5話
岩壁の頂へ降り立つと、ヴェルドラは大きな翼を畳んだ。
眼下には、乾いた大地へ集まる竜たちの姿が見える。
互いの匂いを確かめ合うもの。
すでに相手を選び、連れ立って岩陰へ姿を消すもの。
上空を旋回しながら、なおも相手を探しているもの。
ヴェルドラはそれらを見下ろし、苛立たしげに鼻を鳴らした。
腹の奥に溜まった熱は消えていない。
今も鈍く身体を苛み、早く相手を選べと本能を急き立てている。
それにもかかわらず、どの雌竜を見ても抱く気にはなれなかった。
ヴェルドラが一頭でいることに気づき、数頭の雌竜がこちらを窺っている。
やがて、そのうちの一頭が岩壁へ近づいてきた。
赤褐色の鱗に覆われた雌竜だった。
イザベラよりも一回り小さいが、ほかの雌竜と比べれば十分に大きく、傷のない翼も美しく整っている。
雌竜は少し離れた場所へ降り立つと、誘うように尾を揺らした。
ヴェルドラはその姿を見たあと、興味を失ったように顔を背けた。
近づくなと告げるように、黒い尾が岩肌を打つ。
鈍い音が響き、雌竜は足を止めた。
それ以上近づくことなく、再び翼を広げて飛び去っていく。
ほかの雌竜を選んだところで、同じことになる。
ここへ来た目的を果たせないのなら、繁殖地に留まる意味はない。
この場所を離れれば、あとは自分の棲み処へ戻るだけだ。
ヴェルドラは立ち上がると、岩壁の縁へ足を進めた。
背後から、いくつもの視線が向けられている。
その中にイザベラのものが混じっていることにも気づいていたが、振り返ることはなかった。
大きく翼を広げ、岩壁を蹴る。
漆黒の巨体が宙へ舞い上がり、乾いた盆地を離れていった。
山脈を越える頃には、陽が大きく傾いていた。
ヴェルドラは一度も休むことなく飛び続ける。
繁殖地へ向かっていたときよりも、翼を打つ速度は上がっていた。
日が沈み、眼下に広がる山々が暗闇へ沈んでいく。
それでも、進む方角を迷うことはなかった。
見慣れた山が近づくにつれ、翼を打つ音が夜の空へ強く響いた。
やがて森の中に、洞窟の入口が見えてくる。
奥から、焚き火の淡い光が漏れていた。
ヴェルドラは洞窟の前へ降り立った。
大きな翼が起こした風に木々が揺れ、地面へ積もった枯れ葉が舞い上がる。
洞窟の中から、レイラが出てくる気配はない。
ヴェルドラは翼を畳み、足音を響かせながら中へ入った。
焚き火はほとんど燃え尽き、灰の中に赤い光を残している。
食事に使ったらしい木椀と鍋は洗われ、いつもの場所へ伏せられていた。
レイラの寝床へ目を向ける。
乾いた草の上に、その姿はない。
ヴェルドラの赤い瞳が細められた。
逃げたのか。
そう思った直後、自分がいつも身体を伏せている場所に、毛布が敷かれていることへ気づいた。
その上で、レイラが身体を丸め、静かな寝息を立てていた。
ヴェルドラは足を止めた。
なぜ、この女がここで眠っている。
自分の寝床がなくなったわけではない。
普段なら、わざわざ硬い岩床を選ぶ理由などなかった。
ヴェルドラはレイラのそばへ近づくと、その顔を覗き込んだ。
近くで大きな身体が動いても、レイラは目を覚まさない。
警戒する様子もなく、静かな呼吸を繰り返している。
ヴェルドラの尾が、岩床を一度叩いた。
乾いた音が洞窟の中へ響く。
レイラの肩が僅かに動き、閉じられていた瞼がゆっくりと開いた。
まだ眠りの残る目が、目の前にある漆黒の顔を映す。
「……ヴェルドラさん?」
レイラは大きく目を見開いた。
