3話
それから、数日が過ぎた。
レイラは、ヴェルドラに囚われたまま過ごす日々に、少しずつ慣れ始めていた。
ヴェルドラの監視のもとで食べ物を集め、洞窟へ戻って食事をし、夜になれば岩の上で身体を丸めて眠る。
そして、ヴェルドラが求めれば、レイラに拒むことは許されなかった。
黒い尾が腰へ伸びるたび、レイラは身体を強張らせ、ドレスの裾を握りしめた。
それでも、初めの頃のように逃れようともがくことはなくなっていた。
抵抗した先に待つ痛みを、身体が先に思い出してしまう。
ただ目を伏せ、過ぎ去るのを待つことしかできなかった。
けれど、苦痛に耐えているはずの身体が、ときおりレイラの意思を裏切ることがあった。
堪えようとするほど呼吸は乱れ、自分のものとは思えない声が、唇から零れてしまう。
そのたびに、レイラは自分の身体までヴェルドラのものになっていくような恐怖を覚えた。
その変化は、ヴェルドラにとって見慣れたものにすぎなかった。
彼女も、ほかの玩具と同じように、いずれは心を壊し、何をされても反応を返さなくなるのか。
それとも、与えられるものに溺れ、従順に媚びるだけの存在へ成り下がるのか。
だが、ヴェルドラがどれほど無理やり身体を奪い、その存在を蔑ろにしても、レイラは己を失わなかった。
朝になれば、レイラは欠かさずヴェルドラに挨拶をし、答える義理もない問いを投げかけていた。
それは、命乞いでも機嫌を取るためでもなく、ただ目の前にいる彼を知ろうとする言葉だった。
そんなレイラの存在は、これまでの玩具には覚えなかった言いようのない違和感となり、ヴェルドラの意識の片隅で少しずつ広がり始めていた。
ある日の夕暮れ、ヴェルドラの太い尾がレイラの背中へ押し当てられた。
「きゃっ……!」
そのまま前へ押され、レイラは堪えきれずに岩の上へ両手と膝をつく。
起き上がろうとしたとき、二本の黒い前脚が、レイラの身体を挟むように岩へ突き立てられた。
『そのまま伏せていろ』
その言葉だけで、これから何をされるのか分かってしまった。
レイラの指先が震える。
背後から巨大な身体が覆い被さり、逃げ場を塞いだ。
以前なら、恐怖に駆られるまま逃れようとしたかもしれない。
だが今は、岩へ伏せたまま唇を固く結ぶことしかできなかった。
拒めば、もっと強く押さえつけられる。
声を上げても、助けてくれる者などいない。
そう思うと、胸の奥から何かが少しずつ失われていくようだった。
洞窟の入り口に残っていた夕暮れの光が、滲んだ視界の向こうで、ゆっくりと翳っていった。
どれほどの時間が過ぎたのだろう。
ヴェルドラが身体を退けたあとも、レイラはすぐには起き上がれなかった。
力の入らない身体を岩の上へ伏せ、乱れた息を繰り返す。
顔を上げると、洞窟の入り口に残っていた夕暮れの光は、いつの間にか消えていた。
最後まで押し殺すことのできなかった声が、まだ耳の奥に残っている。
身体が勝手に返してしまった反応を思い出すたび、胸の奥へ冷たいものが沈んでいった。
『随分と我に馴染んできたようだな』
頭上から落ちてきた言葉に、レイラは何も答えられなかった。
俯いたまま、震える指でドレスの裾を戻していく。
そのとき、ほつれていた布地が小さな音を立てて裂けた。
「あ……」
レイラは慌てて裾を押さえた。
初めにヴェルドラの爪で引き裂かれてからも、レイラは同じドレスを着続けていた。
ほかに着るものはなく、繕うための道具もない。
数日間着続けるうちに裾の裂け目はさらに広がり、布地のところどころがほつれていた。
今はまだ身につけていられるものの、このまま裂け続ければ、やがて身体を覆うことさえ難しくなる。
着替えだけではなく、身体を拭くための布や、髪を整える櫛など、ここで過ごすために必要なものはほかにもあった。
レイラは破れたドレスを握りしめたまま、ヴェルドラへ視線を向けた。
頼めば怒られるかもしれない。
それでも、このままではいられなかった。
「あの……お願いがあるんです」
『何だ』
ヴェルドラは興味なさそうに答えた。
「一度だけ、村へ戻らせてもらえませんか?」
赤い瞳が、ゆっくりとレイラへ向けられる。
『……何だと?』
「服や、ここで過ごすために必要なものを取りに戻りたいんです」
レイラは裂けたドレスの裾を押さえながら、言葉を続けた。
「必要なものを持ったら、すぐに戻ります。だから……」
ヴェルドラがゆっくりと頭を上げた。
洞窟の中へ、低い唸り声が響く。
鋭く細められた赤い瞳が、レイラを射抜いた。
『貴様……』
黒い尾が地面を打ち、洞窟の空気が震える。
『我のもとから逃げるつもりか?』
黒い尾がレイラの腰へ巻きつき、その身体を持ち上げると、自らの眼前へ引き寄せた。
突然身体を引かれ、レイラは小さく息を呑んだ。
腰を囲む尾は、そのままレイラの身体を逃がさぬよう押さえ込む。
『逃げればどうなるか、忘れたわけではあるまいな』
間近で響く低い声に、レイラは俯いたまま、震える声を絞り出した。
「お願いします……」
それから、レイラはゆっくりと顔を上げた。
潤んだ瞳で、燃えるような赤い瞳を真っ直ぐに見つめる。
「絶対に逃げたりしません。必要なものを取ったら、必ず戻ってきます。約束します……」
ヴェルドラは、縋るように向けられた瞳を黙って見返した。
不意に、あの日、意識を失う寸前に鼻先へ触れた細い指先が、記憶の底から浮かび上がった。
その一瞬の記憶は今も消えず、ヴェルドラの内で燻り続けていた。
せっかく久方ぶりに得た玩具だ。まだ失うには惜しい。
もし、このまま戻らなければ。
脳裏をよぎったその考えが、妙に癇に障った。
ならば、戻るという言葉が真かどうか、試してやればいい。
『夜が明ける前だ』
「え……?」
思いがけない言葉に、レイラが目を瞬かせる。
『貴様の耳は飾りか。夜が明けるまでに戻れと言っている』
レイラの目が大きく見開かれた。
やがて言葉の意味を理解すると、張り詰めていた表情が僅かに緩む。
「ありがとうございます……!」
安堵したように浮かんだ小さな微笑みを見て、ヴェルドラは不機嫌そうに目を細めた。
『勘違いするな』
腰へ巻きつけていた尾を解きながら、低い声で言い放つ。
『戻らなければ、貴様だけではなく、村ごと破壊してやる』
レイラは緩みかけていた表情を引き締め、しっかりと頷いた。
「……はい。必ず戻ります」
そう告げると、レイラは洞窟の外に広がる夜の山へ、ゆっくりと歩き出した。
小さな背中が夜の闇に呑まれると、洞窟の奥でヴェルドラの赤い瞳が鋭く細められた。




