4話
翌朝、レイラが目を覚ますと、洞窟の入り口は淡い朝の光に満たされていた。
身体を起こし、肩からずり落ちた毛布を掛け直す。
入り口近くでは、ラルクが外へ顔を向けたまま伏せている。
泉のそばでは、ヴェルドラが目を閉じていた。
「おはようございます、ヴェルドラさん」
赤い瞳が、すぐに開いた。
「ラルクさんも、おはようございます」
『おはよう、レイラ』
『朝から騒ぐな』
「すみません」
レイラは毛布を畳むと、寝床の脇へ置いた。
それから水と新しい布を用意し、ヴェルドラの前脚へ近づく。
「傷を見せてください」
『またか』
「治るまでは毎日見ます」
ヴェルドラは面倒そうに顔を背けたものの、前脚を引くことはなかった。
レイラは巻かれていた布を解き、傷口へ残った薬草を取り除いていく。
その様子を入り口から眺めていたラルクが、ゆっくりと顔を上げた。
『君が、人間に手当てをさせるなんてね』
『こいつがうるさいから、好きにさせているだけだ』
レイラは二頭の会話を聞きながら、新しい薬草を傷口へ当てた。
昨日よりも血は滲んでおらず、傷は少しずつ塞がり始めている。
「これなら、もう数日でよくなりそうです」
『ならば、もう触る必要はない』
「完全に治るまでは駄目です」
布を巻き終えると、レイラは使ったものを片づけ、壁際に置かれていた籠を手に取った。
「近くで、山菜と木の実を採ってきます」
ヴェルドラの赤い瞳が、レイラへ向けられた。
『必要ない』
「持ってきた食材だけでは、すぐになくなってしまいますから」
『ならば、獲物を喰えばいい』
「私は、ヴェルドラさんたちのようには食べられません」
籠を手に洞窟の入り口へ向かうと、ラルクが身体を起こした。
『僕も一緒に行こうかな』
ヴェルドラの尾が、ラルクの前へ叩きつけられる。
『貴様がついていく必要はない』
『少し、この辺りを見てみたいだけだよ』
『一人で行け』
『一人で見ても、面白くないだろう?』
赤い瞳が険しく細められる。
『我の玩具に近づくな』
『別にいいじゃないか。少し興味があるだけだよ』
ラルクは黒い尾を避け、その横を悠然と通り過ぎた。
レイラは困ったように二頭を見比べる。
「あの、本当に近くまでですから」
『我の気配が届かぬところまで行くな』
「はい」
レイラは素直に頷き、洞窟の外へ足を踏み出した。
ラルクも当然のようにそのあとへ続く。
『おい』
ヴェルドラの低い声に、白銀の巨体が足を止めた。
『その女に触れれば殺す』
ラルクは振り返り、赤い瞳を見つめ返した。
『分かっているよ』
穏やかな声で答えると、今度こそレイラのあとを追って木々の間へ入っていった。
朝露に濡れた草を踏みながら、レイラは洞窟の周りをゆっくりと歩いていく。
木々の隙間から差し込む光が、白銀の鱗へ淡く反射していた。
レイラが足元へ屈み込むと、ラルクもその手元を覗き込む。
『それを食べるの?』
「はい。柔らかい葉は、煮込むと美味しいんです」
摘み取った山菜を、手にした籠へ入れる。
ラルクはその隣に生えているよく似た草へ鼻先を近づけた。
『こっちは?』
「そちらは食べられません。よく似ていますけど、口にするとお腹を壊してしまいます」
『僕には同じものに見えるけどね』
「葉の形が少し違うんです」
レイラは二つの葉を並べ、指先でその違いを示した。
ラルクはしばらく眺めたあと、興味を失ったように顔を上げる。
『人間は、食事をするだけでも大変だね』
「慣れてしまえば、それほどでもありませんよ」
レイラは微笑み、再び山菜を摘み始めた。
しばらく歩くと、木々の間に赤い実をつけた枝が見えた。
レイラは背伸びをして手を伸ばしたものの、実のついた枝には指先が届かない。
