4話
洞窟の外には、白く丸い月が浮かんでいた。
レイラは木々の隙間から差す淡い光を頼りに、夜の山を下りていく。
破れたドレスの裾を片手で押さえ、もう片方の手で木の幹を探りながら、一歩ずつ慎重に進んだ。
やがて木々の向こうに見慣れた山道が現れ、レイラは小さく息をついた。
ここまで来れば、村へ続く道は分かる。
足元にはまだ暗がりが残っていたが、森の中よりは月明かりが届いている。
レイラは何度も足を取られそうになりながら、先を急いだ。
山を下りきった頃には、村はすっかり寝静まっていた。
家々の窓からはほとんど明かりが消え、夜道を歩く人影もない。
それでもレイラは破れたドレスの裾を押さえ、人目を避けるように家々の陰を進んだ。
誰かに見つかれば、きっと何があったのかと尋ねられ、心配されるだろう。
裂けた服も、汚れた身体も、決して見られたくはなかった。
やがて、暗闇の中に見慣れた家が浮かび上がる。
数日前まで暮らしていた、自分の家だった。
レイラは辺りに人影がないことを確かめると、戸口の脇にある石を持ち上げた。その下に隠していた鍵を取り出し、音を立てないよう静かに扉を開ける。
中へ入ると、すぐに扉を閉めて閂をかけた。
ようやく人目から逃れられたことに安堵し、扉へ背を預ける。
暗闇の中には、懐かしい家の匂いが残っていた。
ほんの数日しか離れていないはずなのに、随分と長い間、帰っていなかったように感じられる。
レイラは壁を伝いながら窓へ向かい、外へ光が漏れないよう、鎧戸を一つずつ閉めていった。
それから棚の上を手探りし、マッチの小箱を取り出す。
一本だけ抜き取り、箱の側面へ擦りつけると、小さな炎が暗闇に浮かび上がった。
その火を燭台の蝋燭へ移す。
淡い明かりが揺らめき、数日ぶりに見る部屋をぼんやりと照らした。
見慣れた机も椅子も、山へ出かけた日のまま残されている。
レイラはそれらを見つめたあと、すぐに浴室へ向かった。
破れたドレスを脱ぐと、肌には汚れだけでなく、ヴェルドラに掴まれた痕がいくつも残っていた。
レイラは唇をきゅっと結び、桶の水を身体へかけた。
冷たい水に身を震わせながら、石鹸で身体と髪を丁寧に洗う。何度も水をかけ、泡とともに汚れを流していった。
すべて洗い終えると、レイラはようやく息をついた。
身体を布で拭き、寝室から清潔な下着とドレスを取り出して身につける。
脱いだドレスは古い布で包み、ごみを入れる籠の底へ押し込んだ。
それから、大きめの鞄を寝台の上へ広げる。
着替えのドレスを二着と下着を入れ、身体を拭くための布や石鹸、櫛、裁縫道具を重ねていく。
棚からは予備のマッチと蝋燭を取り出した。
台所へ移り、小さな鍋と木の器、カップ、スプーン、それから料理用のナイフを布で包む。
戸棚に残っていたパンと干し肉、チーズ、塩も鞄の隙間へ詰めた。
最後に、水筒と小さな金入れを入れる。
すべて収めると、鞄はずっしりと重くなった。
レイラは中身を確かめ、鞄の口を固く閉じた。
それから、寝台に置かれていた毛布を畳み、紐で固く結んだ。
ふと、壁際にある小さな棚へ目が向く。
家族を偲ぶためのその場所には、青い石の首飾りが白い布の上へ置かれていた。
かつて祖母から母へ渡り、母を亡くしたあと再び祖母の手を経て、レイラへ受け継がれたものだった。
このまま、ここへ置いていくことはできなかった。
レイラは首飾りを手に取り、そっと首へかけた。
青い石が、胸元へ触れる。
「……お母さん、おばあちゃん。一緒に来てくれる?」
小さく呟き、首飾りを両手で包み込む。
冷たかったはずの石が、手の中で僅かに温もりを帯びていくような気がした。
レイラは首飾りをドレスの内側へしまうと、燭台の火を吹き消した。
再び暗闇へ沈んだ部屋を、静かに見回す。
次にここへ戻れるのがいつになるのか、レイラには分からなかった。
鞄を肩へかけ、毛布の包みを抱える。
閂を外し、扉を細く開けて外の様子を窺った。
道に人影はなく、家々も眠りに落ちたままだった。
レイラは音を立てないよう外へ出ると、扉へ鍵をかけ、元どおり戸口の脇にある石の下へ戻した。
「……レイラ?」
不意に名前を呼ばれ、レイラの身体が凍りついた。
ゆっくりと声のした方へ顔を向ける。
家の陰から、ランタンを手にした一人の青年が姿を現した。
「ハンス……」
