7話
イザベラの琥珀色の瞳が、二人を隔てる黒い尾へ落ちた。
『……私がその人間に触れることも許さないつもり?』
『近づくなと言ったはずだ』
ヴェルドラの口元から、鋭い牙が覗く。
イザベラはその姿を見ても退かなかった。
『玩具を少し見ようとしただけでしょう』
『二度言わせるな』
低く響いた声に、洞窟の空気が震えた。
イザベラの視線が、ヴェルドラからレイラへ移る。
毛布の上に座り込んだ人間の女。
細い手足も、柔らかな肌も、竜の爪が僅かに触れただけで傷ついてしまいそうなほど脆い。
力もなければ、美しい鱗も翼も持たない。
それにもかかわらず、黒竜はその前から動こうとしなかった。
『私にまで牙を向けるなんてね』
イザベラが一歩、足を進めた。
その瞬間、ヴェルドラの喉の奥から低い音が漏れた。
洞窟の壁を震わせるほどの威嚇に、イザベラの足が再び止まる。
ヴェルドラの赤い瞳は、これ以上近づけば容赦はしないと告げていた。
イザベラはしばらくその目を見返していたが、やがて何かに気づいたように目を細めた。
『……そういうこと』
『何がだ』
『繁殖地で、あなたが私を抱けなかった理由よ』
ヴェルドラの尾が岩床を打った。
レイラの前に横たわる尾は、それでも動かない。
『抱けなかったのではない。抱く気が失せただけだ』
『まだそう言うのね』
イザベラは呆れたように鼻を鳴らした。
その視線が、もう一度レイラへ向けられる。
『まさか、相手がこんな人間だなんて思わなかったわ』
「相手……?」
レイラが小さく聞き返す。
イザベラは答えず、再びヴェルドラを見た。
『今は、その人間しか目に入らないようね』
『わけの分からぬことを言うな』
『なら、気が済むまでその人間を抱けばいいわ』
その言葉に、レイラの胸が僅かに痛んだ。
イザベラの目には、自分などヴェルドラの熱を鎮めるための相手にしか映っていないのだろう。
ヴェルドラが飽きれば、それで終わる。
イザベラは純白の翼を広げた。
『それでも、最後にあなたが選ぶのは私よ』
『勝手に言っていろ』
ヴェルドラは吐き捨てるように告げた。
イザベラの琥珀色の瞳が鋭く細められる。
それでも、その言葉を本気で受け取った様子はなかった。
やがて純白の翼が風を巻き起こす。
洞窟の前に積もっていた枯れ葉が舞い上がり、イザベラの巨体が夜空へ浮かび上がった。
琥珀色の瞳が、一度だけ洞窟の中へ向けられる。
その視線はヴェルドラではなく、レイラを捉えていた。
純白の姿は木々の上を越え、そのまま暗い空の向こうへ消えていった。
翼の音が遠ざかると、洞窟の中に静けさが戻った。
ヴェルドラは入口を見据えたまま、低く鼻を鳴らした。
レイラの前を塞いでいた尾がゆっくりと動き、その身体を囲うように曲がった。
「……追わなくて、いいんですか?」
レイラの声に、ヴェルドラの赤い瞳が向けられた。
『なぜ我が追う必要がある』
「でも、イザベラさんは……」
『その名を口にするな』
低い声に遮られ、レイラは口を閉じた。
ヴェルドラは明らかに機嫌を損ねている。
それでもレイラは、胸の奥に引っかかっているものを押し込めることができなかった。
「繁殖地へ行ったのは、相手を選ぶためだったんですよね」
『そうだ』
「それなら、どうして戻ってきたんですか」
ヴェルドラは僅かに目を細めた。
『選ぶに値する雌がいなかった。それだけだ』
「……そうですか」
レイラはそれ以上尋ねることなく、毛布を掴んで立ち上がろうとした。
その身体へ黒い尾が巻きつき、再び毛布の上へ引き戻す。
「ヴェルドラさん……」
『先ほど、村へ戻ると言ったな』
「それは……」
『貴様が決めることではない』
「でも、私はただの玩具なのでしょう?」
尾の力が強まり、レイラの身体がヴェルドラの胸元へ引き寄せられた。
レイラは赤い瞳を見上げたが、ヴェルドラは何も答えなかった。
「私は、イザベラさんのようなドラゴンではありません」
『それがどうした』
分かっていたことのはずだった。
ヴェルドラはドラゴンで、自分は人間だ。
イザベラのような翼も、鱗も持っていない。
同じ時間を生きることも、繁殖期を共にすることもできない。
ほんの僅かな時間を、飽きられずにそばへ置かれているだけ。
それなのに、イザベラの名を口にするたび、胸の奥が苦しくて仕方がなかった。
レイラはヴェルドラから顔を背けた。
「村へ帰らせてください」
その言葉に、ヴェルドラの赤い瞳が鋭く細められた。
次の瞬間、黒い鼻先がレイラの頬へ押し当てられる。
レイラの身体が毛布の上へ倒れた。
腰へ巻きついていた尾が離れ、代わりに大きな前脚が逃げ道を塞ぐ。
ヴェルドラの身体が、再びレイラの上を覆った。
「ヴェルドラさん……?」
『勝手にどこかへ行くことは許さん』
首筋へ鼻先が寄せられる。
熱い吐息が肌を撫で、レイラの身体が震えた。
『まして、我に誰がふさわしいかなど、貴様が決めることではない』
「それなら、どうして……」
どうして、自分をそばへ置くのか。
どうして、イザベラではなく戻ってきたのか。
尋ねたかった言葉は、喉の奥で消えた。
ヴェルドラの胸元から伝わる熱が、洞窟を出る前よりも強くなっている。
首筋を確かめるように鼻先を押しつけられ、レイラは毛布の上で指を握った。
繁殖地では、どの雌竜も選ばなかった。
過去に何度も相手を務めたイザベラさえ抱かず、一日も経たないうちにこの洞窟へ戻ってきた。
その理由を、ヴェルドラは答えない。
けれど、レイラへ触れる大きな身体は、抑えきれない熱を隠そうともしていなかった。




