と。
「お主の名はなんと言う?」
少年が僅かに怪訝な顔をした事に気づいていないのか、ヴァイスハイトは少年にそう問いかける。
その問いに少年の顔からは怪訝な表情が消え、少年は目を伏せる。
「......カイル」
ボソリと小さな声で答えた少年は地面を見つめる。
「カイル……か、自分で付けたのか?」
その問いに、小さく首を振るカイル。
「……友人が付けてくれました」
少年の名、「カイル」は少年が先ほどの一味、人買いの世界では有名なディルバーディアンというグループに囚われていた時、偶然同じ檻に入れられて歳が同じ位で仲良くなった、いまはどこにいるかも分からない友人がつけてくれたのであった。
それ以上この話に触れられたくないという事をカイルの表情から悟ったヴァイスハイトはふむ、と小さな声を漏らす。
「あの、」
うつむいたカイルが小さな声でヴァイスハイトを呼ぶ。
「なぜ、……僕を、助けてくれたのですか?」
普通の人ならば厄介ごとにわざわざ巻き込まれたくはないし、人買いに追いかけられている人間なんて厄介以外の何者でもなく、手を差し出すことなどもってのほか。
汚れた顔を上げて、ヴァイスハイトを曇りのない青い瞳でまっすぐに見つめたカイルがそう問うと、ヴァイスハイトは少し目を細めてみせる。
「普通、人買いに捕まった人間は逃げることを諦める。しかし、お主は自分で逃げてきた」
そういったヴァイスハイトは何かを思い出すかのように目を遠くに向けて、その姿をカイルはじっと見つめる。
「奴らが捕まえてくるのは浮浪者ばかり。絶対と言って良いほど、良い服を着た良い身なりの子供達は攫わない。……何故なら金を持った貴族たちは彼らにとって恐ろしい者だからだ。」
ヴァイスハイトのその言葉に、貴族とはダラダラと金を湧き水のように消費していく生活をしていると認識していたカイルは首をかしげる。
「なんで、ですか?」
「以前、人買いに貴族の御子息が誘拐された事件があった。その時、怒りに荒れ狂ったその息子の父親は金に身を任せ、集められるだけの兵力を集め、一つの人買いのグループを壊滅させた。」
ため息をついたヴァイスハイトの口から紡がれた予測外のその話に、カイルは小さく息を呑む。
「かいめつ……?……潰されたってこと、ですか?」
ポツリと漏れたその言葉に頷くヴァイスハイト。
「いくら小さな組織だったとしても壊滅まで持っていくのは難しい。貴族とはそれが簡単にできるほど、我々の想像以上の財を蓄えて生きている。……まぁ、それが悪いと言いたいわけではなく、この世界の当たり前だから仕方ないとも言えるがな。」
そういったヴァイスハイトはどこか厳しいとも取れる表情を浮かべる。
「それからは彼らは暗黙の了解で、身寄りもなくわざわざ取り返しに来るような者のいない浮浪者を狙うようになった。高い金の付く、見栄えの良い幼い子供は特にな」
そういったヴァイスハイトはため息を漏らす。
「しかも大体の浮浪者は生きる意味を自ら持たない。だから捕まえてもろくに抵抗すらせず、いつの間にか彼らの言いなり動く人形に成り果てる。」
その言葉に何かを思い出したのか、カイルは小さく身を震わせて自分自身を抱くように片腕を組む。
「わしはお主とぶつかった時、お主が自分で逃げているとわかって微かながら驚いた。人買いに買われてなお逃げ出そうとしている者がいるのかと」
そういったヴァイスハイトはどこか嬉しそうに微笑を浮かべる。
ヴァイスハイトは一見強面の男だったが、笑うと優しい雰囲気を纏う。
「本当は街を出るまで影から手伝おうかと思っていたのだが、お主が行き止まりの方へと走っていくので口を出させてもらったぞ。」
からかうような調子で言われた言葉に、カイルは頬を微妙に赤く染める。
「すみません......。無我夢中で、どこに向かっているのか分からなかったんです。」
そういって眉を下げるカイル。
その姿に微笑みを浮かべたヴァイスハイトはフードを深く被り直す。
「ここから3日ほど馬で走り続ければわしの住む村につく」
突然の話にきょとんとした表情を浮かべるカイル。
「わしは若い頃世界中を飛び回っていたせいで、伴侶という存在がおらぬのだ。……つまり跡継ぎがいない。最近は村で共に暮らしている妹にまでどうにかこうにか嫁は無理でも後継を作れとせっつかれていてな。」
カイルがヴァイスハイトの言いたいことを飲み込めずにいると、そこで言葉を切ったヴァイスハイトは苦笑を浮かべる。
「お主が嫌というなら強要はせんが、私の後継となりはせぬか?」
その言葉に目を瞬かせるカイル。
しかし、少し間を置いてから内容を理解すると顔をぱあっと明るくし、勢いよく頷いた。




