2話
食事を終えると、レイラは水筒を手に洞窟の奥へ向かった。
泉の水を汲んで入り口へ戻り、空になった鍋へ注ぐ。
その水で木椀や匙を洗い、最後に鍋もきれいにすすぐと、濁った水を洞窟の外へ捨てた。
片づけを終えたあとも、レイラは焚き火のそばに座り、揺れる炎を眺めていた。
昼間あれほど眠ったにもかかわらず、身体にはまだ重い疲れが残っている。
炎が小さくなるたびに枝を足しているうち、洞窟の外を満たす闇も深まっていった。
やがてレイラは小さく欠伸を零し、傍らに置かれた毛布を広げた。
「おやすみなさい、黒竜さん」
洞窟の入り口に伏せたヴェルドラから、返事はなかった。
レイラは毛布へ包まり、静かに目を閉じた。
翌朝、レイラが目を覚ますと、焚き火は僅かな熾火を残すだけになっていた。
身体を起こし、乱れた髪を手で整える。
「おはようございます、黒竜さん」
ヴェルドラは朝の光を浴びながら、洞窟の入り口で外を眺めている。
返事はなかったが、その耳が僅かに動いた。
身につけたドレスには土汚れが残り、洞窟の隅へ放り投げられたハンスの外套にも、泥と枯れ葉が絡みついていた。
身体に残る汗も、衣服についた汚れも洗い流したかったが、洞窟の奥に湧く泉へ泥だらけの布を浸す気にはなれなかった。
レイラは洞窟の入り口へ顔を向けた。
「あの……黒竜さん」
赤い瞳だけが、ゆっくりとレイラへ向けられた。
『何だ』
「この近くに、川はありませんか?」
『川だと?』
「身体を洗いたいんです。それから、服も……」
レイラの視線を追い、ヴェルドラも外套へ目を向けた。
途端に、赤い瞳が険しく細められる。
『その臭い布など捨てろ』
「借りたものなので、捨てるわけにはいきません」
『ならば燃やせ』
「だめです。きちんと洗って、返さないと」
ヴェルドラの喉から、低い唸り声が漏れる。
それでもレイラが引き下がらずに見つめていると、ヴェルドラは面倒そうに顔を背けた。
『……ついてこい』
「え……?」
ヴェルドラはそれ以上何も言わず、洞窟の外へ歩き出した。
レイラは清潔な衣服と石鹸、身体を拭くための布と櫛をまとめ、汚れた外套を抱えてその後を追った。
洞窟から山を少し下ると、木々の向こうから水の流れる音が聞こえてきた。
ヴェルドラの巨体が枝葉を押し退けた先に、岩の間を縫うように流れる川が現れる。
流れは穏やかで、その一角には水深のある澄んだ淵ができていた。
木漏れ日が水面へ落ち、揺れる光を映している。
「こんな場所があったんですね……」
レイラは嬉しそうに川辺へ近づいた。
ヴェルドラは少し離れた岩の上へ身を伏せる。
『用が済んだら、さっさと戻るぞ』
「はい」
レイラは平らな岩の上へ、着替えと身体を拭くための布を置いた。
それからハンスの外套を川の水へ浸し、石鹸で裾の泥を落としていく。
その様子を眺めていたヴェルドラが、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
『なぜ、そこまでして返そうとする』
「大切な友人から借りたものですから」
『あの雄が、それほど大切か』
「ハンスは、幼い頃からよくしてくれた友人です」
レイラが何気なく答えると、黒い尾が岩肌を強く打った。
乾いた音が響き、レイラは驚いて振り返る。
「黒竜さん?」
『くだらん話をするな』
「それは、黒竜さんが聞いたから……」
ヴェルドラが鋭く睨みつける。
レイラはそれ以上何も言わず、外套へ視線を戻した。
けれど、その口元には小さな笑みが浮かんでいた。
汚れを落とした外套を水ですすぎ、固く絞ってから日の当たる枝へ広げる。
それからレイラは、ヴェルドラを振り返った。
赤い瞳は、変わらず自分へ向けられている。
「あの……これから身体を洗うので、少しだけ向こうを向いていただけませんか?」
『なぜだ』
