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暴虐の黒き竜と囚われの娘【R15版】  作者: いをり。
第3章【黒竜との暮らし】

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1話

レイラの指先が、ヴェルドラの鼻先からゆっくりと滑り落ちた。


先ほどまで僅かに開いていた瞼は、いつの間にか閉じられている。


限界まで疲れ切っていたのだろう。


レイラは傍らにあった毛布を身体へ引き寄せると、そのまま眠りへ落ちていった。


ヴェルドラは赤い瞳を細め、眠り込んだレイラを見下ろした。


鼻先には、柔らかな指の感触がまだ残っている。


自ら衣服を脱ぎ、怯えながらも逃げようとはしなかった姿。


そして最後には、何を求めるでもなく、自らの意思でヴェルドラへ触れてきた。


昨夜のレイラの姿が、妙に意識へこびりついて離れなかった。


『……ふん』


ヴェルドラは小さく鼻を鳴らした。


『つくづく、おかしな玩具だ』


やがてヴェルドラもその場へ身を伏せ、静かに目を閉じた。


次に目を覚ましたとき、洞窟の中には明るい光が差し込んでいた。


ヴェルドラが頭を上げても、レイラは身じろぎ一つしない。


毛布に包まれた身体は、先ほどとほとんど変わらない姿勢のままだった。


しばらく眺めたあと、ヴェルドラはレイラへ鼻先を近づけた。


微かな寝息が聞こえる。


さらに息を吸い込めば、人間の身体が持つ熱と、規則正しく脈打つ鼓動が伝わってきた。


生きている。


それを確かめると、ヴェルドラは僅かに顔を離した。


昨夜は村まで往復し、山道で男どもに襲われた。


そのうえ洞窟へ戻ってからも、夜が明けるまでろくに休ませなかった。


人間の身体には、随分と堪えたらしい。


『勝手に壊れることは許さん』


吐き捨てるように呟いても、レイラが目を開ける気配はなかった。


ヴェルドラは前脚を踏み出しかけ、再び眠るレイラへ目を向けた。


起こしたところで、この有様では満足に動くこともできないだろう。


再び鼻を鳴らすと、ヴェルドラはレイラを残して洞窟の外へ向かった。


力強い後脚で地面を蹴り、黒い翼を広げる。


大きな影が木々の上を通り過ぎ、山の奥へ消えていった。


ヴェルドラが戻ってきたのは、日が高く昇った頃だった。


口には仕留めた野兎を咥え、前脚には木の実がついた枝と、土のついた山菜を抱えている。


それは、以前レイラが集めていたものばかりだった。


洞窟へ降り立った衝撃に小石が転がっても、レイラは目を覚まさない。


ヴェルドラは獲物を岩の上へ置くと、抱えていた山菜と枝をその隣へ落とした。


土が散り、木の実がいくつか枝から転がる。


それでも眠り続けるレイラを一瞥し、ヴェルドラは洞窟の入り口近くへ身を伏せた。


レイラがようやく目を覚ましたのは、昼をとうに過ぎた頃だった。


「……ん……」


重い瞼を開き、ゆっくりと身体を起こす。


全身に残る疲労と鈍い痛みに、レイラは小さく顔を歪めた。


肩から滑り落ちそうになった毛布を慌てて引き上げる。


夜が明けるまでのことを思い出した途端、頬へ熱が集まった。


レイラは周囲を見回し、岩の上へ重ねてあった衣服へ手を伸ばした。


幸い、ドレスはどこも破れていない。


身支度を整えて顔を上げると、洞窟の入り口にヴェルドラの姿があった。


黒い巨体は外へ顔を向けている。


眠っているように見えたが、レイラが動き出したことには気づいているのだろう。


赤い瞳が、僅かにこちらへ向けられていた。


「あの……おはようございます」


『もう昼は過ぎたぞ』


「えっ……?」


レイラは慌てて洞窟の外へ目を向けた。


入り口から差し込む光は明るく、木々の影も短い。


「私、そんなに長く眠っていたんですか……?」


『死んだように動かなかったな』


「ご、ごめんなさい……」


ヴェルドラは鼻を鳴らし、再び洞窟の外へ視線を戻した。


そのとき、岩の上に置かれたものが目に入った。


仕留められた野兎と、山菜。それから木の実がついたままの枝。


山菜には根が残り、湿った土がいくつも付着している。


枝も人の手では折れないほど太く、折れ口は力任せに砕かれていた。


「これは……」


