1話
黒い鼻先が、レイラの首筋へ強く押しつけられた。
ヴェルドラは何度も匂いを確かめるように顔を擦り寄せ、熱い吐息を肌へ浴びせる。
毛布の上へ押さえ込まれたレイラは、逃げ道を塞ぐ前脚へ震える手を添えた。
「ヴェルドラさん……」
名を呼んだ途端、ヴェルドラの喉から低い音が漏れた。
黒い尾が岩床を強く打ち、そのままレイラの腰へ巻きつく。
細い身体が引き寄せられ、レイラは小さく息を呑んだ。
先ほどまでとは違う。
触れ方も、押しつけられる熱も、何もかもが激しかった。
「待って……ヴェルドラさ——」
最後まで言わせることなく、ヴェルドラはレイラを求めた。
『我から離れようとした罰だ』
「そんな……」
『村へ戻るなどと、二度と口にするな』
低く言い放たれ、レイラは黒い鱗を強く掴んだ。
ヴェルドラの胸元から伝わる熱に包まれ、乱れた呼吸の合間から何度もその名が零れる。
「ヴェルドラさん……」
名前を呼ぶたび、赤い瞳の奥に宿る熱が強くなった。
ヴェルドラはレイラの頬へ鼻先を押しつけ、その顔を背けることさえ許さない。
目の前には、自分だけを映す赤い瞳がある。
繁殖地では、どの雌竜も選ばなかった。
イザベラさえ抱かず、ヴェルドラはここへ戻ってきた。
今、その身体に求められているのは自分だけだった。
そう思うだけで、胸の奥が震えるほど嬉しくなる。
けれど、イザベラの言葉は消えてくれなかった。
——『なら、気が済むまでその人間を抱けばいいわ』
今だけなのかもしれない。
発情期の熱が過ぎれば、何も変わらない。
自分はこれからも玩具のまま、いつか飽きられる日を怯えながら待つことになる。
それでも、ヴェルドラから離れたくなかった。
「ヴェルドラさん……」
レイラは黒い首元へ両腕を回し、縋るように抱きついた。
ヴェルドラの喉から、さらに深い唸り声が漏れる。
首元へ触れたレイラの身体を抱え込むように、黒い尾へ力がこもった。
レイラは離れようとせず、何度もヴェルドラの名を呼んだ。
呼ぶたびに、涙が一つずつ頬を伝っていく。
『何を泣いている』
「違うんです……嫌なわけでは、なくて……」
なぜ涙が止まらないのか。
レイラにも上手く言葉にできなかった。
こうして求められることが嬉しい。
自分だけを見つめる赤い瞳から、目を逸らしたくない。
玩具でしかない自分が、それ以上を望んではいけない。
そう分かっているのに、ヴェルドラを求める気持ちは抑えられなかった。
黒い鼻先が頬へ触れ、流れた涙を乱暴に拭う。
その僅かな仕草だけで、胸の奥へ押し込めていたものが崩れていく。
「ヴェルドラさん……」
何度も名前を呼ぶ。
呼ばずにはいられなかった。
ヴェルドラがここにいることを確かめるように、レイラは涙を流しながら首元へ縋り続けた。
『何度呼ぶつもりだ』
「ごめんなさい……でも……」
レイラはヴェルドラの首元へ回した腕に力を込めた。
「好き……」
自分の口から零れた声に、レイラ自身が息を止めた。
ヴェルドラの動きも止まる。
赤い瞳が、首元へ縋りつくレイラを見下ろした。
『何と言った』
「何も……」
『我に嘘をつくな』
レイラは堪えきれず、黒い首元へ顔を埋めた。
「聞かないでください……」
黒い鼻先が頬へ押し当てられ、隠そうとした顔を無理やり上げさせる。
『もう一度言え』
「言えません……」
『言え、レイラ』
名を呼ばれ、レイラの瞳から新たな涙が溢れた。
イザベラのように、ヴェルドラと釣り合う竜ではない。
自分は人間で、ヴェルドラに捕らえられた玩具にすぎない。
それでも、もう隠し続けることはできなかった。
「こんな感情……持っては駄目だって、分かっているのに……」
声が震える。
「それでも……ヴェルドラさんが、好きです……」
涙に濡れた言葉が、洞窟の中へ落ちた。
ヴェルドラは答えなかった。
赤い瞳の奥で燃えていた熱が、一気に膨れ上がる。
黒い爪が岩床を深く抉った。
次の瞬間、レイラの身体がヴェルドラの胸元へ強く引き寄せられた。
「ヴェルドラさん……!」
『二度と我から離れようとするな』
レイラは黒い首元へ回した腕に力を込め、縋るように抱きしめた。
「離れません……」
乱れた息の合間に、震える声が続く。
「離れたくないです……。だから……そばにいてください……」
返事の代わりに、腰へ巻きついた尾がレイラをさらに強く引き寄せる。
それからレイラは、声が掠れてもヴェルドラの名を呼び続けた。
「好き……ヴェルドラさんが、好きです……」
その言葉を聞くたび、ヴェルドラは確かめるようにレイラを深く抱え込む。
レイラの身体には、もうほとんど力が残っていなかった。
それでも首元へ回した腕だけは離さず、ヴェルドラの熱を受け止め続ける。
やがて意識まで熱に溺れかけたとき、鋭い牙がレイラの肩口へ深く食い込んだ。
「っ……!」
突然の痛みに、レイラの身体が大きく震える。
それでも、黒い首元へ回した腕を解くことはなかった。
ヴェルドラの牙がさらに深く沈み、肩口から滲んだ血が白い肌を伝った。
やがて牙が抜かれると、首元へ回されていた腕からゆっくりと力が失われる。
「ヴェルドラさん……」
掠れた声を最後に、レイラはヴェルドラの胸元へもたれかかった。
激しく上下していた胸が、次第に緩やかになっていく。
身体を起こす力も残っていないまま、レイラは気を失うように目を閉じた。
やがてヴェルドラの視線が、レイラの肩口で止まった。
自ら残した牙の痕を囲うように、見覚えのある黒い紋様が刻まれている。
ヴェルドラの赤い瞳が見開かれた。
番の証。
自ら牙を立てたはずなのに、なぜこの女へそれを刻んだのか、ヴェルドラ自身にも分からなかった。