そこにいたのは、村長の息子のハンスだった。
いつも爽やかな笑みを浮かべている整った顔には、驚きと疲れが滲んでいる。
ハンスは手にしたランタンを取り落としそうになりながら、レイラのもとへ駆け寄った。
「本当に……レイラなのか?」
「え、ええ……」
「今までどこにいたんだ。村のみんなで、ずっと捜していたんだぞ」
「ごめんなさい……山で、道に迷ってしまって……」
「何日も?」
レイラは答えられず、視線を伏せた。
ヴェルドラのことを話せば、ハンスはきっと誰かへ助けを求める。
村人たちが山へ向かえば、あの黒竜が何をするか分からない。
「……ごめんなさい。今は、うまく話せないの」
ハンスは何かを尋ねかけたものの、俯いたレイラを見て口を閉ざした。
「分かった。今は聞かない。とにかく、今夜は家で休んだ方がいい。明日になったら、父さんや村のみんなにも——」
「ありがとう。でも、私……もう行くわ」
「行くって……どこへ?」
ハンスの視線が、レイラの鞄と毛布へ移る。
「少しの間……村を離れようと思って」
「村を?」
「ええ」
「だとしても……こんな夜中に出ていく必要はないだろう? せめて、朝まで待っても——」
「朝になって、みんなの顔を見たら……きっと、決心が鈍ってしまうから」
「どうして、そこまでして村を離れたいんだ?」
「急に決めたわけじゃないの。おばあちゃんも……亡くなったでしょう?」
レイラはドレスの上から、胸元の首飾りへ触れた。
「この家にずっと一人でいるより、少し違う場所で暮らしてみようかなって……前から、考えていたの」
「でも、君は一人じゃないだろ」
ハンスは思わず声を強めた。
「村のみんなだっている。それに、俺だって……」
何かを言いかけ、その言葉を呑み込む。
レイラはそんなハンスを、申し訳なさそうに見つめた。
「ありがとう、ハンス」
「どこへ行くんだ?」
「それは……」
「そんな君を一人で行かせられるわけがない。俺も一緒に——」
「だめ!」
思わず強い声が出た。
ハンスが驚いたように足を止める。
「……ごめんなさい。でも、一人で行かせて」
「レイラ……」
本当は、助けてほしかった。
ここにいていいのだと、帰らなくてもいいのだと、誰かに言ってほしかった。
けれど、脳裏に浮かんだのは、燃えるような赤い瞳だった。
——『戻らなければ、貴様だけではなく、村ごと破壊してやる』
あのヴェルドラなら、本当にやるかもしれない。
自分が戻らなければ、この穏やかな村も、目の前にいるハンスも、すべて失われてしまう。
レイラは込み上げる恐怖を胸の奥へ押し込めた。
「私なら大丈夫だから。心配しないで」
そう告げ、ハンスを安心させるように微笑む。
「お願い、ハンス。私を信じて」
ハンスは眉を寄せたまま、ランタンの持ち手を強く握り締めた。
すぐには答えず、レイラの顔をじっと見つめる。
「本当に……行くのか?」
「ええ」
レイラは小さく頷いた。
それから、眠りについた村を見回す。
祖母と暮らした家も、自分を気にかけてくれた村人たちも、ここにはいる。
できることなら、このまま残りたかった。
それでも、帰らなければならない。
レイラは再びハンスへ向き直った。
「もし……戻れることがあったら、また帰ってくるわ」
ハンスの瞳が、僅かに揺れた。
「……分かった」
絞り出すように答えると、ハンスは身にまとっていた外套を脱いだ。
「それなら、せめてこれを持っていってくれ」
「でも、ハンスが……」
「俺の家はすぐそこだ。夜道は冷えるから、遠慮しなくていい」
ハンスはレイラの肩へ、外套をそっとかけた。
まだ残っていた温もりに包まれ、レイラの胸が僅かに緩む。
「……ありがとう、ハンス」
レイラは外套の前を合わせると、鞄を抱え直した。
「それじゃあ……行くわね」
「ああ」
レイラは小さく微笑み、ハンスへ背を向けた。
静まり返った村の中を、山へ向かって歩き始める。
「レイラ」
呼び止められ、レイラは足を止めた。
振り返ると、ハンスは何かを言いたそうに唇を開いていた。
けれど、その先に続くはずだった言葉は口にせず、僅かに微笑む。
「……気をつけて」
「ええ」
レイラも微笑み返し、再び前を向いた。
月明かりの下を歩くレイラの背中が、少しずつ遠ざかっていく。
ハンスはその場を動かず、レイラの姿が見えなくなるまで黙って見送っていた。




