6話
『何をしに来た、イザベラ』
ヴェルドラの低い声が、洞窟の中へ響いた。
その名を聞いた瞬間、以前ラルクから聞いた言葉がレイラの脳裏に蘇った。
——『そういえば、イザベラも君の気配が消えたときは気にしていたよ』
あのときは、ヴェルドラと古くから面識のある竜なのだとしか思わなかった。
けれど、月明かりを受けて輝く純白の鱗を見れば、ラルクがその名を口にした理由も分かる気がした。
——『君たちは、揃うと本当によく目立っていたからね』
混じり気のない白と、光さえ呑み込むような黒。
二頭が並べば、誰もが目を奪われるだろう。
レイラの意識を現在へ引き戻すように、イザベラの声が響いた。
『あなたがどこへ戻るのか、確かめに来ただけよ』
イザベラはヴェルドラへ答えながら、琥珀色の瞳をレイラへ向けた。
頭から足元まで値踏みするように眺められ、レイラは毛布の上で身体を強張らせる。
『それが、あなたの言っていた玩具?』
ヴェルドラの爪が、毛布の脇にある岩床を強く擦った。
『ここは我の縄張りだ。さっさと失せろ』
ヴェルドラはレイラの上から身体を起こし、イザベラを見据えた。
『随分と大切そうに抱えているのね』
『我のものを、我がどう扱おうと勝手だ』
『そう』
イザベラの尾が、洞窟の外でゆっくりと揺れた。
『繁殖地で私を退けてまで戻ってきた理由が、それだというの?』
レイラは息を止めた。
「繁殖地……?」
ヴェルドラの赤い瞳が、イザベラへ鋭く向けられる。
『余計なことを言うな』
『あら、何も知らされていないのね』
イザベラは僅かに目を細め、レイラを見つめた。
『発情期を迎えた竜は繁殖地へ集まり、そこで互いに相手を選ぶのよ』
純白の顔が、ヴェルドラへ向けられる。
『私とヴェルドラが繁殖期を共にしたのも、一度や二度ではないわ』
レイラの指先が、黒い鱗の上で動きを止めた。
七日ほど山を離れると言った理由。
何度も狩りへ出ていたことも、落ち着かない様子で自分の匂いを確かめていたことも、すべて発情期が近づいていたからだったのだ。
ヴェルドラは、同族の雌を選ぶために繁殖地へ向かった。
そこには、過去に何度も繁殖期を共にしたイザベラがいた。
『黙れ、イザベラ』
低い声が洞窟を震わせた。
だが、イザベラは怯むことなくヴェルドラを見返した。
『知られて困ることでもあるの?』
『貴様には関係ない』
『そうはいかないわ』
純白の前脚が、洞窟の中へ踏み入れられる。
『私とヴェルドラはいずれ番になると、昔から皆がそう思っていたわ』
『くだらん』
『あなただって、否定していなかったじゃない』
『他の竜どもが何を言おうと、我には関係ない』
イザベラは不満そうに尾を大地へ打ちつけた。
その音を聞きながら、レイラは二頭を見比べた。
同じ竜であり、互いに見劣りしないほど大きな身体を持っている。
ヴェルドラの漆黒と、イザベラの純白。
二頭が揃えば目立ったというラルクの言葉にも、いずれ番になると噂されていたことにも、納得できてしまった。
人間の自分とは、何もかもが違う。
寿命も、身体も、生き方も。
繁殖期を共にすることさえできない。
イザベラの琥珀色の瞳が、再びレイラへ向けられた。
『けれど、あなたが気にすることではないわ』
「え……?」
『ヴェルドラは、あなたを山で拾った玩具だと言っていたもの』
レイラの胸が、強く締めつけられた。
『それ以上口を開くな』
ヴェルドラの声に、これまでとは違う怒気が混じった。
洞窟の空気が震え、壁際に置かれていた木椀が僅かに音を立てる。
それでもイザベラは、ヴェルドラから目を逸らさなかった。
『あなたが言ったことでしょう?』
ヴェルドラは答えなかった。
レイラも、同じ言葉を何度も聞いてきた。
自分はヴェルドラの玩具だ。
初めから、そう言われていた。
それなのに、名前を呼ばれることも、そばへ置かれることも、身体を求められることも、いつの間にか嬉しいと思うようになっていた。
もしかすると、自分はヴェルドラにとって少しは特別な存在になれたのではないか。
そんなふうに、勝手に思い込んでいた。
けれど、本当は何も変わっていなかったのかもしれない。
レイラはただ、まだ飽きられずに済んでいるだけなのだ。
ヴェルドラが帰ってきたのも、自分に会いたかったからではない。
ここは彼の棲み処だ。
その場所へ戻れば、そこにまだ捨てていない玩具がいただけ。
帰ってきてくれたことが嬉しくて、自分から触れた。
そのことさえ、今になって恥ずかしく思えた。
レイラは、ヴェルドラの胸元へ置いていた手をそっと離した。
赤い瞳が、すぐにその動きを捉える。
「……私、やっぱり村に戻ります」
『何?』
レイラは毛布を掴み、立ち上がろうとした。
その前へ、黒い尾が落ちる。
「ヴェルドラさん……?」
『誰が許した』
先ほどよりも低い声だった。
レイラはそれ以上動くことができず、毛布の端を握った。
村へ戻ることすら、自分の意思では決められない。
ヴェルドラの所有物である限り、彼が手放すまでここにいるしかないのだ。
『玩具が離れることさえ許さないのね』
イザベラの声に、ヴェルドラが顔を上げる。
『我のものだ。貴様が口を挟むことではない』
その言葉にも、レイラの胸は僅かに痛んだ。
自分がここに置かれているのは、ヴェルドラのものだから。
それ以上の意味など、どこにもない。
イザベラはしばらく二人を見つめていたが、やがてレイラへ向かって足を進めた。
『あなたがそこまで手放そうとしない玩具が、どんな人間なのか見せてもらうわ』
『近づくな』
『少し見るだけよ』
イザベラの琥珀色の瞳が、自らと比べるようにレイラの身体をゆっくりとなぞる。
その足が、さらに洞窟の中へ踏み込もうとした。
次の瞬間、黒い尾が岩床を激しく打った。
乾いた音が洞窟の奥まで響き、亀裂の入った岩の欠片が弾け飛ぶ。
イザベラの足が止まった。
レイラの前には、純白の竜を遮るように、ヴェルドラの太い尾が横たわっていた。