「なぜって……。さすがに服を脱いだところまで見られるのは、恥ずかしいので……」
『我に何度も見られておきながら、今さら何を恥じる』
「それでも、恥ずかしいものは恥ずかしいんです」
レイラが困ったように見つめると、ヴェルドラはしばらく黙り込んだ。
やがて不機嫌そうに鼻を鳴らし、森の方へ顔を背ける。
『面倒な人間だ』
「ありがとうございます」
レイラはほっと息をつき、身につけていたドレスへ指をかけた。
背を向けているとはいえ、すぐそばにはヴェルドラがいる。
落ち着かない気持ちを抱えながら衣服を脱ぐと、身体を隠すように布を巻きつけた。
脱いだドレスも水へ浸し、裾に残っていた土を石鹸で丁寧に落としていく。
洗い終えたドレスを外套の隣へ干してから、レイラは身体へ巻いていた布を外し、川の中へ足を入れた。
朝の川は冷たく、足先から一気に冷気が這い上がってくる。
「冷たい……」
思わず零れた声に、ヴェルドラの耳が僅かに動いた。
レイラは肩まで水へ浸かると、肌に残った汗や汚れを洗い流した。
水を掬って髪へかけ、石鹸を泡立てながら、指先でゆっくりと梳いていく。
身体に残っていた疲れまで流れていくような心地よさに、強張っていた身体から少しずつ力が抜けていった。
「こうしていると、祖母と一緒に洗濯をしていた頃を思い出します」
レイラが静かに口を開いた。
ヴェルドラは背を向けたまま、何も言わない。
「私が布をうまく絞れなくて、いつも手伝ってもらっていました」
懐かしむように細められた目が、ふと伏せられる。
「両親は、私が幼い頃に病で亡くなりました。祖母が、私を育ててくれたんです」
髪から落ちた雫が、水面へ小さな輪を広げた。
「その祖母も三年前に亡くなって……それからは、家でずっと一人でした」
『知らん』
素っ気ない声が返ってくる。
「はい。ただ、少し思い出しただけです」
レイラは小さく微笑み、再び髪へ水をかけた。
ヴェルドラから返事はなかった。
会話が途切れると、川のせせらぎと木々のざわめきが耳に戻ってくる。
レイラは両手で水を掬い、髪に残った泡をゆっくりと洗い流した。
やがて水から上がると、布で身体を拭き、持ってきた清潔な衣服へ袖を通した。
濡れた髪を櫛で整えてから、ヴェルドラへ声をかける。
「もう大丈夫です」
ヴェルドラがゆっくりと振り返った。
レイラへ顔を近づけ、首筋から肩にかけて匂いを確かめるように鼻先を動かす。
「あの……?」
『ようやく、あの虫ケラどもの臭いが消えたな』
ヴェルドラはそう言うと、枝に干された外套へも鼻先を近づけた。
残っていたハンスの匂いまで水に流されたのか、先ほどまでの険しさが僅かに薄れる。
「もしかして、それが気になっていたんですか?」
『違う』
ヴェルドラはすぐに顔を背けた。
『不快な臭いが、我の縄張りにあることを許せなかっただけだ』
「そういうことにしておきますね」
『何だ、その言い方は』
レイラは答えず、日の当たる岩へ腰を下ろした。
外套とドレスが乾くまで、ヴェルドラも岩の上から動こうとはしなかった。
木々の間から差し込む光が少しずつ高くなり、濡れていた布から水気が消えていく。
レイラは乾いた外套とドレスを枝から外し、両腕へ抱えた。
「お待たせしました。戻りましょうか」
『ふん。まったくだ』
ヴェルドラは先に洞窟へ向かって歩き出した。
レイラもその背を追い、川辺の濡れた石へ足をかける。
その瞬間、靴底が滑った。
「きゃっ……!」
倒れかけた身体へ、黒い尾が素早く巻きつく。
腰を支えられ、レイラはどうにか体勢を立て直した。
「ありがとうございます……」
『貴様は、我が見ていなければまともに歩くこともできんのか』
「ごめんなさい……」
『次はないぞ』
ヴェルドラは呆れたように鼻を鳴らした。
それでも、黒い尾は滑りやすい川辺を抜けるまで、レイラの腰を支え続けていた。




