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暴虐の黒き竜と囚われの娘【R15版】  作者: いをり。
1章【最凶の出会い】

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3話

「……ん……」


重たい瞼を、レイラはゆっくりと持ち上げた。


ぼんやりとした視界に映ったのは、見慣れた木造の天井ではなかった。


冷たい岩肌。薄暗い洞窟。どこか遠くから聞こえてくる、水の滴る音。


洞窟の入り口からは、朝の淡い光が差し込んでいた。


「あれ……ここは……」


身体を起こそうとした瞬間、全身に鈍い痛みが走った。


「っ……」


思わず息を詰める。


どうして、こんなにも身体が痛むのだろう。


自分は昨日、山へ山菜を採りに行った。それから、急に雨が降り出して——。


黒い尾。


岩の上へ押さえつける鋭い爪。


助けを求める声さえ呑み込んだ雷鳴。


途切れていた記憶が蘇り、レイラの顔から血の気が引いた。


『起きたか、人間』


低く響いた声に、レイラの身体が凍りつく。


恐る恐る顔を上げる。


暗闇の奥で、巨大な二つの赤い瞳がこちらを見下ろしていた。


黒い鱗。鋭い牙。岩をも砕きそうな爪。


そして、昨日、自分を弄んだ——黒き竜。


「……っ」


あれは夢ではなかった。


忘れようとしても、身体に残された痛みが許してくれない。


レイラは震える腕で、自分の身体を抱いた。


爪に裂かれたドレスの裾が、冷えた脚へまとわりついている。


怖い。


今度こそ、殺されるかもしれない。


逃げなければと思うのに、身体は言うことをきかなかった。


その恐怖に押し潰されそうになったとき、レイラの胸に、亡き祖母の声がよみがえった。


——『優しくありなさい、レイラ』


幼い頃から、何度も聞かされてきた言葉だった。


——『傷つけられても、恨みに心を渡してはいけないよ。許せなくてもいい。けれど憎しみに囚われれば、苦しみはいつまでも消えてはくれないからね』


——『だから、まず相手を知ろうとしなさい——』


今の自分に、黒竜を許すことなどできない。


知りたいと思うことさえ、恐ろしかった。


それでも、このまま怯えているだけでは何も変わらない。


言葉を交わせる相手なら、ほんの僅かでも生き延びる道が見つかるかもしれない。


レイラは胸元で震える手を握り締め、赤い瞳をおそるおそる見上げた。


「……お、おはようございます……」


『…………』


ヴェルドラの赤い瞳が、僅かに見開かれた。


『……貴様、今、何を言った?』


「えっと……おはようございます、と……」


『それくらい分かっている!』


突然響いた大声に、レイラの肩がびくりと跳ねた。


『貴様、昨日のことを忘れたのか?』


「……忘れていません」


その一言とともに、レイラの身体が小さく震えた。


忘れられるはずがない。


傷つけられた身体には、今もはっきりと痛みが残っている。


それでも、レイラは黒竜から目を逸らさなかった。


『ならば、なぜ我にそのような言葉を向ける』


「朝は、誰にでもきちんと挨拶をしなさいと……祖母に教わりましたから……」


『…………』


ヴェルドラはレイラを睨みつけたまま、しばらく黙っていた。


昨夜、鼻先を撫でられてから、どうにも調子が狂っている。


今までの人間なら、目覚めても泣き叫ぶか、恐怖に声を失っていた。


それなのに、この女は震えながらも、当たり前のように朝の挨拶をしてくる。


気に入らなければ、爪で引き裂いてしまえばいい。


そう思っても、胸の内に燻る苛立ちは少しも収まらない。


それを振り払うように、ヴェルドラの尾が岩を打った。


『我を何だと思っている! 矮小な虫ケラごときが、気安く我に言葉を向けるな!』


「……す、すみません……」


洞窟全体を震わせる怒声に、レイラは怯えたように身体を縮こまらせた。


それでも、少し迷ったあと、再び黒竜の赤い瞳を見上げる。


「でも……あなたにも、きちんとご挨拶した方がいいと思ったんです」


『…………』


ヴェルドラは再び尾を岩へ叩きつけた。


「きゃっ!」


洞窟が揺れ、レイラはとっさに両腕で頭を庇った。


『うるさい、人間!』


ヴェルドラは片方の前脚をレイラへ伸ばす。


黒い爪が近づいた途端、昨夜の恐怖が鮮明に蘇った。


レイラは痛む身体を引きずるように、後ずさる。


『貴様は我の玩具だ。玩具は玩具らしく、我を楽しませていればそれでいい』


「待ってください……身体が、まだ痛くて……」


