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暴虐の黒き竜と囚われの娘【R15版】  作者: いをり。
2章【囚われの日々】

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4話

洞窟の外には、白く丸い月が浮かんでいた。


レイラは木々の隙間から差す淡い光を頼りに、夜の山を下りていく。


破れたドレスの裾を片手で押さえ、もう片方の手で木の幹を探りながら、一歩ずつ慎重に進んだ。


やがて木々の向こうに見慣れた山道が現れ、レイラは小さく息をついた。


ここまで来れば、村へ続く道は分かる。


足元にはまだ暗がりが残っていたが、森の中よりは月明かりが届いている。


レイラは何度も足を取られそうになりながら、先を急いだ。


山を下りきった頃には、村はすっかり寝静まっていた。


家々の窓からはほとんど明かりが消え、夜道を歩く人影もない。


それでもレイラは破れたドレスの裾を押さえ、人目を避けるように家々の陰を進んだ。


誰かに見つかれば、きっと何があったのかと尋ねられ、心配されるだろう。


裂けた服も、汚れた身体も、決して見られたくはなかった。


やがて、暗闇の中に見慣れた家が浮かび上がる。


数日前まで暮らしていた、自分の家だった。


レイラは辺りに人影がないことを確かめると、戸口の脇にある石を持ち上げた。その下に隠していた鍵を取り出し、音を立てないよう静かに扉を開ける。


中へ入ると、すぐに扉を閉めて閂をかけた。


ようやく人目から逃れられたことに安堵し、扉へ背を預ける。


暗闇の中には、懐かしい家の匂いが残っていた。


ほんの数日しか離れていないはずなのに、随分と長い間、帰っていなかったように感じられる。


レイラは壁を伝いながら窓へ向かい、外へ光が漏れないよう、鎧戸を一つずつ閉めていった。


それから棚の上を手探りし、マッチの小箱を取り出す。


一本だけ抜き取り、箱の側面へ擦りつけると、小さな炎が暗闇に浮かび上がった。


その火を燭台の蝋燭へ移す。


淡い明かりが揺らめき、数日ぶりに見る部屋をぼんやりと照らした。


見慣れた机も椅子も、山へ出かけた日のまま残されている。


レイラはそれらを見つめたあと、すぐに浴室へ向かった。


破れたドレスを脱ぐと、肌には汚れだけでなく、ヴェルドラに掴まれた痕がいくつも残っていた。


レイラは唇をきゅっと結び、桶の水を身体へかけた。


冷たい水に身を震わせながら、石鹸で身体と髪を丁寧に洗う。何度も水をかけ、泡とともに汚れを流していった。


すべて洗い終えると、レイラはようやく息をついた。


身体を布で拭き、寝室から清潔な下着とドレスを取り出して身につける。


脱いだドレスは古い布で包み、ごみを入れる籠の底へ押し込んだ。


それから、大きめの鞄を寝台の上へ広げる。


着替えのドレスを二着と下着を入れ、身体を拭くための布や石鹸、櫛、裁縫道具を重ねていく。


棚からは予備のマッチと蝋燭を取り出した。


台所へ移り、小さな鍋と木の器、カップ、スプーン、それから料理用のナイフを布で包む。


戸棚に残っていたパンと干し肉、チーズ、塩も鞄の隙間へ詰めた。


最後に、水筒と小さな金入れを入れる。


すべて収めると、鞄はずっしりと重くなった。


レイラは中身を確かめ、鞄の口を固く閉じた。


それから、寝台に置かれていた毛布を畳み、紐で固く結んだ。


ふと、壁際にある小さな棚へ目が向く。


家族を偲ぶためのその場所には、青い石の首飾りが白い布の上へ置かれていた。


かつて祖母から母へ渡り、母を亡くしたあと再び祖母の手を経て、レイラへ受け継がれたものだった。


このまま、ここへ置いていくことはできなかった。


レイラは首飾りを手に取り、そっと首へかけた。


青い石が、胸元へ触れる。


「……お母さん、おばあちゃん。一緒に来てくれる?」


小さく呟き、首飾りを両手で包み込む。


冷たかったはずの石が、手の中で僅かに温もりを帯びていくような気がした。


レイラは首飾りをドレスの内側へしまうと、燭台の火を吹き消した。


再び暗闇へ沈んだ部屋を、静かに見回す。


次にここへ戻れるのがいつになるのか、レイラには分からなかった。


鞄を肩へかけ、毛布の包みを抱える。


閂を外し、扉を細く開けて外の様子を窺った。


道に人影はなく、家々も眠りに落ちたままだった。


レイラは音を立てないよう外へ出ると、扉へ鍵をかけ、元どおり戸口の脇にある石の下へ戻した。


「……レイラ?」


不意に名前を呼ばれ、レイラの身体が凍りついた。


ゆっくりと声のした方へ顔を向ける。


家の陰から、ランタンを手にした一人の青年が姿を現した。


