3話
「……ん……」
重たい瞼を、レイラはゆっくりと持ち上げた。
ぼんやりとした視界に映ったのは、見慣れた木造の天井ではなかった。
冷たい岩肌。薄暗い洞窟。どこか遠くから聞こえてくる、水の滴る音。
洞窟の入り口からは、朝の淡い光が差し込んでいた。
「あれ……ここは……」
身体を起こそうとした瞬間、全身に鈍い痛みが走った。
「っ……」
思わず息を詰める。
どうして、こんなにも身体が痛むのだろう。
自分は昨日、山へ山菜を採りに行った。それから、急に雨が降り出して——。
黒い尾。
岩の上へ押さえつける鋭い爪。
助けを求める声さえ呑み込んだ雷鳴。
途切れていた記憶が蘇り、レイラの顔から血の気が引いた。
『起きたか、人間』
低く響いた声に、レイラの身体が凍りつく。
恐る恐る顔を上げる。
暗闇の奥で、巨大な二つの赤い瞳がこちらを見下ろしていた。
黒い鱗。鋭い牙。岩をも砕きそうな爪。
そして、昨日、自分を弄んだ——黒き竜。
「……っ」
あれは夢ではなかった。
忘れようとしても、身体に残された痛みが許してくれない。
レイラは震える腕で、自分の身体を抱いた。
爪に裂かれたドレスの裾が、冷えた脚へまとわりついている。
怖い。
今度こそ、殺されるかもしれない。
逃げなければと思うのに、身体は言うことをきかなかった。
その恐怖に押し潰されそうになったとき、レイラの胸に、亡き祖母の声がよみがえった。
——『優しくありなさい、レイラ』
幼い頃から、何度も聞かされてきた言葉だった。
——『傷つけられても、恨みに心を渡してはいけないよ。許せなくてもいい。けれど憎しみに囚われれば、苦しみはいつまでも消えてはくれないからね』
——『だから、まず相手を知ろうとしなさい——』
今の自分に、黒竜を許すことなどできない。
知りたいと思うことさえ、恐ろしかった。
それでも、このまま怯えているだけでは何も変わらない。
言葉を交わせる相手なら、ほんの僅かでも生き延びる道が見つかるかもしれない。
レイラは胸元で震える手を握り締め、赤い瞳をおそるおそる見上げた。
「……お、おはようございます……」
『…………』
ヴェルドラの赤い瞳が、僅かに見開かれた。
『……貴様、今、何を言った?』
「えっと……おはようございます、と……」
『それくらい分かっている!』
突然響いた大声に、レイラの肩がびくりと跳ねた。
『貴様、昨日のことを忘れたのか?』
「……忘れていません」
その一言とともに、レイラの身体が小さく震えた。
忘れられるはずがない。
傷つけられた身体には、今もはっきりと痛みが残っている。
それでも、レイラは黒竜から目を逸らさなかった。
『ならば、なぜ我にそのような言葉を向ける』
「朝は、誰にでもきちんと挨拶をしなさいと……祖母に教わりましたから……」
『…………』
ヴェルドラはレイラを睨みつけたまま、しばらく黙っていた。
昨夜、鼻先を撫でられてから、どうにも調子が狂っている。
今までの人間なら、目覚めても泣き叫ぶか、恐怖に声を失っていた。
それなのに、この女は震えながらも、当たり前のように朝の挨拶をしてくる。
気に入らなければ、爪で引き裂いてしまえばいい。
そう思っても、胸の内に燻る苛立ちは少しも収まらない。
それを振り払うように、ヴェルドラの尾が岩を打った。
『我を何だと思っている! 矮小な虫ケラごときが、気安く我に言葉を向けるな!』
「……す、すみません……」
洞窟全体を震わせる怒声に、レイラは怯えたように身体を縮こまらせた。
それでも、少し迷ったあと、再び黒竜の赤い瞳を見上げる。
「でも……あなたにも、きちんとご挨拶した方がいいと思ったんです」
『…………』
ヴェルドラは再び尾を岩へ叩きつけた。
「きゃっ!」
洞窟が揺れ、レイラはとっさに両腕で頭を庇った。
『うるさい、人間!』
ヴェルドラは片方の前脚をレイラへ伸ばす。
黒い爪が近づいた途端、昨夜の恐怖が鮮明に蘇った。
レイラは痛む身体を引きずるように、後ずさる。
『貴様は我の玩具だ。玩具は玩具らしく、我を楽しませていればそれでいい』
「待ってください……身体が、まだ痛くて……」
『だから何だ』
「お願いです……もう、あんなことは……」
