6話
翌朝、洞窟の外には雨に濡れた木々が輝いていた。
葉の先から雫が落ちるたび、朝の光を受けて小さく煌めく。
レイラはヴェルドラの前脚へ巻かれていた布を解き、傷の具合を確かめていた。
赤く開いていた傷口はほとんど塞がり、触れても血が滲むことはない。
「もう大丈夫そうですね」
『初めから、この程度の傷など何でもない』
「それでも、治ってよかったです」
レイラは安堵したように微笑み、外した布を畳んだ。
ヴェルドラは身体を起こすと、洞窟の入り口へ顔を向ける。
『獲物を捕ってくる』
「まだ傷が治ったばかりですから、無理はしないでくださいね」
『貴様に言われるまでもない』
レイラの横で、ラルクが小さく笑う。
『僕が代わりに行こうか?』
『貴様に頼んだ覚えはない』
ヴェルドラはラルクを睨みつけ、黒い翼を広げた。
洞窟を出る直前、その足が止まる。
『我が戻るまで、余計な真似をするな』
『分かっているよ』
穏やかに返すラルクをしばらく見据えたあと、ヴェルドラは地面を蹴った。
黒い巨体が木々の上へ舞い上がり、山の向こうへ消えていく。
羽音が聞こえなくなると、洞窟には泉から流れる水音だけが残った。
レイラは使い終えた布を手に立ち上がる。
「ラルクさんは、今日は採集へ行かれますか?」
『今日はやめておくよ。ヴェルドラが戻ったら、ここを発とうと思っているからね』
レイラの手が止まった。
「もう行かれるんですか?」
『随分と長居をしてしまったから』
ラルクは白銀の前脚へ顎を載せた。
『これ以上居座れば、彼が本当に襲いかかってきそうだ』
冗談めいた声に、レイラは困ったように笑った。
「ラルクさんがいなくなると、少し寂しくなりますね」
淡い水色の瞳が、レイラを見つめる。
『寂しいと思ってくれるの?』
「はい。いろいろなお話を聞かせていただきましたし、山菜や木の実を採るのも手伝ってくださいましたから」
レイラは布を泉の水ですすぎ、岩の上へ広げた。
その背中を眺めながら、ラルクの尾が静かに岩床を滑る。
『それなら、レイラ』
呼びかけられ、レイラが振り返る。
『僕のところへ来ない?』
一度聞いたことのある誘いに、レイラは僅かに目を瞬いた。
「また、ヴェルドラさんをからかっているんですか?」
『今回は、ヴェルドラをからかってるわけじゃないよ』
穏やかな声は、いつもと変わらない。
けれど、淡い水色の瞳には冗談めいた色がなかった。
レイラの表情から、ゆっくりと笑みが消えていく。
『初めは、彼が人間をそばへ置いていることが珍しかっただけなんだ』
ラルクは伏せていた身体を起こし、レイラへ顔を向けた。
『でも、君と過ごしているうちに、もっと話したいと思うようになった。君が笑うところを、もっとそばで見ていたいと思ったんだ』
レイラは何も言えず、淡い水色の瞳を見つめ返した。
『僕と来れば、君が見たいと言っていた景色を見せてあげられる』
雪に覆われた山も、凍りついた湖も、空を埋めるほどの星も。
『君を乱暴に扱うこともしないよ』
レイラは僅かに目を伏せた。
「ラルクさんは……お優しいです」
レイラの指先が、胸元の首飾りへ触れる。
青い石を包み込むと、ヴェルドラが飛び去った方角へ目を向けた。
「ラルクさんと一緒に行けば、きっと穏やかに暮らせるのだと思います」
『それなら——』
「でも、ごめんなさい」
ラルクの言葉を遮り、レイラは白銀の竜へ向き直った。
「私は、ヴェルドラさんのそばに残ります」
淡い水色の瞳が、静かにレイラを見つめている。
「彼を一人にしたくないんです。それに、私が彼のそばにいたいから」
しばらく、どちらも何も言わなかった。
やがて、岩床を撫でていた白銀の尾が止まった。
『そう』
短く答えた声には、いつもの軽やかさがなかった。
『残念だな』
「……すみません」
『謝らなくていいよ』
ラルクは再びレイラへ目を向けた。
『君が自分で選んだことなら、それでいい』
穏やかに細められた瞳を見て、レイラは小さく頭を下げた。
遠くから翼が風を打つ音が聞こえてきたのは、それから間もなくのことだった。
やがて仕留めた獣を口に咥えたヴェルドラが、木々の上から現れた。
漆黒の巨体が洞窟の前へ降り立ち、獣を岩床へ下ろす。
赤い瞳がレイラへ向けられ、傷ついた様子がないことを確かめるように全身を見下ろしたあと、その視線はラルクへ移った。
『何故、まだいる』
『君を待っていたんだよ』
ラルクは身体を起こし、白銀の翼を広げた。
『それじゃあ、僕は行くよ』
レイラはラルクのそばへ歩み寄った。
「いろいろなお話を聞かせてくださって、ありがとうございました」
『僕も、君と過ごせて楽しかったよ』
ラルクはレイラへ顔を近づけると、穏やかに目を細めた。
『また会おう、レイラ』
「はい。お気をつけて」
別れを惜しむように見上げるレイラを一度だけ見つめ、ラルクは洞窟の外へ向かう。
その途中、ヴェルドラのそばで足を止めた。
『君は羨ましいな、ヴェルドラ』
赤い瞳が、訝しげにラルクへ向けられる。
ラルクはレイラに聞こえないほど声を落とした。
『彼女を大事にしなよ』
ヴェルドラの返事を待たず、ラルクは洞窟の外へ踏み出した。
白銀の翼が大きく広がる。
舞い上がった風に木々の葉が揺れ、ラルクの巨体が空へ運ばれていく。
「さようなら、ラルクさん」
眼下から届いた声に、ラルクは一度だけ洞窟へ目を向けた。
レイラがこちらを見上げ、その隣にはヴェルドラが立っている。
白銀の姿は雨上がりの空を北へ進み、やがて山の向こうへ消えていった。




