2話
『我の玩具だ』
低く響いた声に、ラルクは僅かに目を細めた。
『玩具、ね』
ヴェルドラの赤い瞳が、険しく細められる。
『何だ』
『別に。ただ、君にしては珍しいなと思っただけだよ』
先ほどヴェルドラが人間を抱えていた姿を思い返すように、白銀の尾がゆっくりと地面を撫でた。
ヴェルドラの爪が、苛立たしげに地面を掻いた。
『用が済んだなら失せろ』
『久しぶりに会ったんだ。もう少しくらいいいだろう』
ラルクはヴェルドラの返事を待たず、木々の間へ身体を伏せた。
ヴェルドラは不快そうに唸ったものの、それ以上は何も言わなかった。
やがて陽が高く昇り、木々の影が短くなり始めた頃、森の奥から微かな足音が聞こえてきた。
ヴェルドラの耳が動き、赤い瞳が木々の向こうへ向けられる。
それまで苛立ちに満ちていた意識が、たった一つの足音へ向けられたことに気づき、ラルクも同じ方角を見た。
やがて木々の間から、大きく膨らんだ鞄を抱えたレイラが姿を現す。
「ヴェルドラさん、お待たせしまし——」
言葉が途中で止まった。
見慣れた漆黒の巨体の向かいに、もう一頭の竜がいる。
ヴェルドラとはまるで異なる、白銀の竜だった。
レイラの足が止まる。
「……ドラゴン?」
思わず漏れた声に、二頭の視線が同時に向けられた。
レイラは驚きに目を見開いたまま、ラルクを見上げる。
「ヴェルドラさん以外にも……ドラゴンって、いたんですね」
『もちろん。滅びた覚えはないよ』
ラルクは穏やかに目を細めた。
『僕はラルク。ヴェルドラとは昔からの知り合いだよ』
レイラは二頭の竜を交互に見た。
ヴェルドラ以外の竜と出会うなど、考えたこともなかった。
「私はレイラと申します」
ドレスの裾を摘まむ代わりに鞄を胸元へ抱え、軽く頭を下げる。
『レイラか。よろしく』
ラルクが顔を近づける。
レイラは僅かに身体を強張らせたものの、逃げることはなかった。
近くで見る白銀の鱗は、ヴェルドラのものとは全く違っている。
光を吸い込むような漆黒ではなく、表面を滑った陽の光が淡い輝きとなって森へ散っていた。
『いつまで見ている』
ヴェルドラの低い声に、レイラは我に返った。
「す、すみません。ヴェルドラさんとは鱗の色が全く違うので……」
『構わないよ。君が見たいなら、好きなだけ見ればいい』
ラルクは余裕のある声で答えた。
その視線を遮るように、ヴェルドラが二人の間へ顔を割り込ませる。
「ヴェルドラさん」
レイラが宥めるように名前を呼ぶ。
ラルクの視線が、二人の間を行き来した。
『君、人間に名前を教えたんだね』
『それがどうした』
『ずいぶん気に入っているんだね』
『まだ壊れていない。それだけだ』
ヴェルドラは吐き捨てるように答えた。
ラルクはそれ以上何も言わず、レイラの抱えている鞄へ視線を移した。
『それを持って、彼のところへ戻ってきたの?』
「はい。ここで暮らすために必要なものを取りに行っていました」
『自分から?』
「はい」
レイラは迷うことなく頷いた。
「日が沈む前に、ここへ帰ってくると約束しましたから」
ラルクは淡い水色の瞳を僅かに見開いた。
逃げる機会がありながら、自ら黒竜のもとへ戻ってきた人間。
しかも、ヴェルドラのそばを帰る場所と呼んでいる。
『ずいぶん変わった人間だね』
「そうでしょうか……?」
『彼と一緒に暮らそうと思うくらいにはね』
ヴェルドラの赤い瞳が険しく細められるのを眺めながら、ラルクは白銀の尾をゆるりと揺らした。
『君、僕のところへ来ない?』
「え?」
『少なくとも、彼よりは丁寧に扱うよ』
レイラが答えるより先に、黒い尾がその腰へ巻きついた。
身体が後ろへ引かれ、ヴェルドラの胸元へ抱え込まれる。
鞄を落とさないよう抱き締めながら、レイラは赤い瞳を見上げた。
『二度と我の玩具に戯言を吐くな』
森の空気を震わせるほど低い声だった。
それでもラルクは怯むことなく、楽しそうに目を細めた。




