1話
レイラの指先が、ヴェルドラの鼻先からゆっくりと滑り落ちた。
先ほどまで僅かに開いていた瞼は、いつの間にか閉じられている。
限界まで疲れ切っていたのだろう。
レイラは傍らにあった毛布を身体へ引き寄せると、そのまま眠りへ落ちていった。
ヴェルドラは赤い瞳を細め、眠り込んだレイラを見下ろした。
鼻先には、柔らかな指の感触がまだ残っている。
自ら衣服を脱ぎ、怯えながらも逃げようとはしなかった姿。
そして最後には、何を求めるでもなく、自らの意思でヴェルドラへ触れてきた。
昨夜のレイラの姿が、妙に意識へこびりついて離れなかった。
『……ふん』
ヴェルドラは小さく鼻を鳴らした。
『つくづく、おかしな玩具だ』
やがてヴェルドラもその場へ身を伏せ、静かに目を閉じた。
次に目を覚ましたとき、洞窟の中には明るい光が差し込んでいた。
ヴェルドラが頭を上げても、レイラは身じろぎ一つしない。
毛布に包まれた身体は、先ほどとほとんど変わらない姿勢のままだった。
しばらく眺めたあと、ヴェルドラはレイラへ鼻先を近づけた。
微かな寝息が聞こえる。
さらに息を吸い込めば、人間の身体が持つ熱と、規則正しく脈打つ鼓動が伝わってきた。
生きている。
それを確かめると、ヴェルドラは僅かに顔を離した。
昨夜は村まで往復し、山道で男どもに襲われた。
そのうえ洞窟へ戻ってからも、夜が明けるまでろくに休ませなかった。
人間の身体には、随分と堪えたらしい。
『勝手に壊れることは許さん』
吐き捨てるように呟いても、レイラが目を開ける気配はなかった。
ヴェルドラは前脚を踏み出しかけ、再び眠るレイラへ目を向けた。
起こしたところで、この有様では満足に動くこともできないだろう。
再び鼻を鳴らすと、ヴェルドラはレイラを残して洞窟の外へ向かった。
力強い後脚で地面を蹴り、黒い翼を広げる。
大きな影が木々の上を通り過ぎ、山の奥へ消えていった。
ヴェルドラが戻ってきたのは、日が高く昇った頃だった。
口には仕留めた野兎を咥え、前脚には木の実がついた枝と、土のついた山菜を抱えている。
それは、以前レイラが集めていたものばかりだった。
洞窟へ降り立った衝撃に小石が転がっても、レイラは目を覚まさない。
ヴェルドラは獲物を岩の上へ置くと、抱えていた山菜と枝をその隣へ落とした。
土が散り、木の実がいくつか枝から転がる。
それでも眠り続けるレイラを一瞥し、ヴェルドラは洞窟の入り口近くへ身を伏せた。
レイラがようやく目を覚ましたのは、昼をとうに過ぎた頃だった。
「……ん……」
重い瞼を開き、ゆっくりと身体を起こす。
全身に残る疲労と鈍い痛みに、レイラは小さく顔を歪めた。
肩から滑り落ちそうになった毛布を慌てて引き上げる。
夜が明けるまでのことを思い出した途端、頬へ熱が集まった。
レイラは周囲を見回し、岩の上へ重ねてあった衣服へ手を伸ばした。
幸い、ドレスはどこも破れていない。
身支度を整えて顔を上げると、洞窟の入り口にヴェルドラの姿があった。
黒い巨体は外へ顔を向けている。
眠っているように見えたが、レイラが動き出したことには気づいているのだろう。
赤い瞳が、僅かにこちらへ向けられていた。
「あの……おはようございます」
『もう昼は過ぎたぞ』
「えっ……?」
レイラは慌てて洞窟の外へ目を向けた。
入り口から差し込む光は明るく、木々の影も短い。
「私、そんなに長く眠っていたんですか……?」
『死んだように動かなかったな』
「ご、ごめんなさい……」
ヴェルドラは鼻を鳴らし、再び洞窟の外へ視線を戻した。
そのとき、岩の上に置かれたものが目に入った。
仕留められた野兎と、山菜。それから木の実がついたままの枝。
山菜には根が残り、湿った土がいくつも付着している。
枝も人の手では折れないほど太く、折れ口は力任せに砕かれていた。
「これは……」
レイラは岩の前へ膝をつき、見覚えのある葉へ触れた。