『だから何だ』


「お願いです……もう、あんなことは……」


『玩具に、我を拒む権利があるとでも思っているのか?』


逃れようとしたレイラの身体を、黒い前脚が岩の上へ押さえつけた。


「いやっ……離してください!」


必死に身を捩っても、黒竜の力には敵わない。


レイラの願いも、痛みも、ヴェルドラを止める理由にはならなかった。


「お願い……やめて……!」


昨日、鼻先に触れたとき、ヴェルドラの動きが止まった。あの一瞬だけは、彼にも心があるのかもしれないと思えた。


自分が殺されなかったことにも、何か意味があったのではないか。


そんな淡い期待が、音を立てて崩れていく。


レイラは固く目を閉じた。


洞窟の奥で、滴った水が岩を打つ。


その音だけが、何も変わらない一定の間隔で、いつまでも響き続けていた。


気づけば、入り口から差し込む光の色が変わっていた。


朝の淡い光は消え、白く冷たい陽射しが洞窟の岩肌を照らしている。


やがて黒い前脚が離れると、レイラは岩の上で身体を丸めた。


乱れた呼吸が、なかなか元に戻らない。


身体に残る痛みも、恐怖も、昨日より深くなっていた。


けれど、レイラの胸を最も強く締めつけていたのは、それだけではなかった。


途中、悲鳴とは異なる声が、自分の喉から漏れた。


どうしてそんな声が出たのか、自分でも分からない。


心はあれほど拒んでいたのに。


早く終わってほしいと、それだけを願っていたのに。


自分の身体が、自分のものではなくなったような気がした。


『随分と甘い声だったな』


「ち、違います……あれは……」


レイラは掠れた声で否定した。


巨大な顔が、逃げ場を奪うように眼前へ迫る。


燃えるような赤い瞳が、羞恥に揺れるレイラの顔を覗き込んだ。


『何が違う?』


「私は……そんなつもりじゃ……」


『そうか』


ヴェルドラは短く答えただけだった。


否定も肯定もせず、すべてを見透かすような赤い瞳でレイラを見下ろしている。


その視線に耐えきれず、レイラは顔を背けた。


『顔を背けるな』


鋭い爪の先が、レイラの顎へ添えられる。


「……っ」


僅かに力を加えられただけで、レイラの顔は無理やりヴェルドラへ向けられた。


濡れた睫毛が震える。


頬は羞恥に赤く染まり、涙を湛えた瞳には、未だ消えない恐怖が浮かんでいた。


それでも縋るように自分を見つめるレイラの姿に、ヴェルドラの赤い瞳が細くなる。


『覚えておけ。貴様が何を願おうと、我には関係ない』


「…………」


『貴様の身体も、声も、すべて我のものだ』


冷酷に告げられた言葉が、レイラの胸へ重く沈んだ。


『分かったか』


レイラは答えられなかった。


答えてしまえば、本当に自分のすべてを明け渡すことになる気がした。


ヴェルドラは、岩の上で身体を丸めるレイラを冷たく見下ろしている。


『貴様は我の玩具だ』


「…………」


『我が望むときに、我の好きなように使う。貴様が壊れるまで、何度でもな』


この竜は、本当に自分を帰すつもりがない。


これ以上何か言えば、今度こそ殺されるかもしれない。


それでも、祖母が何度も優しく呼んでくれた自分の名まで、「玩具」という言葉に奪われたくはなかった。


レイラは震える唇を開いた。


「……レイラ、です」


『何?』


レイラは涙に濡れた瞳を上げ、黒竜を真っ直ぐに見つめた。


「私には……レイラという名前があります……」


その眼差しを受け、ヴェルドラの赤い瞳が険しく細められる。


『どこまでも我を苛立たせる女だ』


ヴェルドラは目の前の小さな身体を薙ぎ払おうと、巨大な前脚を持ち上げた。


レイラの肩が大きく跳ねる。


逃げることもできず、レイラは身を守るように身体を縮め、ぎゅっと目を瞑った。


その前脚を振るえば、それで終わる。


岩壁へ叩きつけられた小さな身体は、容易く壊れるだろう。


しかし、ヴェルドラの前脚は動かなかった。


先ほどの涙に濡れた眼差しが妙に頭から離れない。


それに重なるように、昨夜、鼻先を撫でた震える指先の温もりが蘇る。


『…………』


なぜ、この女を殺せない。


答えの出ない苛立ちを噛み殺すように、ヴェルドラは喉の奥で低く唸った。


『……ふん』


持ち上げていた前脚を下ろし、レイラへ背を向ける。


『貴様の名など、どうでもいい』


そう吐き捨てると、ヴェルドラは洞窟の奥にある寝床へ戻り、巨大な身体を丸めた。

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