3話
イザベラは、レイラの肩口に刻まれた紋様から目を離さなかった。
『竜が生涯にただ一頭にしか刻まない印を……』
琥珀色の瞳が、ヴェルドラへ向けられる。
『私には一度も刻まなかった印を、その人間には刻んだのね』
レイラの指先が、黒い紋様の上で止まった。
生涯に、ただ一頭。
その言葉の重さを確かめるように、レイラはヴェルドラを見上げた。
『なぜ、その人間なの?』
ヴェルドラの爪が、岩床を強く擦った。
『黙れ』
『答えられないの?』
『貴様には関係ない』
吐き捨てるような声が、洞窟の空気を震わせる。
それでもイザベラは退かなかった。
しばらくヴェルドラを見据えたあと、何かを嘲るように僅かに目を細める。
『人間の女と過ごすうちに、あなたまで随分と人間じみたものね』
ヴェルドラの赤い瞳が、鋭く細められた。
『何だと』
『まさか、その人間を愛しているとでもいうの?』
その瞬間、ヴェルドラの喉から激しい唸り声が上がった。
『愛などという人間どもの言葉で、我を語るな!』
怒声が洞窟の壁へ反響し、レイラの肩が震えた。
『レイラは我の玩具だ。それ以外の何ものでもない』
胸の奥に広がりかけていた熱が、一瞬で冷えていく。
昨夜、好きだと伝えた。
何度も名前を呼び、離れたくないと告げた。
ヴェルドラは何も答えなかった。
それでも番の印を刻まれたのなら、自分はヴェルドラにとって特別なのではないかと、また期待してしまいそうになった。
けれど、ヴェルドラが口にしたのは、これまでと同じ言葉だった。
玩具。
レイラは肩口へ触れたまま、俯いた。
イザベラが冷ややかに鼻を鳴らす。
『ただの玩具だというのなら、その番の印は何なの?』
ヴェルドラは答えなかった。
『竜が生涯にただ一頭にしか刻まないものを、あなたはその人間へ刻んだのよ』
黒い爪が、岩床へ深く食い込む。
『それでもまだ、玩具だと言い張るつもり?』
『貴様には関係ないと言っている』
イザベラはしばらく赤い瞳を見返していたが、やがてふっと鼻を鳴らした。
『……まあ、いいわ』
純白の翼を畳み直し、堂々と顔を上げる。
琥珀色の瞳が、真っ直ぐにヴェルドラを見据えた。
『私を番にしなかったことを、いつか後悔させてあげる』
ヴェルドラは何も答えない。
『あなたよりも、ずっと私にふさわしい雄を見つけてみせるわ』
イザベラは高く顎を上げると、ヴェルドラへ背を向けた。
純白の翼が、洞窟の入り口でゆっくりと広げられる。
「イザベラさん」
呼び止められ、琥珀色の瞳だけが振り返った。
レイラは一度唇を開いたものの、すぐには声が出なかった。
『何?』
「イザベラさんなら、きっと見つけられると思います」
イザベラの瞳が鋭く細められた。
『あなたに慰められるつもりはないわ』
「慰めたつもりではありません」
レイラは肩口から手を離し、イザベラを見上げた。
「本当に、そう思っただけです」
しばらく、二人の間に沈黙が落ちた。
イザベラはレイラの顔を見つめている。
そこに嘲りも、勝ち誇るような色もないことを確かめるように。
「もしよければ……」
レイラは僅かに迷いながらも、言葉を続けた。
「また、お話しできたら嬉しいです」
イザベラの琥珀色の瞳が、僅かに見開かれた。
『何を……』
「イザベラさんのことを、私はまだ何も知りませんから」
イザベラは何も答えず、レイラを見つめ続けた。
やがて呆れたように、小さく息を吐く。
『……変わった人間ね』
それが拒絶なのか、そうでないのか、レイラには分からなかった。
イザベラはそれ以上何も言わず、洞窟の外へ踏み出した。
純白の翼が風を巻き起こす。
木々の葉が激しく揺れ、純白の巨体が空へ舞い上がった。
レイラは洞窟の入り口へ目を向けたまま、その姿を見送った。
イザベラは一度も振り返らなかった。
やがて翼の音が遠ざかり、純白の姿が山の向こうへ消えていく。
洞窟の中へ、静けさが戻った。
レイラの前を遮っていた黒い尾が、ゆっくりと退けられる。
残されたのは、レイラとヴェルドラだけだった。
レイラは肩口へ手を伸ばした。
生涯にただ一頭。
二度と代わりのきかない相手。
確かにそこには、ヴェルドラが刻んだ番の印がある。
それなのに、彼は自分を玩具だと言った。
「ヴェルドラさん……」
レイラが呼びかけると、赤い瞳が向けられた。
「どうして、私にこの印を刻んだんですか?」
ヴェルドラは答えなかった。
レイラから目を逸らすことも、肯定することもない。
番の印と、玩具という言葉。
相反する二つの意味だけが、沈黙の中に残されていた。




