1話
その日、レイラはただ、夕食に使う山菜を採りに出かけただけだった。
いつもと同じ山へ入り、いつもと同じ道を歩き、日が暮れる前には村へ帰る。
そんな、何でもない一日になるはずだった。
「今日は少し多めに採れたわね」
レイラは籠の中を覗き込み、満足そうに微笑んだ。
柔らかな若葉と木の実。それから、赤く熟した小さな果実もいくつか入っている。これだけあれば、今夜の食事だけでなく明日の分も足りるだろう。
一人で暮らすようになってから、食事はどうしても簡素になった。
レイラが物心つく頃には、両親は病によって亡くなっていた。
身寄りを失ったレイラを引き取り、育ててくれたのが祖母だった。祖母は両親に代わり、幼いレイラへ惜しみない愛情を注いでくれた。
採ってきた山菜を見せるたびに、あれを作ろう、これも作ろうと嬉しそうに笑ってくれたものだ。
その祖母も三年前に亡くなり、それ以来、レイラは村で一人暮らしをしていた。
村人たちは、一人になったレイラを何かと気にかけてくれていた。困っていれば声をかけ、余った野菜や焼きたてのパンを分けてくれることもあった。
家族はいなくなってしまったが、レイラは決して不幸ではなかった。
ただ、誰にでも帰る家があり、そこで待っている家族がいることを、少しだけ羨ましく思う夜があるだけだ。
ふと辺りを見回すと、山の中はいつの間にか薄暗くなっていた。
「そろそろ帰らないと……」
レイラは籠を抱え直し、村へ戻ろうと立ち上がった。
顔を上げたレイラは、そこで初めて空の異変に気づいた。
山へ入ったときには雲一つなかったはずの空が、いつの間にか重苦しい灰色に染まっている。
冷たい風が吹き抜け、木の葉がざわざわと騒ぎ始めた。
遠くで低い雷鳴が轟く。
「雨……?」
呟いた直後、大粒の雫がレイラの頬を打った。
一滴、二滴と続いた雨は、瞬く間に激しさを増していく。
「嘘……!」
レイラは慌てて籠を抱え、来た道を引き返した。
しかし、雨でぬかるんだ斜面は滑りやすく、思うように進めない。視界まで悪くなり、見慣れているはずの木々が、すべて同じものに見え始める。
雷鳴が次第に近づいてくる。
白い閃光が空を裂き、少し遅れて山全体を揺らすような轟音が響いた。
レイラは思わず身を竦めた。
このまま山を下りるのは危険だ。
せめて雨が弱まるまで、身を隠せる場所を探さなければならない。
濡れた髪を頬へ張りつかせながら進んでいると、木々の向こうに大きな岩壁が見えた。
その下には、ぽっかりと黒い穴が開いている。
「洞窟……?」
普段使う道からは少し外れた場所だった。
レイラは、この山に洞窟があることなど知らなかった。
一瞬、幼い頃に何度も聞かされた黒竜の昔話が頭をよぎった。
けれどレイラも、それは子どもを山奥へ近づけないための作り話にすぎないと思っていた。
そもそも今は、そんな昔話を気にしている場合ではない。
レイラは降りしきる雨から逃れるように、洞窟へ駆け込んだ。
「少しだけ、お邪魔します」
誰もいるはずがないと分かっていながら、そう声をかける。
祖母が生きていたなら、誰もいない場所にまで挨拶をするなんて、レイラらしいと笑っただろう。
洞窟の中は、思っていたよりも暖かかった。
外で吹き荒れる風も、ここまでは入ってこない。
レイラはほっと息をつき、濡れた肩を両腕で抱いた。
雨が弱まるまで、入口の近くで待たせてもらおう。
そう思っていた、そのときだった。
「……何かしら」
洞窟の奥から、生温かな空気が流れてきた。
風ではない。
一定の間隔を置いて、繰り返しこちらへ届いている。
まるで、何か巨大な生き物が呼吸しているようだった。
暗闇に目が慣れてくると、地面にいくつもの白いものが転がっていることに気づいた。
初めは石だと思った。
しかし、その一つには空洞のような二つの穴が開いている。
「……骨?」
それは、人の頭ほどもある獣の頭蓋骨だった。
さらに奥にも、折れた角や太い骨が散らばっている。中には錆びついた剣や、ひしゃげた兜らしきものまで混じっていた。
レイラの背中を、雨とは異なる冷たいものが伝った。
ここにいてはいけない。
本能が激しく警告していた。
レイラは籠を抱きしめたまま、ゆっくりと後ずさる。
踵を返そうとした瞬間、入口の外で稲妻が走った。
一瞬だけ洞窟の奥まで差し込んだ白い光が、暗闇の中に横たわる巨大な輪郭を浮かび上がらせる。
