1話
洞窟の入り口から差し込んでいた朝の淡い光は、いつしか白く強いものへと変わっていた。
レイラは空になった籠を抱え、岩の上で小さく身を縮めていた。
残っていた木の実も果実も、すでに食べ終えてしまった。
洞窟の奥の寝床では、ヴェルドラが目を閉じていた。
眠っているのか、それともただ休んでいるだけなのか、レイラには分からない。
赤い瞳が閉ざされていても、その巨大な身体から漂う威圧感は少しも薄れていなかった。
ヴェルドラの寝床の脇には、岩壁の隙間から湧き出した水が溜まり、浅い泉を作っている。
レイラは泉を見つめたまま、籠の縁を握りしめた。
水面のすぐそばには、ヴェルドラの黒い前脚が横たわっている。
しばらく迷ったあと、恐る恐る声をかける。
「あの……」
ヴェルドラの片目が開いた。
『何だ』
「そこのお水を……飲んでもいいですか?」
ヴェルドラは泉へ目を向けると、面倒そうに鼻を鳴らした。
『好きにしろ』
「……ありがとうございます」
ヴェルドラが再び目を閉じる。
レイラは籠を岩の上へ置くと、ヴェルドラの様子を窺いながら、ゆっくりと泉へ近づいた。
その前へ膝をつき、両手で水をすくって口へ運ぶ。
冷たい水が喉を通っても、空腹は少しも紛れなかった。
レイラは元の岩へ戻り、籠を抱え直した。
やがて、ヴェルドラがゆっくりと頭を上げた。
レイラは籠を胸元へ引き寄せ、息を潜めた。
ヴェルドラはそんなレイラを一瞥すると、何も言わずに立ち上がった。
硬い鱗が岩肌を擦り、低い音を立てる。
大きな翼が広げられ、洞窟の中に風が巻き起こった。
「……どこへ……」
思わず漏れた声に、ヴェルドラの赤い瞳が向けられる。
レイラは慌てて口を閉ざした。
『貴様に教える必要があるか?』
「……すみません」
ヴェルドラは鼻を鳴らすと、そのまま洞窟の入り口へ向かって歩き出した。
次の瞬間、黒い巨体が地を蹴る。
激しい風が吹き抜け、ヴェルドラの姿は空の彼方へと消えていった。
洞窟に、静けさが戻る。
レイラはしばらく、入り口を見つめたまま動けなかった。
羽音はもう聞こえない。いつ戻ってくるのかも分からない。
けれど今なら、ここを出て村へ帰れるかもしれない。
そう思った途端、レイラの胸が激しく脈打ち始めた。
レイラは籠を岩の上へ置き、震える手をついた。
身体を起こしただけで、鈍い痛みが全身を駆け抜ける。
「っ……」
レイラは歯を食いしばり、岩壁へ手をつきながら、少しずつ入り口を目指した。
一歩進むたびに身体の奥が疼き、足に力が入らず何度もふらつく。それでも歩みを止めず、やがて陽の光が差し込む場所まで辿り着いた。
洞窟の外には深い森が広がり、木々の間を吹き抜ける風がレイラの髪を揺らした。
外の空気に触れ、胸の奥が僅かに緩む。
あと少し。
ここを出て、森の中へ身を隠せば——。
レイラが洞窟の外へ足を踏み出そうとした、そのときだった。
頭上から、巨大な影が落ちる。
「……え?」
激しい羽音とともに風が吹き荒れ、レイラの身体が大きく揺らいだ。
黒い巨体が、洞窟の前へ降り立つ。
ヴェルドラの牙には、一頭の鹿が咥えられていた。
力なく垂れ下がった鹿の首から、赤い血が滴っている。
ヴェルドラは獲物を地面へ放り捨てると、洞窟の入り口に立つレイラを見下ろした。
『そこで何をしている』
「……っ」
レイラの顔から血の気が引いた。
「わ、私は……」
『逃げるつもりだったのか?』
「ち、違います……」
掠れた声で否定しながら、レイラは後ずさった。
けれど、ヴェルドラの赤い瞳は冷たく細められている。
『見苦しい嘘をつくな』
低い声が、洞窟の奥まで響き渡る。
レイラが身を翻すより先に、ヴェルドラの尾が伸びた。
「きゃっ……!」