どれも以前、自分がヴェルドラの監視のもとで集めていたものだった。
レイラは洞窟の入り口へ顔を向ける。
「黒竜さんが、持ってきてくださったんですか?」
『ほかに誰がいる』
「私のために……?」
ヴェルドラの赤い瞳が、不機嫌そうに細められた。
『勘違いするな』
低い声が洞窟の中へ響く。
『貴様に勝手に飢えて死なれては、我が興が醒めるだけだ』
「……そうですか」
レイラは土のついた山菜へ視線を戻した。
ヴェルドラが、以前自分の採っていたものを覚えていた。
そのことが、胸の奥へ小さな温かさを落とした。
「それでも……ありがとうございます」
『礼などいらん』
ヴェルドラは興味を失ったように顔を背けた。
レイラは小さく微笑むと、昨夜持ち帰った鞄を開いた。
中から鍋や食器、ナイフ、包みに入れたパンや塩を一つずつ取り出していく。
何着かの衣服は畳み直し、毛布の隣へ重ねた。
マッチの小箱を取り出したところで、レイラはヴェルドラを振り返った。
「あの、ここで火を使ってもいいですか?」
『好きにしろ』
「ありがとうございます」
レイラは野兎を洞窟の入り口へ運ぶと、村から持ち帰ったナイフで手早く捌いた。
切り分けた肉と山菜を木椀へ入れ、ヴェルドラの寝床の脇にある泉へ向かう。
泉の水を別の木椀に汲み、少し離れた岩場へ運ぶと、その水で肉を洗い、山菜の土を落とした。
鍋にも水を汲み、焚き火のそばへ戻る。
乾いた枝を重ね、擦ったマッチの火を近づけると、小さな炎が上がった。
鍋に肉と山菜を入れ、塩をひとつまみ加えて火へかける。
やがて小さな泡が立ち始め、湯気とともに温かな香りが広がっていった。
それまで外を眺めていたヴェルドラの鼻先が、僅かに動く。
レイラは木の匙で鍋を混ぜながら、ヴェルドラへ顔を向けた。
「いい匂いでしょう?」
赤い瞳は外へ向けられたままだった。
けれど、その鼻先はもう一度、漂ってきた香りを確かめるように動いていた。
肉へ火が通ったところで、レイラはスープを木椀へ盛りつけた。
久しぶりに目にする温かな料理に、レイラの表情が自然と緩む。
一口食べると、肉の旨みと山菜の香りが口の中へ広がった。
「おいしい……」
小さく零してから、レイラはヴェルドラへ目を向けた。
「黒竜さんも、少し食べてみますか?」
『我は人間の作ったものなど食わん』
「一口だけでも……」
レイラは肉と少量のスープを匙へ取り、ヴェルドラへ差し出した。
赤い瞳が、匙の中身とレイラの顔を交互に見る。
『また我へ妙なものを食わせるつもりか』
「木の実とは違います。お肉の入ったスープですから、きっと大丈夫です」
ヴェルドラは面倒そうに鼻を鳴らした。
それでも大きな顔を近づけると、匙の中身を舌先で舐め取った。
レイラは期待するように、その様子を見つめた。
「どうですか?」
ヴェルドラはすぐには答えなかった。
しばらく口の中の味を確かめたあと、赤い瞳を僅かに細める。
『……我の知らん味だ』
「もう少し、召し上がりますか?」
ヴェルドラは何も言わず、ふいと顔を背けた。
けれど、地面に伏せていた黒い尾の先だけが、何度も岩肌を叩き続けていた。
レイラは肉と山菜のスープを深い木椀へ盛り、ヴェルドラの前脚のそばへ置いた。
「ここへ置いておきますね。いらなければ、無理に食べなくても大丈夫です」
そう告げると、レイラは自分の木椀を手に取り、焚き火のそばへ腰を下ろした。
しばらくして、ヴェルドラが木椀へ鼻先を近づける。
舌でスープを掬いながら、肉と山菜を黙々と食べ進めていく。
レイラが自分の食事を終える頃、ヴェルドラも木椀から顔を上げた。
レイラはその前脚のそばへ視線を落とし、嬉しそうに微笑んだ。
ヴェルドラの赤い瞳が、そんなレイラへ向けられる。
『何だ』
「いいえ。何でもありません」
レイラは微笑んだまま答えた。
『ふん』
ヴェルドラは不機嫌そうに顔を背けた。
けれど、その前脚のそばに置かれた木椀には、スープの一滴さえ残っていなかった。




