6話
洞窟へ戻ると、ヴェルドラは胸元に抱えていたレイラを岩の上へ下ろした。
黒い尾が鞄と毛布を運び込み、その隣へハンスの外套を落とす。
レイラは土のついたドレスを両手で払った。
男たちに掴まれた腕には、赤い痕が残っている。
それでも、怪我と呼べるほどの傷はなかった。
ヴェルドラが来るのが少しでも遅ければ、どうなっていたのだろう。
そう考えた瞬間、身体の奥から恐怖が蘇り、レイラは自分の肩を抱いた。
その傍らで、ヴェルドラは地面へ落とした外套へ鼻先を近づけていた。
低く鼻を鳴らすと、赤い瞳が不機嫌そうに細められる。
『この布は何だ』
「外套です。夜道は冷えるからと、村の友人が貸してくれて……」
『友人だと?』
「はい……」
『雄か』
レイラは一瞬だけ言葉に詰まった。
「……はい」
答えた途端、ヴェルドラの尾が外套を拾い上げ、洞窟の隅へ放り投げた。
「何を……!」
『気に食わん』
「でも、借りたものなので……」
『知るか』
ヴェルドラは苛立たしげに吐き捨て、レイラへ顔を近づけた。
熱い吐息が髪を揺らす。
鼻先が首筋から肩へ下り、何かを確かめるようにレイラの身体へ近づいていく。
「あ、あの……?」
ヴェルドラの喉から、低い唸り声が漏れた。
『あの虫ケラどもの臭いまで残っている』
赤い瞳が、男に掴まれたレイラの腕へ向けられる。
レイラはそこに残った赤い痕へ、そっと指を触れた。
「でも……黒竜さんが助けてくれたから、それ以上は何もされずに済みました」
レイラに残るほかの雄の匂いが、なぜかひどく癇に障った。
気に入りの玩具を奪われかけたからだ。そう片づけるには、腹の底で燻る苛立ちはあまりにも強かった。
ヴェルドラは低く唸ると、黒い尾をレイラの腰へ巻きつけた。
「きゃっ……!」
身体を引き寄せられ、レイラはヴェルドラの胸元へぶつかった。
赤い瞳が、逃がさないと告げるようにレイラを見下ろしている。
『他の雄の臭いを纏ったまま、我のもとへ戻ってくるとはな』
「ご、ごめんなさい……」
『謝れば済むと思っているのか』
鋭い爪先が、レイラのドレスへ触れる。
布地へ引っかけ、そのまま引き裂こうとする動きに、レイラは慌てて声を上げた。
「ま、待ってください……!」
ヴェルドラの動きが止まる。
赤い瞳が険しく細められた。
『何だ。今さら我を拒むつもりか?』
「ち、違います……そうではなくて……」
腰へ巻きついた尾に押さえられたまま、レイラは恥ずかしそうに目を伏せた。
「せっかく……村で、着替えてきたばかりなので……」
『それがどうした』
「この服まで破れてしまったら、せっかく持ってきた着替えが減ってしまいます」
これまでは、どれほど拒んでも力で押さえつけられ、服を引き裂かれていた。
ヴェルドラが求めれば、レイラに拒むことはできない。
そのことは今も変わっていなかった。
それでも今日は、腰へ巻きついた尾から逃れようとは思わなかった。
男たちから助けてくれたこと。
初めて、自分の名前を呼んでくれたこと。
その声が、今も耳の奥に残っている。
ヴェルドラへの恐怖が消えたわけではない。
けれど今は、その恐怖の中に、それだけではない何かが混ざっていた。
レイラは一度言葉を止めると、頬を赤らめながら小さな声で続けた。
「ですから……破かないでください。自分で脱ぎますから……」
ヴェルドラの赤い瞳が、僅かに見開かれた。
『自分で脱ぐだと?』
「……はい」
ヴェルドラは、頬を赤らめたレイラを黙って見下ろした。
『……今宵は随分と素直ではないか』
腰へ巻きついていた尾が、ゆっくりと解かれる。
レイラはヴェルドラへ背を向けると、震える指をドレスへかけた。
背後から注がれる赤い視線を意識するほど、胸の鼓動が速くなっていく。
レイラは小さく息を吸い、震える指先を動かした。
その細い背中を、ヴェルドラの赤い瞳がじっと見つめていた。
長い夜が明け、洞窟の外は白み始めていた。
レイラは岩の上へ身体を横たえ、浅い呼吸を繰り返している。
乱れた髪が頬へかかり、指先にはまだ僅かに力が入らなかった。
夜が明けるまでの間に、何度眠りかけ、何度目を覚ましたのかも分からない。
身体には重い疲労が残っていた。
それでも、不思議とこれまでのような恐怖だけは感じなかった。
目を閉じると、男たちに捕らえられたときの記憶が蘇る。
腕を掴んだ手。
逃げ道を塞いだ影。
そして、夜の山を揺らした声。
——レイラ。
あの瞬間、確かにヴェルドラは自分の名を呼んだ。
ただの玩具だと言いながら、助けに来た。
その腕に抱えられたとき、恐ろしいはずの漆黒の身体に、ほんの僅かでも安堵した自分がいた。
そのことを、レイラはまだどう受け止めればよいのか分からなかった。
ヴェルドラが、そんなレイラの顔を覗き込む。
『もう終わりか』
「すみません……これ以上は……」
『脆弱な人間め』
ヴェルドラは鼻を鳴らし、レイラから顔を離そうとした。
そのとき、レイラの手がゆっくりと持ち上がる。
ヴェルドラの赤い瞳が、その動きを追った。
震える指先が、漆黒の鼻先へ近づいていく。
そして、レイラはヴェルドラの鼻先へそっと手を触れた。
それは初めてこの場所へ迷い込んだ夜と、同じ場所だった。
けれど、あのときとは違う。
恐怖と苦痛の中で、助けを求めるように伸ばした手ではない。
レイラが自分の意思で伸ばした手だった。
指先で硬い鱗を確かめるように、ゆっくりと鼻先を撫でる。
ヴェルドラは僅かに目を見開いたまま、動かなかった。
『……何のつもりだ』
「分かりません……」
レイラは小さく微笑んだ。
「でも……今は、こうしたいと思ったんです」
『…………』
ヴェルドラは答えない。
けれど、レイラの手を振り払うこともなかった。
洞窟の入り口から差し込む淡い朝の光が、触れ合う指先と漆黒の鼻先を静かに照らしていた。




