2話
それから、どれほどの時間が過ぎたのだろう。
激しく降り続いていた雨は、いつしか弱まっていた。
洞窟の外から聞こえてくるのは、木の葉を打つ静かな雨音だけだった。
腰に尾を巻きつけられたレイラの身体は、ヴェルドラが動くたびに揺さぶられていた。
指先一つ動かすことさえままならず、少し力を入れようとするだけで、全身に鈍い痛みが走る。
爪に裂かれた裾が、冷えた脚にまとわりついていた。
何が起きたのか。
何をされているのか。
分かっているはずなのに、頭がそれを受け入れることを拒んでいた。
怖い。
痛い。
帰りたい。
浮かぶのは、それだけだった。
巨大な頭が、反応を確かめるように近づいてくる。
燃えるような赤い瞳と、漆黒の鼻先が視界いっぱいに広がった。
逃げなければならない。
そう思っても、身体にはもう力が残っていなかった。
黒竜の気が変われば、レイラの命など簡単に奪われてしまうだろう。
死にたくない。
もう、傷つけないで。
レイラは声にできなかった願いを伝えるように、力の入らない腕を持ち上げた。
震える指先が、黒竜の鼻先へ触れる。
攻撃するためではない。
拒絶するためでもない。
どうか殺さないで。
これ以上、傷つけないで。
そう懇願するように、レイラは黒竜の鼻先をそっと撫でた。
その触れ方は、あまりにも弱く、そして優しかった。
ヴェルドラの動きが、ぴたりと止まる。
『何を……』
低い声に、初めて微かな戸惑いが滲んだ。
しかし、レイラに答える力は残っていない。
鼻先を撫でていた手が、力なく垂れ下がる。
張り詰めていた糸が切れるように、レイラはその意識を手放した。
『貴様……』
ヴェルドラは、動かなくなった人間の女を睨みつける。
『この我に、勝手に触れただと?』
これまでヴェルドラへ向けられた手は、彼を傷つけようとするものか、恐怖から遠ざけようとするものだけだった。
これほど怯え、拒絶していた人間が、なぜ最後にあんな触れ方をしたのか。
ヴェルドラには理解できない。
たかが人間の指先一つに虚を突かれ、その温もりを意識してしまった。
その事実が、何よりも腹立たしかった。
『たかが人間ごときが……』
ヴェルドラは忌々しげに吐き捨て、レイラを岩の上へ乱暴に下ろした。
力の抜けた身体は、身じろぎ一つしない。
顔には涙の跡が残り、乱れた髪が白い頬へ張りついていた。
これまで玩具となった人間たちも、初めは泣き叫び、やがて恐怖に耐えきれず己を失った。
目の前に横たわる女も、それらと何ひとつ変わらないはずだった。
壊れた玩具など、残しておく価値はない。
これまでと同じように、この場で殺してしまえばいい。
赤い瞳が、岩の上に横たわるレイラを捉える。
巨大な爪を伸ばせば、その細い命など容易く断ち切れる。
ヴェルドラはレイラの喉元へ、ゆっくりと爪先を近づけた。
あと僅かに力を込めるだけでいい。
だが、爪が白い肌に触れようとした瞬間、鼻先に残る柔らかな感触が不意に蘇った。
黒い爪が、寸前で止まる。
『……気に食わんな』
低く呟き、レイラへ背を向ける。
そのまま洞窟の奥にある寝床へ戻り、巨大な身体を横たえた。
殺さなかったことに、理由などない。
まだ、彼女が完全に壊れたと決まったわけではない。
目を覚ませば、再び玩具として使えばいい。
ヴェルドラは、そう自分へ言い聞かせる。
けれど、燃えるような赤い瞳は、岩の上で気を失っているレイラへ向けられたままだった。
いつまで経っても、鼻先に残された温もりが消えない。
恐怖に震えていたはずの指先。
抗うのではなく、助けを求めるように触れた手。
それは、ほんの一瞬の出来事だった。
なぜその記憶を振り払えないのか、ヴェルドラ自身にも分からなかった。