もう一度つま先立ちになったとき、白銀の尾が頭上を通り過ぎた。
尾の先が枝へ巻きつき、レイラの手が届くところまで静かに引き下ろす。
「ありがとうございます、ラルクさん」
『どういたしまして』
レイラは赤い実を摘み、籠へ入れていく。
その様子を見下ろしながら、ラルクが口を開いた。
『昨日、彼のところへ帰ると約束したと言っていたね』
「はい」
『どうして?』
レイラの手が止まる。
「どうして、というのは……」
『村へ残ることもできたんだろう?』
「……はい」
ラルクは急かすことなく、レイラの答えを待っている。
レイラは摘み取った実を掌へ載せたまま、僅かに目を伏せた。
『彼が怖くないの?』
「怖いです」
迷いのない答えに、淡い水色の瞳がレイラへ向けられる。
「今でも、怒っているヴェルドラさんを見ると身体が竦みます」
『それなら、どうしてここにいるの?』
レイラはすぐに答えられず、摘み取った実を籠へ入れた。
「村に残っても、きっとヴェルドラさんのことが気になっていたと思います」
『彼の何が、そこまで気になるの?』
レイラの指先が、胸元の首飾りへ触れる。
「それは、私にもまだ分かりません」
青い石を指先で包み、ヴェルドラのいる洞窟の方角へ目を向ける。
「だから、もっと知りたいんです。ヴェルドラさんのことを」
ラルクは何も言わず、その横顔を見つめた。
やがて白銀の尾から枝が離れ、赤い実をつけた枝葉が元の高さへ戻っていく。
『やっぱり、君は変わっているね』
「そうでしょうか……?」
『彼のそばへ自分から戻ろうとする人間なんて、君くらいだと思うよ』
レイラは返す言葉を探したものの、何も浮かばなかった。
十分な山菜と木の実を集め終えると、二人は来た道を洞窟へ引き返した。
やがて木々の向こうに、漆黒の巨体が見えてくる。
ヴェルドラは洞窟の入り口へ伏せ、レイラたちが戻ってくる方角を見据えていた。
姿を見つけた途端、黒い尾が岩床を一度打つ。
「ただいま戻りました、ヴェルドラさん」
『遅い』
「すみません。木の実を探すのに、少し時間がかかってしまって」
『僕が一緒にいたんだから、心配する必要はなかっただろう?』
『貴様がいたからだ』
ラルクは気にした様子もなく、ヴェルドラの横を通って洞窟へ入る。
『何を話していた』
背後から飛んできた声に、レイラが振り返る。
「山菜や木の実のことを、少し」
『それだけか』
「それから……どうして私がここへ戻ってきたのかと、ラルクさんに聞かれました」
赤い瞳が、ラルクへ向けられた。
『余計な詮索をするな』
『ただ気になっただけだよ』
『貴様には関係ない』
『彼女は答えてくれたけどね』
ヴェルドラは牙を覗かせ、低く唸った。
『そんなに怒らなくてもいいだろう。君のことをもっと知りたいと言っていたよ』
「ラルクさん……!」
レイラの頬が、微かに赤くなる。
ヴェルドラは何も言わず、目の前に立つレイラを見下ろした。
「その……まだ、知らないことばかりですから」
赤い瞳から逃れるように、レイラは顔を伏せた。
しばらく沈黙が続いたあと、ヴェルドラは鼻を鳴らして泉のそばへ戻っていく。
『勝手にしろ』
レイラはその背中を見つめていたが、やがて集めた山菜を片づけるため、焚き火の前へ戻った。
ラルクは入り口近くへ身体を伏せた。
その口元には、楽しそうな笑みが浮かんでいた。
『また採りに行くときは手伝うよ、レイラ』
「ありがとうございます」
ヴェルドラの尾が、岩床を強く打った。
音に驚いてレイラが振り返ると、赤い瞳はラルクを睨みつけている。
ラルクは気づいていながら、何も言わずに白銀の前脚へ顔を載せた。




