2話
山脈を越えるにつれ、同族の気配は次第に濃くなっていった。
雄も雌も、普段はそれぞれの縄張りを持ち、滅多に顔を合わせることはない。
その竜たちが、一つの場所へ集まっている。
空気の中に混じる匂いだけでなく、遠くから響く翼の音や咆哮が、繁殖地がすでに開かれていることを告げていた。
ヴェルドラは速度を落とすことなく、連なる岩山の上を飛び越えた。
やがて眼下に、切り立った岩壁に囲まれた広大な盆地が現れる。
草木はほとんどなく、剥き出しの岩と乾いた大地がどこまでも続いていた。人間の住む土地から遠く離れ、近づくための道すらない。
そこには、すでに数頭の竜が集まっていた。
岩壁の上に伏せているもの。
大地へ降り立ち、互いの匂いを確かめ合っているもの。
上空を旋回しながら、相手を探しているもの。
ヴェルドラが盆地の上空へ入った瞬間、その場にいた竜たちが一斉に顔を上げた。
いくつもの視線が、漆黒の巨体へ向けられる。
『あれは……』
一頭の竜が、驚いたように声を漏らした。
『ヴェルドラだ』
『生きていたのか』
周囲の声を無視し、ヴェルドラは地上へ降り立った。
大きな翼が巻き起こした風に、乾いた砂が舞い上がる。
周囲から向けられる視線など、どうでもよかった。
かつては、この場所へ姿を現すだけでほかの雄竜たちが距離を取った。
そしてヴェルドラは、自ら集まってきた雌竜たちの中から、気に入った相手を選んでいた。
今回も同じだ。
ここへ来たのは、身体の内側に溜まった熱を鎮めるためにすぎない。
ヴェルドラは赤い瞳を巡らせた。
複数の雌竜の匂いが、乾いた風に乗って流れてくる。
その匂いを吸い込んだ途端、腹の奥に燻っていた熱が大きく揺れた。
だが、洞窟でレイラの匂いを嗅いだときとは違う。
身体は確かに反応しているのに、何かが足りなかった。
ヴェルドラは苛立たしげに鼻を鳴らす。
まだ発情期が本格的に始まっていないだけだ。
ここへ来た以上、いずれ相手は見つかる。
そう考えたとき、岩壁の上から一頭の竜が舞い降りた。
大きく広げられた翼も、長い尾も、混じり気のない白に覆われている。
ラルクの白銀とは異なる、雪のような純白の鱗。
陽の光を受けた滑らかな表面が、真珠のような艶を帯びていた。
純白の翼が閉じられる。
琥珀色の瞳が、真っ直ぐにヴェルドラへ向けられた。
『随分と遅かったじゃない、ヴェルドラ』
『……イザベラか』
『何百年ぶりだというのに、それだけ?』
『貴様にかける言葉などない』
『相変わらずね』
イザベラは呆れたように鼻を鳴らしたが、その足は迷うことなくヴェルドラへ近づいていく。
『何百年も気配を消しておいて、今さら何事もなかったように戻ってくるなんて、本当に勝手ね』
『我がいつどこへ行こうと、我の勝手だ』
『ええ。あなたは昔からそういう竜だったわ』
ヴェルドラの尊大な物言いにも、イザベラは一歩も退かなかった。
むしろ挑むように顎を上げ、赤い瞳を正面から見返している。
やがてイザベラは、ヴェルドラの周囲をゆっくりと歩き始めた。
以前と変わらぬ漆黒の鱗。
巨大な翼。
近づくものすべてを威圧する赤い瞳。
長い年月を経ても、その姿は記憶の中にある黒竜とほとんど変わっていない。
周囲では、ほかの竜たちが二頭の様子を窺っていた。
その視線に気づいたイザベラが琥珀色の瞳を向けると、竜たちは次々に顔を背ける。
ひととおりヴェルドラの姿を確かめると、イザベラは再びその正面へ立った。
純白の尾が、乾いた大地をゆっくりと撫でる。
『こうして戻ってきたのなら、今回も私を選ぶのでしょう?』
問いかける声に迷いはなかった。
ヴェルドラがほかの雌竜を選ぶ可能性など、初めから考えていないようだった。
『随分な自信だな』
『私以上に、あなたに釣り合う雌がいる?』
イザベラはヴェルドラの返事を待たず、さらに距離を縮める。
ヴェルドラはその姿を見下ろした。
イザベラとは、過去にも何度か繁殖期を共にしている。
互いに余計な言葉を必要とせず、期間が終わればそれぞれの縄張りへ戻る。それだけの関係だった。
今回も、同じように過ごせばよい。
拒む理由はなかった。
『好きにしろ』
『言われなくても、そうするわ』
イザベラは満足そうに目を細め、ヴェルドラの首元へ顔を寄せた。
その鼻先が、漆黒の鱗へ触れる寸前で止まる。
『……何、この匂い』
先ほどまでの余裕を残しながらも、その声には明らかな不快感が混じっていた。
イザベラはもう一度、確かめるように息を吸い込んだ。
ヴェルドラの鱗に残っている、焚き火と薬草。
そして、その奥に染みついた人間の女の匂い。
純白の顔が上がり、琥珀色の瞳が鋭く細められた。
『人間の女ね』
ヴェルドラは答えなかった。
イザベラは漆黒の巨体を見上げ、訝しげに眉をひそめる。
『まさか、そんなものをそばに置いているの?』
それまで緩やかに揺れていた純白の尾が、ぴたりと動きを止めた。