「ハンス……」


そこにいたのは、村長の息子のハンスだった。


いつも爽やかな笑みを浮かべている整った顔には、驚きと疲れが滲んでいる。


ハンスは手にしたランタンを取り落としそうになりながら、レイラのもとへ駆け寄った。


「本当に……レイラなのか?」


「え、ええ……」


「今までどこにいたんだ。村のみんなで、ずっと捜していたんだぞ」


「ごめんなさい……山で、道に迷ってしまって……」


「何日も?」


レイラは答えられず、視線を伏せた。


ヴェルドラのことを話せば、ハンスはきっと誰かへ助けを求める。


村人たちが山へ向かえば、あの黒竜が何をするか分からない。


「……ごめんなさい。今は、うまく話せないの」


ハンスは何かを尋ねかけたものの、俯いたレイラを見て口を閉ざした。


「分かった。今は聞かない。とにかく、今夜は家で休んだ方がいい。明日になったら、父さんや村のみんなにも——」


「ありがとう。でも、私……もう行くわ」


「行くって……どこへ?」


ハンスの視線が、レイラの鞄と毛布へ移る。


「少しの間……村を離れようと思って」


「村を?」


「ええ」


「だとしても……こんな夜中に出ていく必要はないだろう? せめて、朝まで待っても——」


「朝になって、みんなの顔を見たら……きっと、決心が鈍ってしまうから」


「どうして、そこまでして村を離れたいんだ?」


「急に決めたわけじゃないの。おばあちゃんも……亡くなったでしょう?」


レイラはドレスの上から、胸元の首飾りへ触れた。


「この家にずっと一人でいるより、少し違う場所で暮らしてみようかなって……前から、考えていたの」


「でも、君は一人じゃないだろ」


ハンスは思わず声を強めた。


「村のみんなだっている。それに、俺だって……」


何かを言いかけ、その言葉を呑み込む。


レイラはそんなハンスを、申し訳なさそうに見つめた。


「ありがとう、ハンス」


「どこへ行くんだ?」


「それは……」


「そんな君を一人で行かせられるわけがない。俺も一緒に——」


「だめ!」


思わず強い声が出た。


ハンスが驚いたように足を止める。


「……ごめんなさい。でも、一人で行かせて」


「レイラ……」


本当は、助けてほしかった。


ここにいていいのだと、帰らなくてもいいのだと、誰かに言ってほしかった。


けれど、脳裏に浮かんだのは、燃えるような赤い瞳だった。


——『戻らなければ、貴様だけではなく、村ごと破壊してやる』


あのヴェルドラなら、本当にやるかもしれない。


自分が戻らなければ、この穏やかな村も、目の前にいるハンスも、すべて失われてしまう。


レイラは込み上げる恐怖を胸の奥へ押し込めた。


「私なら大丈夫だから。心配しないで」


そう告げ、ハンスを安心させるように微笑む。


「お願い、ハンス。私を信じて」


ハンスは眉を寄せたまま、ランタンの持ち手を強く握り締めた。


すぐには答えず、レイラの顔をじっと見つめる。


「本当に……行くのか?」


「ええ」


レイラは小さく頷いた。


それから、眠りについた村を見回す。


祖母と暮らした家も、自分を気にかけてくれた村人たちも、ここにはいる。


できることなら、このまま残りたかった。


それでも、帰らなければならない。


レイラは再びハンスへ向き直った。


「もし……戻れることがあったら、また帰ってくるわ」


ハンスの瞳が、僅かに揺れた。


「……分かった」


絞り出すように答えると、ハンスは身にまとっていた外套を脱いだ。


「それなら、せめてこれを持っていってくれ」


「でも、ハンスが……」


「俺の家はすぐそこだ。夜道は冷えるから、遠慮しなくていい」


ハンスはレイラの肩へ、外套をそっとかけた。


まだ残っていた温もりに包まれ、レイラの胸が僅かに緩む。


「……ありがとう、ハンス」


レイラは外套の前を合わせると、鞄を抱え直した。


「それじゃあ……行くわね」


「ああ」


レイラは小さく微笑み、ハンスへ背を向けた。


静まり返った村の中を、山へ向かって歩き始める。


「レイラ」


呼び止められ、レイラは足を止めた。


振り返ると、ハンスは何かを言いたそうに唇を開いていた。


けれど、その先に続くはずだった言葉は口にせず、僅かに微笑む。


「……気をつけて」


「ええ」


レイラも微笑み返し、再び前を向いた。


月明かりの下を歩くレイラの背中が、少しずつ遠ざかっていく。


ハンスはその場を動かず、レイラの姿が見えなくなるまで黙って見送っていた。

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