3話
『帰るぞ』
ヴェルドラはラルクから顔を背けると、レイラを胸元へ抱えたまま地面を蹴った。
傷の残る黒い翼が大きく広がり、木々の上へ舞い上がる。
「ヴェルドラさん、まだラルクさんが——」
『放っておけ』
言い終わるより先に、背後から羽音が近づいてきた。
振り返ると、白銀の巨体が何事もなかったように後ろを飛んでいる。
ラルクはレイラと目が合うと、穏やかに目を細めた。
やがて山の中腹へ辿り着き、ヴェルドラが洞窟の前へ降り立つ。
レイラを岩床へ下ろした直後、その背後へラルクも舞い降りた。
ヴェルドラの赤い瞳が、険しく細められる。
『何故ついてきた』
『もう少し、君たちを見ていたくなってね』
『失せろ』
『そう急かさなくてもいいだろう』
ラルクはヴェルドラの横を通り過ぎ、洞窟の中へ顔を覗かせた。
『ここが今の君の住処か』
『勝手に入るな』
制止する声にも構わず、ラルクは洞窟へ前脚を踏み入れる。
白銀の巨体が入ると、広かったはずの洞窟が急に狭くなったように感じられた。
ラルクは中を見回したあと、入り口近くの広い岩床へ身体を伏せる。
ヴェルドラの爪が、岩床を強く擦った。
レイラは二頭の間へ視線を行き来させたあと、抱えていた鞄を壁際へ下ろした。
「あの、荷物を片づけてもいいですか?」
ヴェルドラから返事はなかった。
レイラは鞄を開き、持ち帰った衣服や食料を一つずつ取り出していく。
畳んだ衣服を岩棚へ置き、袋に入れた食材を焚き火のそばへ運ぶ。
最後に毛布を取り出すと、岩床へ散らばったままになっていた草や葉へ目を向けた。
レイラはその場へ膝をつき、使えそうなものを集め始める。
その様子を眺めていたラルクが、僅かに首を傾げた。
『君は、そこで眠るの?』
「はい。いつもここで寝ていました」
草を集めていた手が、ほんの一瞬止まる。
「前の寝床は、壊れてしまいましたから」
ラルクの淡い水色の瞳が、ヴェルドラへ向けられる。
赤い瞳が睨み返すと、ラルクは何も言わずに顔を戻した。
レイラは集めた乾いた草を平らに整え、その上へ持ち帰った毛布を広げた。
新しい寝床を指先で確かめ、レイラは小さく息をつく。
洞窟の外へ目を向けると、陽はすでに西へ傾き始めていた。
レイラは焚き火の前へ移動し、鍋へ水を注いだ。
火を起こすと、持ち帰った野菜と干し肉を切り分け、鍋の中へ入れていく。
しばらくすると、煮込まれた肉と野菜の匂いが洞窟へ広がった。
ラルクが興味深そうに鼻先を動かす。
『それは何?』
「夕食です」
『人間は、食べ物へ随分と手を加えるんだね』
「はい。私たちは、獲物をそのまま食べることはできませんから」
『僕たちは、そのままで十分だけどね』
「ヴェルドラさんも、今は私が作ったものを食べてくださいます」
ラルクの視線が、泉のそばへ伏せているヴェルドラへ向けられた。
『君が、人間の料理を?』
『何か文句があるのか』
『いや。本当に随分と変わったと思ってね』
ヴェルドラは苛立たしげに顔を背けた。
煮上がったスープを木椀へ盛ると、レイラは一つをヴェルドラの前へ置いた。
もう一つの木椀にもスープを注ぎ、入り口近くへ伏せているラルクへ顔を向ける。
「ラルクさんも、よろしければ召し上がりますか?」
『僕にもくれるの?』
「はい。お口に合うかは分かりませんけど……」
レイラは差し出した木椀をラルクの前に置いた。
湯気の立つスープへ鼻先を近づけ、匂いを確かめる。
やがて舌先で一口掬うと、淡い水色の瞳が僅かに見開かれた。
『悪くないね』
「よかったです」
レイラは安心したように微笑み、自分の木椀を手に取った。
ヴェルドラは黙ったままスープを口へ運んでいる。
三人の間に、焚き火の弾ける音が響いた。
「ラルクさんとヴェルドラさんは、どうやって知り合ったんですか?」
レイラの問いに、ラルクが顔を上げる。
『初めて会ったとき、彼は僕の獲物を横取りしたんだ』
『我の縄張りへ入った貴様が悪い』
『あそこは君の縄張りではなかったよ』
『我が立った場所は、すべて我の縄張りだ』
ラルクは呆れたように息を吐いた。
『昔から、こういう奴なんだ』
レイラは木椀を抱えたまま、僅かに口元を緩めた。
それに気づいたヴェルドラが、鋭い視線を向ける。
『何がおかしい』
「すみません。何だか、今とあまり変わらないと思って……」
『君のことを知りたいと言うから、教えているだけだよ』
『余計なことまで話すな』
ラルクは気にすることなく、残っていたスープを舌ですくった。
『……けれど、本当に死んだと思っていたんだよ。君の気配は、どこにもなかったから』
ヴェルドラは答えず、空になった木椀から顔を上げた。
『そういえば、イザベラも君の気配が消えたときは気にしていたよ』
『知ったことか』
『君たちは、揃うと本当によく目立っていたからね』
「イザベラさんというのは……?」
『僕たちと同じドラゴンだよ』
レイラの指先が、木椀の縁をそっとなぞった。
何かを尋ねようと顔を上げたとき、ヴェルドラの低い声が響く。
『くだらぬ話は終わりだ』
ラルクはそれ以上続けることなく、前脚のそばに置かれた木椀へ目を向けた。
『しばらく、ここで過ごすことにするよ』
『誰が許した』
『別に許しを求めた覚えはないよ』
『今すぐ出ていけ』
『数日くらい、いいじゃないか』
ラルクは白銀の前脚へ顔を載せた。
ヴェルドラはしばらく白銀竜を睨んでいたが、やがて諦めたように泉のそばへ身体を伏せた。
レイラは木椀と鍋を片づけると、作り直した寝床へ向かった。
新しい毛布に包まり、二頭の竜へ顔を向ける。
「おやすみなさい、ヴェルドラさん」
赤い瞳が、レイラへ向けられた。
「ラルクさんも、おやすみなさい」
『おやすみ、レイラ』
ラルクは穏やかに答え、目を閉じた。
やがて寝床から、レイラの静かな寝息が聞こえ始める。
洞窟の入り口では、ラルクも身体を丸めている。
泉のそばへ伏せたヴェルドラだけが、いつまでも赤い瞳を閉じようとはしなかった。




