5話
第6章 白銀竜の来訪|第5話
ラルクが洞窟へ来てから、三日が過ぎた。
宣言したとおり立ち去る気配はなく、昼間はレイラの採集について回り、食事の時間になれば当然のように木椀を待つ。
そのたびにヴェルドラは不機嫌そうに尾を打ちつけたが、ラルクが気に留める様子はなかった。
その日は朝から雲が厚く、昼を過ぎる頃には細い雨が降り始めた。
洞窟の外へ落ちる雨が岩肌を濡らし、木々の葉を絶え間なく揺らしている。
レイラは焚き火のそばへ座り、村から持ち帰った衣服を畳んでいた。
泉のそばでは、ヴェルドラが前脚へ顎を載せて目を閉じている。
ラルクは入り口近くに伏せ、降り続く雨を眺めていた。
「ラルクさんは、普段はどこで暮らしているんですか?」
不意に尋ねられ、淡い水色の瞳がレイラへ向けられる。
『僕の住処が気になるの?』
「はい。ヴェルドラさんとは昔からのお知り合いだと仰っていましたけど、ずっと近くにいらしたわけではないんですよね?」
『そうだね。ここから北へ、いくつも山を越えた先に僕の住処があるよ』
レイラは畳んだ衣服を膝の脇へ置いた。
「そこも、こちらの山と似ているんですか?」
『うん。でも、冬になると山のすべてが雪に覆われる。湖まで凍って、どこを見ても真っ白になるよ』
「湖まで……」
驚いたように目を見開くレイラを見て、ラルクは穏やかに目を細めた。
『雪を見たことは?』
「村にも降りますけど、山も湖も覆ってしまうほどではありません」
『それなら、君が見れば驚くだろうね』
「きっと、とても綺麗なんでしょうね」
レイラはまだ見ぬ景色を思い浮かべるように、洞窟の外へ目を向けた。
『昔、凍った湖へヴェルドラが降りたことがあってね』
閉じられていた赤い瞳が開く。
『余計なことを話すな』
『まだ何も話していないだろう?』
『貴様が何を言おうとしているかくらい分かる』
ラルクは構わず続けた。
『自分の重さも考えずに降りたものだから、氷が一面割れて、そのまま湖へ落ちたんだ』
レイラの口元から、小さな笑い声が漏れる。
『笑うな』
ヴェルドラの赤い瞳が向けられ、レイラは慌てて口元を手で覆った。
「すみません。でも、ヴェルドラさんにも、そんなことがあったんですね」
『あの程度、落ちたうちに入らん』
『湖の底まで沈んでいたけどね』
『黙れ』
洞窟の奥へ低い声が響く。
レイラは笑いを堪えるように俯いたものの、その肩は僅かに揺れていた。
その姿を眺めながら、ラルクの白銀の尾がゆっくりと岩床を撫でる。
初めは、ヴェルドラを苛立たせるために話し始めただけだった。
けれど、レイラが次にどんな顔をするのか見たくなり、ラルクは別の話を続けた。
雲よりも高い山のこと。
月の光を受けて、青白く輝く海のこと。
何日飛び続けても果てが見えないほど、広大な森のこと。
レイラは一つ話すたびに驚き、ときには問い返しながら、楽しそうに耳を傾けていた。
「ラルクさんは、いろいろな場所へ行かれたんですね」
『長く生きているからね』
「お一人で?」
『僕たちは、人間のように群れて暮らさないから』
「寂しくはないんですか?」
ラルクは一度、瞬きをした。
これまで人間と話すことはあっても、そんなことを尋ねられた覚えはない。
『考えたこともなかったな』
「そうなんですね」
レイラはそれ以上踏み込まず、畳み終えた衣服を抱えて立ち上がった。
憐れむでもなく、恐れるでもない。
ただ、ラルク自身へ向けられた問いだった。
レイラが衣服を岩棚へ置き、再び焚き火のそばへ戻ってくる。
「ほかには、どんな場所へ行かれたんですか?」
『そうだな……』
ラルクは僅かに考えた。
『山の頂からなら、雲一つない夜には空を覆うほどの星が見えるよ。人間の村で見るよりも、ずっと近くにね』
「空を覆うほど……」
レイラの瞳が、子供のように輝く。
「見てみたいです」
その言葉を聞いた途端、ラルクの口から自然に言葉が零れた。
『なら、いつか僕が連れていってあげようか』
岩床を打つ鋭い音が響いた。
黒い尾が二人の間へ叩きつけられ、レイラの肩が大きく跳ねる。
『貴様がその女を連れ出す必要はない』
ヴェルドラが身体を起こし、ラルクを睨みつける。
赤い瞳には、これまでの苛立ちとは異なる剣呑な光が宿っていた。
『触れれば殺すと、告げたはずだ』
洞窟の空気が張りつめる。
ラルクは赤い瞳を見つめ返した。
ヴェルドラの言葉は、単なる脅しではない。
自分がレイラへ触れれば、目の前の黒竜は本気で牙を剥くだろう。
『そうだったね』
ラルクはそれ以上何も言わず、前脚へ顔を載せた。
「あの……私は、お話を聞けただけでも十分ですから」
レイラが二頭の間を宥めるように微笑む。
「ありがとうございます、ラルクさん」
『どういたしまして』
いつもと変わらない穏やかな声で答えた。
けれど、胸の奥に残ったものは消えなかった。
やがて雨が弱まり、洞窟の外が薄暗くなり始める。
レイラは焚き火へ薪を足し、夕食の支度を始めた。
ラルクはその様子を眺めながら、先ほど口にした言葉を思い返していた。
先ほどレイラを星空へ誘った言葉は、ヴェルドラの反応を楽しむために口にしたものではなかった。
ただ、レイラにあの景色を見せたいと思った。
自分が見てきたものを彼女へ話し、驚く顔や楽しそうに笑う姿を、もっと見ていたいと思った。
その日の夕食を終えると、レイラは木椀を片づけ、作り直した寝床へ向かった。
「おやすみなさい、ヴェルドラさん」
ヴェルドラは答えず、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「おやすみなさい、ラルクさん」
『おやすみ、レイラ』
毛布へ包まったレイラが目を閉じる。
しばらくすると、焚き火の弾ける音に混じって、静かな寝息が聞こえ始めた。
ヴェルドラは泉のそばへ伏せ、赤い瞳を閉じている。
ラルクも目を閉じたが、昼間に聞かせなかった話がいくつも浮かんできた。
南の地に咲く、夜になると光る花。
朝日を受けて、黄金色に染まる岩山。
遥か昔に見た、地平の彼方まで続く渡り鳥の群れ。
どの話なら、レイラはまたあのように笑うのだろう。
ラルクはゆっくりと目を開き、眠っているレイラへ視線を向けた。
そのとき、泉のそばから注がれる視線に気づく。
眠っていたはずのヴェルドラが、赤い瞳でラルクを見据えていた。
二頭の視線が、洞窟の薄闇の中でぶつかった。
ラルクは何も言わず、再び前脚へ顔を載せる。
けれど、淡い水色の瞳は開いたままだった。
人間一人の笑顔を思い浮かべながら、次の日を待つ。
そんな夜を過ごすのは、ラルクにとって初めてのことだった。




