4話
ヴェルドラが飛び立つと、巻き上がっていた土埃がゆっくりと収まった。
レイラは洞窟の前に立ち、漆黒の姿が空の向こうへ消えていくのを見つめていた。
やがて翼の音も聞こえなくなった。
『我は七日ほど、ここを離れる』
そう告げられたのだから、すぐに戻ってくるはずがないことは分かっていた。
レイラは誰もいなくなった空から目を離し、洞窟の中へ戻った。
ヴェルドラが用意した食料は、壁際へ積まれていた。
薪も十分にある。水は洞窟の奥に湧く泉から汲むことができる。
七日間、一人で過ごすことに困るものはなかった。
レイラは火へ薪を足し、いつもどおり食事の支度を始めた。
けれど、鍋を火へかけたところで手を止める。
今日は、自分の分だけでいい。
ヴェルドラが狩りから戻ってくることも、獲物を食べられる大きさに裂いてもらうこともない。
出来上がった食事を木椀へ盛り、焚き火のそばへ座る。
顔を上げると、泉のそばにヴェルドラがいつも身を伏せている場所が見えた。
そこには今、何もない。
レイラは一人で食事を終えると、使った木椀を洗い、焚き火のそばへ戻った。
まだ眠るには早い。
けれど、ほかにすることも思いつかなかった。
火の中で薪が弾け、小さな火の粉が舞い上がる。
その音へ耳を傾けているうちに、朝から何度も頭へ浮かんでいたことを、また考えていた。
ヴェルドラは、どこへ行ったのだろう。
七日も山を離れなければならない理由を、彼は教えてくれなかった。
出かける前から、どこか様子が違っていた。
何度も狩りへ出ては、必要以上の獲物を持ち帰った。洞窟へ戻ればレイラの匂いを確かめ、いつもより強く尾を巻きつけた。
どこか悪いのではないかと尋ねても、何ともないとしか答えなかった。
本当に、何もないのだろうか。
自分のいない場所で、今頃何をしているのだろう。
考えたところで、答えなど分かるはずもない。
それでもレイラは、何度も同じことを考えてしまった。
やがて洞窟の外が暗くなり、レイラは寝床へ入った。
乾いた草の上へ横たわり、毛布を肩まで引き上げる。
一人で夜を過ごすのは、久しぶりだった。
ヴェルドラとは別の場所で眠っているのだから、普段と何も変わらないはずだった。
けれど、目を閉じてもなかなか眠りは訪れない。
洞窟の外から、風に揺れる木々の音が聞こえる。
遠くで獣が鳴き、草むらを小さな何かが走り抜けていった。
どれも、これまで何度も聞いてきた音だった。
それなのに今夜は、ひどく近く感じられる。
レイラは毛布の端を握り、洞窟の入口へ目を向けた。
いつもなら、何が近づいてきたとしても、ヴェルドラがいた。
山に棲む獣も、人間も、あの黒竜の前へ姿を現そうとはしない。
ヴェルドラのそばにいれば、彼以外の何かに襲われる心配などなかった。
そのことを、いつから当たり前に思うようになっていたのだろう。
初めは、眠ることさえ怖かった。
目を閉じている間に何をされるのか分からず、岩床を擦る鱗の音や、低い呼吸が聞こえるたびに身体を強張らせていた。
今は、その音が聞こえないことのほうが落ち着かなかった。
ヴェルドラがいるだけで、自分は安心していた。
そう気づいた途端、胸の奥が僅かに苦しくなった。
「……ヴェルドラさん」
呼んでみても、返事はない。
普段なら、『何だ』と面倒そうな声が返ってくる。
今夜は、自分の声が洞窟の奥へ消えていくだけだった。
レイラは仰向けになり、暗い天井を見上げた。
ヴェルドラは、七日ほどで戻ってくる。
たった七日、待てばよいだけだ。
それなのに、なぜこれほど寂しく感じるのだろう。