岩山のような身体。
光さえ吸い込みそうな漆黒の鱗。
鋭く湾曲した二本の角。
そして——ゆっくりと開かれる、血のように赤い瞳。
レイラの身体は動かなかった。
息をすることさえ忘れ、ただ目の前の存在を見つめる。
『……人間か』
ヴェルドラの低い声が、洞窟全体を震わせた。
「こ、黒……竜……」
昔話などではなかった。
黒竜は、本当にいたのだ。
何百年もの間、この山の奥で生き続けていた。
巨大な頭が持ち上がり、燃えるような赤い瞳がレイラを捉える。
『ほう。我を知っているのか』
「む、村に……昔話が……」
『昔話』
ヴェルドラは鼻を鳴らした。
『なるほど。あれから随分と時が過ぎたらしい』
幼い頃から聞かされてきた伝承が、目の前の黒竜と重なった。
かつて人間の世界で暴虐の限りを尽くし、人間たちとの戦いを境に、山奥から姿を見せなくなった恐ろしい竜。
「あの……雨宿りをしたかっただけなんです。すぐに出ていきます」
レイラは震える声で告げ、少しずつ後ずさった。
ヴェルドラは、そんな彼女を頭の先から足元まで眺める。
かつてこの洞窟へ迷い込んできた人間は、誰であろうとヴェルドラの玩具になった。
男には、わざと逃げる隙を与えることもあった。
必死に出口を目指そうが、ヴェルドラにとっては退屈を紛らわせるための戯れにすぎない。飽きれば、その場で殺した。
女には、また別の使い道があった。
雨に濡れたドレスが、目の前の女の華奢な身体へ張りついている。
怯えた呼吸に合わせて胸元が小さく上下し、白い喉では脈が忙しなく打っていた。
雨に濡れた女の匂い。
薄い肌の下に脈打つ、生きた人間の熱。
それを感じ取った途端、長らく眠っていた獣の欲望が、ゆっくりと頭をもたげた。
ヴェルドラの赤い瞳が細く眇められる。
『久しぶりの玩具だな』
「……え?」
『ずっと退屈していたのだ』
ヴェルドラが身体を起こす。
ただそれだけで洞窟の空気が震え、天井から小石が降り注いだ。
『我を楽しませろ、人間』
「ま、待ってください。私はただ——」
踵を返したレイラの目の前へ、黒い尾が叩きつけられた。
「きゃっ!」
地面が大きく揺れ、レイラはその場に尻もちをつく。
その拍子に腕から籠が滑り落ち、山菜や木の実が岩の上へ散らばった。
赤い果実が一つ、レイラのそばを転がっていく。
つい先ほどまで、それを持って家へ帰るつもりだった。
いつもの台所で、いつものように一人分の食事を作るはずだった。
ほんの少し前まで手の届くところにあった日常が、急に遠いものに思えた。
逃げ道を塞いだヴェルドラが、ゆっくりと顔を近づけてくる。
「ごめんなさい……勝手に入ったことは謝ります。だから、どうか帰してください」
『我の住処へ踏み入れておきながら、帰してほしいだと?』
「お願い……します……」
『断る』
ヴェルドラの前脚が伸び、逃げようとするレイラの身体を地面へ押さえつけた。
「いやっ……離して!」
鋭い爪先がドレスを裂き、肩から布がずり落ちる。冷たい空気に肌が晒された。
押さえつけていた前脚が離れた直後、黒い尾がレイラの腰へ巻きつき、その身体を軽々と持ち上げる。
宙に浮いた足が、行き場をなくして空を蹴った。
「お願い、下ろして……帰してください……!」
『黙れ。貴様もまだ死にたくはないだろう?』
低く響いた声に、レイラの身体が凍りつく。
『ならば、せいぜい我を楽しませることだ。飽きれば殺す』
「何を……いや、やめて……!」
逃れようと身を捩るほど、腰へ巻きついた尾が強く締まり、ヴェルドラの前脚がレイラの脚を左右に押し広げる。
赤い瞳が怯えるレイラを見下ろしていた。
殺すためではない。
この黒竜は、自分の身体を玩具として弄ぶつもりなのだ。
その意図を悟った瞬間、レイラの全身から血の気が引いた。
「嫌……お願い……それだけは……!」
何度首を振っても、ヴェルドラが手を止める気配はなかった。
レイラの願いなど、彼にとっては意味を持たない。
ここでは、助けを求める声を聞いてくれる者もいない。
自分を待っている家族も、探しに来てくれる家族もいない。
それでも、帰りたかった。
小さな家へ。
祖母と暮らした、あの場所へ。
「誰か……助けて……!」
洞窟の外で白い閃光が走る。
直後に轟いた雷鳴が、レイラの悲鳴を呑み込んだ。




