4話
洞窟には、再び静寂が訪れた。
聞こえるのは、どこか遠くで水の滴る音だけ。
レイラは岩の上で身体を丸めたまま、しばらく動くことができなかった。
全身には、まだ痛みが残っている。
少し身じろぎするだけでも身体の奥が疼いて、先ほどまでの出来事が否応なくよみがえった。
乱れていた呼吸が、ようやく落ち着き始めた頃だった。
「……っ」
きゅう、と小さな音が、静まり返った洞窟に響いた。
レイラははっとして、自分のお腹を押さえる。
昨日、山へ入ってから何も口にしていない。
『……耳障りな音を立てるな、人間』
寝床の奥から不機嫌な声が響き、レイラの肩がびくりと跳ねた。
「す、すみません……昨日から、何も食べていなくて……」
『我が知るか』
「…………」
冷たく突き放され、レイラは俯いた。
けれど、空腹は消えない。
食べられるものを求めて視線を巡らせると、少し離れた場所に、横倒しになった自分の籠が見えた。
若葉は萎れ、散らばった木の実や赤い果実のいくつかは潰れている。それでも、無事なものがわずかに残っていた。
レイラは岩へ手をつき、痛む身体をゆっくりと起こした。
『何をしている』
「昨日採ったものが、まだ少し残っているので……」
籠へ向かって一歩を踏み出した途端、身体の奥に痛みが走る。
「っ……」
力の入らなくなった足がふらつき、レイラはその場へ膝をついた。
『…………』
ヴェルドラは、そんなレイラをしばらく見つめていた。
やがて巨大な尾が岩の上を滑り、レイラのすぐ脇を通り過ぎる。
「……っ!」
また何かされると思い、レイラは身を固くした。
しかし、尾はレイラには触れず、その先に転がっていた籠へ伸びた。
尾先で横倒しになった籠を引き寄せると、散らばっていた木の実や果実もまとめて、レイラの前へ乱暴に押しやった。
『それを食って黙れ』
レイラは驚いたように、目の前の籠とヴェルドラを見比べた。
「あ……ありがとうございます。えっと……」
レイラは言葉の続きを探すように、ヴェルドラの大きな顔を見上げた。
『何だ』
「そういえば……私、あなたのお名前を知らないなって……」
ヴェルドラが僅かに目を細めた。
『我が名を知ってどうする』
咎めるような声に、レイラは籠の縁を握り締めた。
「これから、なんとお呼びすればいいのか分からなくて……。それに……あなたのことを、少しでも知りたいと思ったんです」
『…………』
ヴェルドラは、怯えながらも自分を見上げるレイラを無言で睨みつけた。
『我を呼ぶ必要などない。玩具の分際で我が名を知ろうなど——勘違いも甚だしい』
「……そう、ですか」
レイラは残念そうに目を伏せた。
迷うように視線を彷徨わせたあと、もう一度ヴェルドラを見上げる。
「……ありがとうございます、黒竜さん」
『…………』
ヴェルドラが、ゆっくりとレイラへ顔を向けた。
『誰が黒竜さんだ!』
「え……?」
『勝手にそのような間の抜けた呼び方をするな!』
「では……なんとお呼びすれば……」
『我を呼ぶな!』
「す、すみません……」
レイラは怯えたように身を縮め、籠へ視線を落とした。
それから、籠の中に残っていた赤い果実を一つ拾い上げ、汚れを袖でそっと拭う。
レイラは手の中の果実を見つめたあと、ヴェルドラへ差し出した。
「黒竜さんも……一緒に、どうですか?」
『…………』
ヴェルドラは、レイラの小さな手に載せられた果実を見下ろした。
そして、険しく目を細めた。
『貴様、我の話を聞いていたのか?』
「え……?」
『そのふざけた呼び方をするなと言ったはずだ!』
「す、すみません……」
『それに、我がそのような粗末なものを食うと思うか』
「そう、ですよね……」
レイラはしゅんと肩を落とし、差し出していた果実を引っ込めた。
その姿を見つめていたヴェルドラの胸に、また理由の分からない苛立ちが湧いた。
別に、哀れに思ったわけではない。
ただ、その沈んだ顔が妙に目障りだった。
『……寄越せ』
「え?」
レイラは顔を上げ、ヴェルドラを見つめた。
『一つだけだ。さっさと寄越せ』
「は、はい……」
レイラは戸惑いながら、再び手のひらの果実を差し出した。
ヴェルドラの巨大な顔が、ゆっくりと近づいてくる。
「……っ」
鋭い牙が間近に迫り、レイラの身体が強張った。
けれど、その牙がレイラへ触れることはなかった。
長い舌が手のひらを掠め、赤い果実だけを巻き取っていく。
ヴェルドラは果実を口に含むと、噛み砕くこともなく飲み込んだ。
レイラは目を見開いたまま、一瞬動きを止めた。
それから、ほんの少しだけ嬉しそうに頬を緩める。
「おいしいですか?」
『不味い』
「……そうですか」
レイラの肩が、また小さく落ちた。
『我は肉を喰らう。草の実など好んで食わん』
「そう、ですよね……」
『分かったなら、さっさと残りを食って黙れ』
「はい……」
レイラは籠の中から木の実を一つ拾い上げ、静かに口へ運んだ。
それ以上ヴェルドラへ話しかけることなく、食べられそうなものを選びながら、一つずつ口にしていく。
身体の痛みも、ヴェルドラへの恐怖も、消えたわけではない。
穏やかな食卓とは、あまりにもかけ離れていた。
祖母を亡くしてから、家で食事をするときは、いつも一人だった。
それでも、差し出した果実をヴェルドラが一粒だけ口にした。
誰かと同じものを食べたという、その小さな事実が、レイラの胸の奥に空いていた場所を、ほんの少しだけ満たしていた。
なぜそんなふうに感じてしまうのか、レイラ自身にもまだ分からなかった。




