5話
村を離れたレイラは、再び月明かりを頼りに山道を進んでいた。
ハンスから借りた外套には、まだ僅かに温もりが残っている。
冷たい夜風から守られながら、レイラは重い鞄を肩へかけ直した。
片腕には、紐で固く結んだ毛布を抱えている。
夜も随分と更け、レイラはヴェルドラの言葉を思い出し、自然と足取りが速くなる。
村の家々が木々の向こうへ見えなくなり、山道へ深く入った頃だった。
背後から、微かに落ち葉を踏む音が聞こえた。
レイラは足を止め、振り返る。
月明かりに照らされた道には、誰の姿もない。
風に揺れた枝から、乾いた葉が一枚落ちてくる。
気のせいだろうか。
レイラは前を向き、再び歩き始めた。
しばらくすると、また背後で足音がした。
今度は、一人ではない。
レイラが歩みを速めると、足音もそれに合わせるように速くなった。
胸の鼓動が激しくなる。
「……ハンス?」
小さく呼びかけてみたものの、返事はなかった。
ハンスが後を追ってきたのなら、黙って隠れる必要などない。
レイラは鞄の紐を握り締め、そのまま振り返らずに歩き続けた。
洞窟まで、もうそれほど遠くはない。
普段、山菜を採るために歩いていた場所を過ぎ、さらに山の奥へ入っていく。
やがて道幅が狭まり、片側に急な斜面が広がる場所へ差しかかった。
そのとき、前方の木陰から一人の男が姿を現した。
レイラは驚いて足を止める。
汚れた外套をまとい、腰には短い剣を下げている。
その顔に、レイラは見覚えがなかった。
「こんな夜中に、女が一人でどこへ行くんだ?」
男が口元へ薄い笑みを浮かべる。
レイラが後ずさると、背後から聞こえていた足音も止まった。
振り返ると、もう一人の男が山道を塞いでいた。
「村へ忍び込む手間が省けたな。向こうから獲物が出てきてくれるとは」
「……何が目的ですか?」
震える声で尋ねると、男たちの視線がレイラの鞄へ向けられた。
「ずいぶん重そうな鞄じゃねえか。金目のものが入ってるんだろ?」
「お金なら……差し上げます。だから、道を開けてください」
レイラは毛布を地面へ置き、鞄の中から小さな金入れを取り出した。
それを差し出すと、前にいた男が乱暴に奪い取る。
中身を確かめ、男は不満そうに顔を歪めた。
「これだけか?」
「私が持っているのは、それで全部です」
「なら、その鞄も置いていけ」
「これは……だめです」
洞窟で暮らすために必要なものが入っている。
ここで奪われれば、何のために村まで戻ったのか分からない。
レイラが鞄を庇うように抱えると、背後にいた男が肩を掴んだ。
「きゃっ……!」
強く引かれ、鞄が肩から滑り落ちる。
男は地面へ落ちた鞄を拾い上げ、中身を乱暴に探り始めた。
「食い物に鍋、着替えか。夜逃げでもするつもりだったのか?」
「返してください……!」
レイラが鞄へ手を伸ばすと、もう一人の男がその手首を掴んだ。
「離して……!」
「よく見れば、なかなか綺麗な女じゃねえか」
男の視線が、レイラの顔から身体へゆっくりと落ちていく。
嫌な予感に、レイラの背筋が凍りついた。
掴まれた手を引こうとしても、男の指は緩まない。
「お金も渡しました。鞄も持っていって構いません。だから、もう……」
「金だけで見逃してもらえると思ったのか?」
男がレイラの肩へかかっていた外套を掴み、乱暴に引き剥がした。
ハンスの外套が地面へ落ちる。
「いやっ……!」
レイラは必死に身を捩った。
けれど、背後からもう一人の男に両腕を捕らえられ、そのまま木の幹へ押しつけられる。
男の手がドレスの胸元へ伸びてきた。
「やめて……触らないで!」
レイラは顔を背け、力の限り抵抗した。
その様子を楽しむように、男たちは笑みを深める。
「静かにしてりゃ、すぐに済む」
「いや……誰か……!」
「こんな山奥で、誰に助けを求めるつもりだ?」
男の手が、レイラの口を塞いだ。
レイラはその手へ歯を立てる。
「痛っ!」