毛布の中から身を起こし、ヴェルドラの姿を確かめるように見上げる。
「帰ってきたんですね」
『見れば分かるだろう』
「でも、七日ほど離れると……」
『いつ戻ろうと、我の勝手だ』
ヴェルドラが鼻を鳴らす。
レイラは何かを尋ねかけたが、そのまま口を閉じた。
代わりに、安堵したように表情を緩める。
「おかえりなさい、ヴェルドラさん」
ヴェルドラは答えなかった。
その言葉を向けられることなど、考えてもいなかった。
レイラは毛布を掴み、立ち上がろうとした。
「すみません。すぐに退きます」
その身体の前へ、黒い尾が落ちた。
行く手を塞がれ、レイラが動きを止める。
「ヴェルドラさん?」
『なぜ、ここで寝ていた』
「それは……」
レイラは答えに迷い、毛布へ目を落とした。
「なかなか眠れなくて……」
『だから我の場所を奪ったというのか』
「そんなつもりでは……ごめんなさい」
レイラは再び移動しようとしたが、尾は退かなかった。
ヴェルドラはその場へ身体を伏せ、レイラへ顔を近づける。
『動くな』
短く命じられ、レイラの肩が僅かに強張った。
黒い鼻先が、髪から頬へゆっくりと近づく。
焚き火。
薬草。
水。
レイラ以外の人間や獣が近づいた形跡はない。
言いつけどおり、洞窟の周囲から離れずにいたらしい。
『逃げなかったようだな』
「……はい」
ヴェルドラは短く鼻を鳴らした。
レイラは赤い瞳を見上げたまま、ゆっくりと手を伸ばした。
細い指先が、ヴェルドラの鼻先へ触れる。
『……何の真似だ』
「帰ってきてくださって、よかったです」
触れた指先から伝わる熱に、レイラが僅かに目を細めた。
その表情を見た途端、繁殖地では満たされなかった熱が、ヴェルドラの腹の奥で大きく脈打った。
ヴェルドラの尾が動き、レイラの腰へ巻きついた。
「ヴェルドラさん……」
細い身体を引き寄せる。
レイラは小さく息を呑んだものの、抵抗しなかった。
ヴェルドラの胸元へ寄せられ、その鱗へ両手を置く。
近づいた首筋から、柔らかな匂いが立ち昇る。
ヴェルドラはそこへ鼻先を押し当てた。
レイラの身体が震える。
だが、離れようとはしなかった。
むしろ黒い鱗へ置かれた指へ、僅かに力が込められる。
その反応が、さらにヴェルドラの熱を煽った。
尾の力が強まり、レイラの身体が漆黒の胸へ深く押しつけられる。
「少し……苦しいです」
その声に、尾の力が僅かに緩んだ。
ヴェルドラは低く鼻を鳴らし、レイラの首筋から顔を離す。
赤い瞳が、熱を帯びた顔を見下ろした。
レイラも、どこか落ち着かない様子でヴェルドラを見上げている。
それでも、逃げる気配はない。
腰へ巻きついていた尾をほどくと、ヴェルドラは前脚を動かし、レイラの身体を毛布の上へ戻した。
大きな身体が、その上へ覆いかぶさる。
レイラの呼吸が僅かに乱れた。
けれど、ヴェルドラの胸元へ置かれていた手は離れない。
そのとき、洞窟の外から大きな翼の音が聞こえた。
ヴェルドラの動きが止まる。
翼が風を巻き起こし、洞窟の前に何かが降り立つ。
『……忌々しい』
低く吐き捨て、ヴェルドラは洞窟の入口へ顔を向けた。
月明かりの下で、混じり気のない純白の鱗が輝いている。
イザベラはゆっくりと洞窟の中へ顔を向けた。
琥珀色の瞳が、毛布に横たわるレイラと、その身体を覆うヴェルドラを捉える。
『こんなところに、人間の女を連れ込んでいたのね』
ヴェルドラはレイラの身体を覆ったまま、洞窟の外に立つイザベラへ赤い瞳を向けた。