レイラは岩の前へ膝をつき、見覚えのある葉へ触れた。


どれも以前、自分がヴェルドラの監視のもとで集めていたものだった。


レイラは洞窟の入り口へ顔を向ける。


「黒竜さんが、持ってきてくださったんですか?」


『ほかに誰がいる』


「私のために……?」


ヴェルドラの赤い瞳が、不機嫌そうに細められた。


『勘違いするな』


低い声が洞窟の中へ響く。


『貴様に勝手に飢えて死なれては、我が興が醒めるだけだ』


「……そうですか」


レイラは土のついた山菜へ視線を戻した。


ヴェルドラが、以前自分の採っていたものを覚えていた。


そのことが、胸の奥へ小さな温かさを落とした。


「それでも……ありがとうございます」


『礼などいらん』


ヴェルドラは興味を失ったように顔を背けた。


レイラは小さく微笑むと、昨夜持ち帰った鞄を開いた。


中から鍋や食器、ナイフ、包みに入れたパンや塩を一つずつ取り出していく。


何着かの衣服は畳み直し、毛布の隣へ重ねた。


マッチの小箱を取り出したところで、レイラはヴェルドラを振り返った。


「あの、ここで火を使ってもいいですか?」


『好きにしろ』


「ありがとうございます」


レイラは野兎を洞窟の入り口へ運ぶと、村から持ち帰ったナイフで手早く捌いた。


切り分けた肉と山菜を木椀へ入れ、ヴェルドラの寝床の脇にある泉へ向かう。


泉の水を別の木椀に汲み、少し離れた岩場へ運ぶと、その水で肉を洗い、山菜の土を落とした。


鍋にも水を汲み、焚き火のそばへ戻る。


乾いた枝を重ね、擦ったマッチの火を近づけると、小さな炎が上がった。


鍋に肉と山菜を入れ、塩をひとつまみ加えて火へかける。


やがて小さな泡が立ち始め、湯気とともに温かな香りが広がっていった。


それまで外を眺めていたヴェルドラの鼻先が、僅かに動く。


レイラは木の匙で鍋を混ぜながら、ヴェルドラへ顔を向けた。


「いい匂いでしょう?」


赤い瞳は外へ向けられたままだった。


けれど、その鼻先はもう一度、漂ってきた香りを確かめるように動いていた。


肉へ火が通ったところで、レイラはスープを木椀へ盛りつけた。


久しぶりに目にする温かな料理に、レイラの表情が自然と緩む。


一口食べると、肉の旨みと山菜の香りが口の中へ広がった。


「おいしい……」


小さく零してから、レイラはヴェルドラへ目を向けた。


「黒竜さんも、少し食べてみますか?」


『我は人間の作ったものなど食わん』


「一口だけでも……」


レイラは肉と少量のスープを匙へ取り、ヴェルドラへ差し出した。


赤い瞳が、匙の中身とレイラの顔を交互に見る。


『また我へ妙なものを食わせるつもりか』


「木の実とは違います。お肉の入ったスープですから、きっと大丈夫です」


ヴェルドラは面倒そうに鼻を鳴らした。


それでも大きな顔を近づけると、匙の中身を舌先で舐め取った。


レイラは期待するように、その様子を見つめた。


「どうですか?」


ヴェルドラはすぐには答えなかった。


しばらく口の中の味を確かめたあと、赤い瞳を僅かに細める。


『……我の知らん味だ』


「もう少し、召し上がりますか?」


ヴェルドラは何も言わず、ふいと顔を背けた。


けれど、地面に伏せていた黒い尾の先だけが、何度も岩肌を叩き続けていた。


レイラは肉と山菜のスープを深い木椀へ盛り、ヴェルドラの前脚のそばへ置いた。


「ここへ置いておきますね。いらなければ、無理に食べなくても大丈夫です」


そう告げると、レイラは自分の木椀を手に取り、焚き火のそばへ腰を下ろした。


しばらくして、ヴェルドラが木椀へ鼻先を近づける。


舌でスープを掬いながら、肉と山菜を黙々と食べ進めていく。


レイラが自分の食事を終える頃、ヴェルドラも木椀から顔を上げた。


レイラはその前脚のそばへ視線を落とし、嬉しそうに微笑んだ。


ヴェルドラの赤い瞳が、そんなレイラへ向けられる。


『何だ』


「いいえ。何でもありません」


レイラは微笑んだまま答えた。


『ふん』


ヴェルドラは不機嫌そうに顔を背けた。


けれど、その前脚のそばに置かれた木椀には、スープの一滴さえ残っていなかった。

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