『玩具に、我を拒む権利があるとでも思っているのか?』
逃れようとしたレイラの身体を、黒い前脚が岩の上へ押さえつけた。
「いやっ……離してください!」
必死に身を捩っても、黒竜の力には敵わない。
レイラの願いも、痛みも、ヴェルドラを止める理由にはならなかった。
「お願い……やめて……!」
昨日、鼻先に触れたとき、ヴェルドラの動きが止まった。あの一瞬だけは、彼にも心があるのかもしれないと思えた。
自分が殺されなかったことにも、何か意味があったのではないか。
そんな淡い期待が、音を立てて崩れていく。
レイラは固く目を閉じた。
洞窟の奥で、滴った水が岩を打つ。
その音だけが、何も変わらない一定の間隔で、いつまでも響き続けていた。
気づけば、入り口から差し込む光の色が変わっていた。
朝の淡い光は消え、白く冷たい陽射しが洞窟の岩肌を照らしている。
やがて黒い前脚が離れると、レイラは岩の上で身体を丸めた。
乱れた呼吸が、なかなか元に戻らない。
身体に残る痛みも、恐怖も、昨日より深くなっていた。
けれど、レイラの胸を最も強く締めつけていたのは、それだけではなかった。
途中、悲鳴とは異なる声が、自分の喉から漏れた。
どうしてそんな声が出たのか、自分でも分からない。
心はあれほど拒んでいたのに。
早く終わってほしいと、それだけを願っていたのに。
自分の身体が、自分のものではなくなったような気がした。
『随分と甘い声だったな』
「ち、違います……あれは……」
レイラは掠れた声で否定した。
巨大な顔が、逃げ場を奪うように眼前へ迫る。
燃えるような赤い瞳が、羞恥に揺れるレイラの顔を覗き込んだ。
『何が違う?』
「私は……そんなつもりじゃ……」
『そうか』
ヴェルドラは短く答えただけだった。
否定も肯定もせず、すべてを見透かすような赤い瞳でレイラを見下ろしている。
その視線に耐えきれず、レイラは顔を背けた。
『顔を背けるな』
鋭い爪の先が、レイラの顎へ添えられる。
「……っ」
僅かに力を加えられただけで、レイラの顔は無理やりヴェルドラへ向けられた。
濡れた睫毛が震える。
頬は羞恥に赤く染まり、涙を湛えた瞳には、未だ消えない恐怖が浮かんでいた。
それでも縋るように自分を見つめるレイラの姿に、ヴェルドラの赤い瞳が細くなる。
『覚えておけ。貴様が何を願おうと、我には関係ない』
「…………」
『貴様の身体も、声も、すべて我のものだ』
冷酷に告げられた言葉が、レイラの胸へ重く沈んだ。
『分かったか』
レイラは答えられなかった。
答えてしまえば、本当に自分のすべてを明け渡すことになる気がした。
ヴェルドラは、岩の上で身体を丸めるレイラを冷たく見下ろしている。
『貴様は我の玩具だ』
「…………」
『我が望むときに、我の好きなように使う。貴様が壊れるまで、何度でもな』
この竜は、本当に自分を帰すつもりがない。
これ以上何か言えば、今度こそ殺されるかもしれない。
それでも、祖母が何度も優しく呼んでくれた自分の名まで、「玩具」という言葉に奪われたくはなかった。
レイラは震える唇を開いた。
「……レイラ、です」
『何?』
レイラは涙に濡れた瞳を上げ、黒竜を真っ直ぐに見つめた。
「私には……レイラという名前があります……」
その眼差しを受け、ヴェルドラの赤い瞳が険しく細められる。
『どこまでも我を苛立たせる女だ』
ヴェルドラは目の前の小さな身体を薙ぎ払おうと、巨大な前脚を持ち上げた。
レイラの肩が大きく跳ねる。
逃げることもできず、レイラは身を守るように身体を縮め、ぎゅっと目を瞑った。
その前脚を振るえば、それで終わる。
岩壁へ叩きつけられた小さな身体は、容易く壊れるだろう。
しかし、ヴェルドラの前脚は動かなかった。
先ほどの涙に濡れた眼差しが妙に頭から離れない。
それに重なるように、昨夜、鼻先を撫でた震える指先の温もりが蘇る。
『…………』
なぜ、この女を殺せない。
答えの出ない苛立ちを噛み殺すように、ヴェルドラは喉の奥で低く唸った。
『……ふん』
持ち上げていた前脚を下ろし、レイラへ背を向ける。
『貴様の名など、どうでもいい』
そう吐き捨てると、ヴェルドラは洞窟の奥にある寝床へ戻り、巨大な身体を丸めた。