男の手が離れた瞬間、レイラは声の限り叫んだ。
「いやぁっ……!」
悲鳴が夜の山へ響き渡る。
その頃、ヴェルドラは洞窟の入り口に身を伏せ、暗い森を睨んでいた。
夜はすでに深くなっていた。
レイラが洞窟を出てから、随分と長い時間が過ぎたように感じられた。
少し前から、森の奥を進む複数の足音には気づいていた。
一つは、聞き慣れたレイラのもの。
その後を追うように、二つの人間の足音が続いている。
あの女は、村の人間を連れてきたのか。
そう考えただけで、胸の内に苛立ちが込み上げた。
そのとき、風に乗って細い悲鳴が届いた。
ヴェルドラの赤い瞳が大きく見開かれる。
『レイラ!』
咆哮にも似た声が、夜の山を揺らした。
ヴェルドラは力強い後脚で地を蹴り、黒い翼を大きく広げる。
巻き起こった激しい風が木々を揺らし、黒い影が夜空へ舞い上がった。
山道では、突然響き渡った声に、男たちが動きを止めていた。
「な、なんだ……今の声は……」
レイラもまた、目を見開いたまま夜空を見上げていた。
聞き慣れたはずの自分の名が、そのときだけは違う響きを帯びて胸へ届いた。
その余韻が消えるより早く、木々の上を黒い影が覆う。
激しい羽音とともに風が吹き荒れ、男たちが顔を庇った。
漆黒の巨体が、男たちの前へ降り立つ。
翼が大きく打ち下ろされ、その風圧にレイラを捕らえていた男たちはその場へ倒れ込んだ。
月明かりの下で、漆黒の鱗が鈍く光る。
燃えるような赤い瞳が、レイラに触れていた男たちを睨みつけていた。
「ド、ドラゴン……?」
男の一人が、震える声を漏らす。
「ドラゴンなんて……幻の生き物のはずだろ……?」
ヴェルドラの喉から、低い唸り声が響いた。
『我の玩具に触れるな』
男たちの顔から血の気が引いた。
一人が腰の短剣を抜き、ヴェルドラへ向ける。
「く、来るな!」
ヴェルドラは迫る刃を一瞥すると、煩わしそうに尾を振るった。
黒い尾が男の身体を捉える。
鈍い音とともに男は宙へ弾き飛ばされ、岩壁へ激しく叩きつけられた。
その身体が地面へ崩れ落ち、動かなくなる。
「ひっ……!」
残った男はレイラから手を離し、背を向けて逃げ出した。
しかし、数歩も進まないうちに、ヴェルドラは片方の前脚を伸ばし、その背を地面へ押さえつけた。
「ま、待ってくれ! 俺たちは何も——」
『黙れ』
鋭い爪が男の背へ食い込み、ヴェルドラが僅かに力を込める。
骨が砕ける鈍い音が響き、男の声が途切れた。
ヴェルドラは動かなくなった男から前脚を退けた。
レイラは木の幹へ背を預けたまま、震える身体を両腕で抱いた。
助かった。
そう思う一方で、目の前にいるヴェルドラへの恐怖も消えてはいなかった。
ヴェルドラが、ゆっくりとレイラへ顔を向ける。
赤い瞳と視線が重なり、レイラの肩が小さく跳ねた。
『何をしている』
「ご、ごめんなさい……後をつけられていることに、気づかなくて……」
『愚か者が』
ヴェルドラは苛立たしげに吐き捨て、レイラへ前脚を伸ばした。
鋭い爪先が近づき、レイラは思わず目を閉じる。
けれど、その爪がレイラを傷つけることはなかった。
ヴェルドラは片方の前脚をレイラの背へ回し、爪を立てないよう胸元へ抱え込んだ。
「黒竜さん……」
『帰るぞ』
黒い尾が地面へ落ちた鞄と毛布を拾い上げる。
続いて外套へ伸びた尾先が、その布地を摘まみ上げた。
ヴェルドラはそこに残る匂いを確かめるように鼻を鳴らし、赤い瞳を鋭く細める。
「あの……」
レイラはヴェルドラの前脚へ手を添え、その顔を見上げた。
「助けてくれて……ありがとうございます」
『勘違いするな』
ヴェルドラは不機嫌そうに顔を背ける。
『貴様は我の玩具だ。ほかの者に奪われることなど許さん』
「……はい」
レイラは小さく答え、ヴェルドラの胸元で目を伏せた。
レイラ——。
初めてヴェルドラの声で呼ばれた自分の名が、いつまでも耳の奥に残っていた。




