3話
『何をそばに置こうと、我の勝手だ』
『答えになっていないわ』
イザベラはヴェルドラの首元へ鼻先を寄せ、そこに残る匂いを確かめた。
その仕草に、ヴェルドラの尾が苛立たしげに大地を打つ。
『ただの玩具だ。それ以上でも、それ以下でもない』
『玩具にしては、随分と深く匂いを染みつかせたものね』
焚き火や薬草に混じった女の匂いは、鱗の表面に付着しただけのものではなかった。
長い間、同じ場所で暮らし、繰り返し身体を重ねなければ、ここまで濃く残ることはない。
『貴様には関係ない』
『あるわ』
イザベラの琥珀色の瞳が、真っ直ぐにヴェルドラを見据えた。
『私と番になるとまで言われていたあなたが、人間の女の匂いをそこまで染みつかせているのよ』
イザベラはさらに続けた。
『人間を見れば殺していたあなたが、その女だけは生かしてそばに置いている。随分と、あなたらしくないことをするのね』
周囲の空気が、わずかに揺れた。
離れた場所にいた竜たちが、揃って二頭の様子を窺っている。
ヴェルドラとイザベラが、いずれ番になる。
そんな噂は、封印される以前から竜たちの間で囁かれていた。
ヴェルドラの耳にも幾度となく入っていたが、いつも聞き流していた。
誰が何を言おうと、自分には関係ない。勝手に言わせておけばいい。ただそれだけだった。
『誰が貴様を番にすると言った』
イザベラの尾が、大地を強く打った。
乾いた砂が舞い上がり、純白の鱗の上を流れていく。
『私以外に、誰がいるというの?』
『我に番など必要ない』
『何度も私を選んでおいて、今さら何を言っているの』
『その時、貴様が最もましだった。それだけだ』
周囲から、低いざわめきが広がった。
イザベラの琥珀色の瞳が鋭く細められる。
それでも彼女は退かなかった。
純白の翼をわずかに広げ、見せつけるようにヴェルドラの前へ立つ。
『なら、今回も同じでしょう』
その声には、揺るぎない自信があった。
『あの頃と何も変わっていないわ。あなたに釣り合う雌は私だけ。私に釣り合う雄も、あなた以外にはいない』
ヴェルドラは答えなかった。
周囲の竜たちへ琥珀色の瞳を向けると、その視線だけで遠巻きにしていた雌竜たちを退かせた。
やがて純白の身体が、ヴェルドラの体側へ寄せられた。
身体が触れると、発情期を迎えた雌竜の匂いが一層濃くなる。
腹の奥で燻っていた熱が強く脈打った。
イザベラは満足そうに目を細める。
ヴェルドラも拒まなかった。
ここへ来たのは、この熱を鎮めるためだ。
以前と同じようにイザベラを選び、衝動が過ぎ去るまで共にいればいい。
そうすれば、すべて元に戻る。
イザベラはヴェルドラから離れると、その場へ身体を伏せた。
純白の尾がゆっくりと脇へずれる。
ヴェルドラはその背後へ回った。
腹の奥に溜まった熱は、消えていない。
前脚をイザベラの背へかける。
だが、いざその身体を抱こうとした途端、それまでの熱が嘘のように引いた。
ヴェルドラは動きを止めた。
こんなことは、これまで一度もなかった。
苛立たしげに鼻を鳴らし、イザベラの背から前脚を下ろす。
『……何のつもり?』
『気が変わった』
『今さら? 何が気に入らないの』
『退け』
イザベラは立ち上がると、離れようとするヴェルドラの前へ回り込んだ。
純白の翼が広がり、その行く手を塞ぐ。
イザベラは探るように目を細めると、再びヴェルドラの鱗に残る人間の女の匂いを確かめた。
『……まさか、あの人間が関係しているの?』
ヴェルドラの尾が大地を打ちつけた。
先ほどよりも強い音が盆地に響き、近くにいた竜たちが揃って身を引く。
『あれはただの玩具だと言ったはずだ』
『なら、どうして私を抱けないの?』
『貴様が我を満たせるとでも思っているのか』
『これまでは満たしていたわ』
ヴェルドラの赤い瞳が鋭く細められ、牙が剥き出しになる。
それでもイザベラは退かなかった。
『たかが人間の女一人に、あなたがここまで乱されるなんてね』
低く吐き捨てられた言葉に、ヴェルドラの身体から一気に殺気が膨れ上がった。
周囲の竜たちが翼を広げ、巻き込まれまいと距離を取る。
イザベラはそれでも怯むことなく、ヴェルドラを正面から見返している。
『その程度の存在なら、今の言葉に怒る必要などないでしょう?』
乾いた風が二頭の間を吹き抜けた。
ヴェルドラは何も答えず、イザベラへ背を向けた。
『どこへ行くの』
『貴様には関係ない』
『あの女のところへ戻るつもり?』
ヴェルドラは答えず、翼を広げた。
洞窟を離れてから、まだ一日も経っていない。
食料も水も薪も、七日分は置いてきた。レイラが言いつけを守っているなら、何も問題はないはずだった。
今さら戻る理由などない。
巨大な翼が風を巻き起こし、ヴェルドラは岩壁へ向かって飛び立った。
その姿が岩壁の上へ消えても、イザベラは動かなかった。
それまで動きを止めていた純白の尾が、やがて苛立ちを押し殺すように、大地を深く抉った。




