1話
ラルクが山を去ってから、三ヶ月ほどが過ぎた。
洞窟には再び、二人だけの日常が戻っていた。
朝になればレイラが目を覚まし、薪を足して火を起こす。ヴェルドラが狩りから戻れば、その獲物を二人で食べられるように整える。晴れた日には洞窟の外へ出て薬草を摘む。
何かが劇的に変わったわけではない。
ヴェルドラは相変わらず尊大で、レイラを自分の所有物として扱った。機嫌を損ねれば尾で行く手を塞ぎ、勝手に遠くへ行こうとすれば、首根をつかんで連れ戻した。
ただ、レイラのほうは以前ほど彼を恐れなくなっていた。
夜、ヴェルドラが身体を求めることもあった。
初めの頃のように、レイラが身を固くして耐えるだけの夜ではない。腕を伸ばせば、おずおずとではあってもその背へ回される。名を呼べば、かすかな声で呼び返される。
行為が終わる頃には、レイラはヴェルドラの胸元へ頬を寄せ、そのまま力尽きたように眠ってしまう。
そんなレイラを見下ろすたび、ヴェルドラは妙な気分になった。
人間の女が自分に馴染みつつある。
それは決して悪いことではない。
手に入れた玩具が主人を受け入れ、従順になっているだけだ。
その程度には、穏やかな日々だった。
そんな日々が続く中、ヴェルドラの身体に変化が現れ始めた。
最初に気づいたのは、腹の奥へ沈む熱だった。
食事をしても消えない。
冷たい水を浴びても、夜風の中を飛んでも冷めることのない、鈍く重い熱。
ヴェルドラには、その正体がすぐにわかった。
発情期が近い。
ドラゴンにとって、珍しいことではない。
一定の周期で訪れ、一週間ほど続く。時期が来れば雄も雌も繁殖地へ集まり、それぞれ相手を選んで衝動を鎮める。
ヴェルドラも、封印される以前には何度も経験していた。
だが、山へ縛りつけられていた数百年の間は、繁殖地へ向かうことなどできなかった。
結界の内側をひたすら飛び、獣を狩り、暴れ回り、それでも収まらぬ熱が過ぎ去るのを待った。運悪く山へ迷い込んだ人間の女を抱いたこともあったが、所詮は一時しのぎにしかならない。
竜の本能を満たせるのは、同族だけだった。
今はもう、繁殖地へ向かうことを阻むものはない。
ならば、昔と同じように繁殖地へ行けばよい。
そう結論づけていたはずだった。
それにもかかわらず、ヴェルドラの足はすぐには山を離れなかった。
代わりに、狩りへ出る回数が増えた。
夜明け前に洞窟を飛び立ち、昼過ぎに戻ったかと思えば、日が沈む前にまた翼を広げる。必要以上の獲物を仕留め、血の匂いをまとったまま帰ってくる日もあった。
飛び続ければ、身体の熱を紛らわせられる。
獲物の骨を砕けば、苛立ちもわずかに薄れる。
だが、洞窟へ戻った瞬間、その努力は無駄になった。
レイラの匂いがする。
焚き火の煙や薬草に混じった、柔らかな人間の女の匂い。
それを嗅ぐだけで、腹の奥の熱が再び膨れ上がった。
『……貴様、今日どこへ行った』
夕刻、戻ったヴェルドラは、食事の支度をしていたレイラの背後へ立った。
「川辺です。洗濯と、少し薬草を摘みに」
『それだけか』
「はい」
答えを聞いても、ヴェルドラは離れなかった。
レイラの肩へ顔を寄せ、首筋から髪へ、執拗に鼻先を這わせる。
「ヴェ、ヴェルドラさん……?」
森の湿った土。
薬草。
水。
ほかの獣や人間の匂いはない。
それを確かめて、ようやく胸の奥のざわめきが静まった。
『我の許しなく遠くへ行くな』
「遠くへは行ってないですけど……」
『口答えするな』
低く言い放つと、尾がレイラの腰へ巻きついた。
逃がすまいとするように引き寄せる。細い身体がヴェルドラの胸へぶつかり、レイラが小さく息を呑んだ。
「少し、苦しいです」
その一言に、尾の力が緩んだ。
レイラはほっとしたように息を吐く。
その様子を見て、ヴェルドラの眉間に深い皺が刻まれた。
この女は我のものだ。どのように扱おうが、我の勝手ではないか。
『……軟弱な人間め』
吐き捨てるように言いながらも、ヴェルドラは尾を巻いたままレイラをそばへ置いた。
「やっぱり、どこか悪いのではありませんか?」
『何がだ』
「このところ、ずっと落ち着かないように見えます。狩りへ出る回数も増えましたし……」
『我がいつ狩りへ出ようと、我の勝手だ』
「それはそうですけど、いつもと違います」
『我は何ともない』
「本当ですか?」
『しつこいぞ』
レイラはそれ以上何も言わなかった。
だが、その夜もヴェルドラはほとんど眠れなかった。
洞窟の奥では、レイラが乾いた草と毛布で作った寝床に横たわっている。
少し離れているはずなのに、呼吸の音も、鼓動も、匂いも、すべてが鮮明に感じられた。
意識するほどに、腹の底の熱が膨れ上がっていく。
ヴェルドラは舌打ちをすると、身を起こした。
洞窟の外へ出て、夜の山を仰ぐ。
風の中に、かすかな匂いが混じっていた。
遠く離れた地に集まり始めた、同族の気配。
繁殖地が開く合図だった。
翌朝。
レイラが目を覚ますと、ヴェルドラは洞窟の入口に立っていた。
すでに出かけるつもりなのか、その背には黒い翼が広がっている。
「狩りですか?」
『違う』
短く答えて振り返る。
『我は七日ほど、ここを離れる』
「七日も……?」
レイラの表情が曇った。
『食料は置いていく。水も薪も足りるはずだ』
「どこへ行くんですか?」
『貴様が知る必要はない』
突き放すように言うと、レイラは口を閉じた。
いつもなら、それで話は終わる。
だが、その日は俯いたまま、服の裾を握っている。
「……帰って、きますよね」
その小さな声には、隠しきれない寂しさが滲んでいた。
ヴェルドラは目を細めた。
『愚問だ。ここは我の棲み処だぞ』
「そう、ですよね」
レイラは安心したように小さく笑った。
『よく聞け、レイラ』
名を呼ばれ、レイラが顔を上げる。
『我が戻るまで、山を下りるな。洞窟の周囲からも離れるな』
「はい」
『それから——』
ヴェルドラは巨大な顔をレイラへ近づけ、赤い瞳で見据えた。
『逃げようなどと考えるなよ』
レイラは一瞬だけ目を見開いた。
それから、困ったように眉を下げる。
「逃げません」
『その言葉、忘れるな』
洞窟の外へ進み、巨大な翼を広げると、土埃が舞い上がった。レイラは髪と服を押さえながら、その場に立って彼を見上げていた。
「お気をつけて、ヴェルドラさん」
黒竜は答えず、大地を蹴った。
翼を打つたびに、洞窟も、レイラの姿も小さくなっていく。
目指すのは、山脈をいくつも越えた先。
人間が足を踏み入れることのない、竜たちの繁殖地。
風の向こうから漂う同族たちの気配を辿り、黒竜はさらに速度を上げた。