レイラは身体を横へ向け、毛布の中で小さく丸まった。
瞼の裏へ、ヴェルドラの姿が浮かぶ。
漆黒の鱗。
自分を見下ろす赤い瞳。
機嫌を損ねるたび、岩床を打つ太い尾。
何かを尋ねれば、いつも面倒そうに返される言葉。
どれも恐ろしく、近づきがたいものだったはずなのに、今ではひどく懐かしく思えた。
夜、身体を求められたあとのことまで思い出す。
力が抜けたまま胸元へ頬を寄せると、硬い鱗の奥から、確かな温もりが伝わってきた。
規則正しく上下する大きな胸。
頭上から聞こえる、低い呼吸。
目を覚ませば何を言われるか分からないと思いながらも、そのまま眠ってしまうほど心地よかった。
ヴェルドラの大きな身体に包まれて、もう一度眠りたい。
そう思った自分に、レイラは戸惑った。
腰へ巻きつく尾も、首筋へ寄せられる鼻先も、大きな前脚に抱え込まれることも、以前はただ怖かった。
けれど今は、思い出すだけで胸の奥が落ち着かなくなる。
帰ってきたら、ヴェルドラはまた自分を抱くのだろうか。
そう考えた途端、頬が熱くなった。
以前なら、恐ろしいとしか思わなかった。
今も、彼の力や気まぐれが怖くないわけではない。
それでも、もう嫌だとは思わなかった。
むしろ、腰へ尾を巻きつけられ、大きな前脚に抱え込まれることを、どこか待ち遠しく感じている。
「どうして……」
レイラは熱くなった顔を隠すように、毛布を引き上げた。
ヴェルドラは人間ではない。
人とは異なる姿を持ち、異なる時間を生きるドラゴンだ。
レイラを捕らえ、玩具と呼び、何度も傷つけた。
その事実が消えたわけではない。
これから先も、ヴェルドラが人間のように考え、自分の気持ちを理解してくれるとは思えなかった。
それなのに、いつの間にか、彼と過ごすことが当たり前になっていた。
名前を呼べば答えてくれることが、嬉しかった。
そばにいるだけで、安心していた。
求められれば、その身体へ自分から腕を回すようになった。
胸元で眠ることも、彼の温もりに包まれることも、心地よいと感じていた。
そして今、会いたいと思っている。
心配だからではない。
放っておけないからでもない。
ただ、ヴェルドラにそばにいてほしかった。
レイラは毛布の端を握りしめた。
どうして、これほど会いたいのか。
どうして、彼の温もりばかり思い出すのか。
「もしかして、私……ヴェルドラさんのことを……」
その先を口にすることはできなかった。
けれど、胸の内へ浮かんだ言葉を、もう否定することもできなかった。
相手はドラゴンなのに。
あれほど酷いことをされたのに。
どうして、こんな気持ちになってしまったのだろう。
考えれば考えるほど分からなくなり、恥ずかしさばかりが込み上げてくる。
レイラは毛布へ顔を埋めた。
もう眠ってしまいたいのに、目を閉じればヴェルドラの姿が浮かんでくる。
どこへ行ったのだろう。
自分のいない場所で、今頃何をしているのだろう。
七日後、いつもと変わらぬ姿で帰ってくるのだろうか。
胸の内に生まれた思いを自覚してしまった今、先ほどまでよりも彼の不在が大きく感じられた。
会いたい。
もう一度、あの温もりに触れたい。
七日後ではなく、今すぐに帰ってきてほしい。
レイラはしばらく毛布の中で目を閉じていたが、やがて身を起こした。
毛布を抱え、泉のそばのヴェルドラがいつも眠っていた場所へ向かう。
岩床へ毛布を敷き、その上へ横たわった。
自分の寝床よりも硬く、冷たい。
それでも、今夜はここで眠りたかった。
レイラは毛布にくるまり、ヴェルドラの胸元で感じた温もりを思い返しながら、ゆっくりと目を閉じた。