太い尾がレイラの腰へ巻きつき、その身体を容易く持ち上げる。
「は、離して……!」
レイラが必死に身をよじっても、尾はびくともしない。
ヴェルドラはそのままレイラを洞窟の奥へ運び、岩の上へ乱暴に放り出した。
「っ……!」
背中を打ちつけ、レイラの口から苦痛の声が漏れる。
痛みに顔を歪めながら見上げると、ヴェルドラがすぐ目の前まで迫っていた。
『貴様は我の玩具だ』
鋭い爪が、レイラの頬のすぐそばへ突き立てられる。
『玩具が勝手に逃げることを、我が許すと思ったか?』
「ご、ごめんなさい……」
『次に我の許しなく外へ出ようとすれば、その脚を折る』
レイラの身体が凍りつく。
『そうすれば、二度と余計な真似はできまい』
「……はい」
レイラは震える声で答え、俯いた。
ヴェルドラは怯えるレイラをしばらく見下ろしていたが、やがて興味を失ったように顔を背けた。
洞窟の入り口へ戻ると、放り出していた鹿を咥え、奥へと引きずってくる。
ヴェルドラは鹿の腹へ牙を突き立てた。
肉が裂け、骨の砕ける音が洞窟に響く。
レイラは目を背け、鼻を刺す血の匂いに口元を押さえた。
しばらく迷ったあと、恐る恐るヴェルドラへ声をかける。
「あの……」
『何だ』
「私も、食べられるものを探しに森へ行ってもいいですか……?」
ヴェルドラの動きが止まった。
『そう言って、また逃げるつもりではあるまいな』
「ち、違います……! 今度は本当に、食べるものを探すだけです。見つけたら、すぐに戻りますから……」
『貴様の言葉を、我が信じると思うか?』
「…………」
一度逃げようとした以上、何を言っても信じてもらえない。
レイラは俯き、傍らに置かれた籠へ目を落とした。
「でも……もう、食べるものが……」
『知るか』
冷たく突き放され、レイラは口を閉ざした。
ヴェルドラは再び鹿へ牙を立てたものの、俯いたままのレイラへ煩わしそうな視線を向ける。
やがて鹿の脇腹から肉を一塊引き裂くと、レイラの前へ乱暴に放り投げた。
『ならば、それを食って黙れ』
生温かい肉が岩の上へ落ち、赤い血が飛び散った。
レイラは驚いたように、目の前の肉とヴェルドラを見比べた。
「あ……ありがとうございます」
ヴェルドラは何も答えず、残った鹿を再び喰らい始めた。
レイラは目の前へ投げ出された肉を見つめた。
手を伸ばしかけたものの、切り口から滲む血を見て、指先を止める。
どうしても、それを口へ運ぶことはできなかった。
『いつまで眺めている』
「……っ」
レイラは肩を震わせ、ヴェルドラを見上げた。
『食わぬのか』
レイラは視線を伏せ、言いづらそうに唇を開いた。
「すみません……その、このままでは少し……」
『ならば食うな』
ヴェルドラは素っ気なく言い放つと、肉を取り戻し、そのまま口へ放り込んだ。
レイラは何も言えず、空になった籠へ視線を落とした。
『…………』
ヴェルドラは俯いたままのレイラを、煩わしそうに見下ろす。
やがて、低い声で吐き捨てた。
『来い』
「え……?」
『食えるものを探すのだろう』
レイラが驚いて顔を上げる。
『ただし、我の目が届く場所から離れることは許さん。少しでも逃げる素振りを見せれば、今度こそその脚を折る』
「……はい。ありがとうございます」
レイラは空になった籠を抱え、痛む身体をゆっくりと起こした。
ヴェルドラはレイラを待つことなく洞窟の外へ出ると、森へ顔を向けて巨大な身体を伏せた。
『さっさと行け』
「は、はい……」
レイラは岩壁へ手をつきながら洞窟を出て、ヴェルドラの脇を通り過ぎた。
その先には、先ほど逃げようとした森が広がっている。
外へ出ることを許されても、自由になったわけではない。
レイラは籠を抱きしめ、背後から注がれる赤い視線を感じながら、森へ足を踏み出した。




