1話
レイラが目を覚ますと、腰にはまだヴェルドラの尾が巻きついていた。
漆黒の鱗へ頬を寄せたまま、ゆっくりと瞼を開く。
洞窟の入り口から差し込む朝の光が、岩床へ散らばった乾いた草を淡く照らしている。
すぐそばでは、ヴェルドラが目を閉じていた。
重なった身体の熱も、昨夜初めて教えられた名前も、まだ鮮明に残っている。
レイラは黒い胸元へ添えていた手を僅かに動かした。
「おはようございます、ヴェルドラさん」
閉じられていた赤い瞳が、ゆっくりと開く。
『朝から我の名を呼ぶな』
「昨日、名前を教えてくださったから……呼んでみたかったんです」
ヴェルドラは不機嫌そうに鼻を鳴らした。
それでも、腰へ巻きついた尾が解かれることはなかった。
レイラは僅かに身じろぎし、乱れたドレスと髪を手で整えた。
そのとき、ヴェルドラの前脚へ巻かれた布が目に入る。
「傷の様子を見せてください」
『必要ない』
「駄目です」
レイラは腰へ巻きついた尾に手を添え、ヴェルドラを見上げた。
「ヴェルドラさん」
『我を子供のように扱うな』
「でしたら、きちんと傷を見せてください」
しばらく見つめ合ったあと、腰を囲んでいた尾がようやく緩んだ。
レイラはヴェルドラの胸元から離れ、前脚の傷へ巻いた布を解いていく。
乾いた薬草を取り除くと、深かった傷から流れていた血は止まっていた。
それでも鱗の隙間には、赤く生々しい傷口が残っている。
「まだ、無理に動かさない方がいいです」
『我に指図するな』
「心配しているだけです」
レイラは泉の水で濡らした布を絞り、傷の周りに残った血を拭った。
翼にも、矢に貫かれた傷がいくつも残っている。
黒い皮膜へ触れないように血を拭いながら、レイラは昨日の戦いを思い出した。
傷ついた翼で村まで飛び、兵士たちへ爪や尾を振るっていたヴェルドラ。
その姿が脳裏へ蘇り、指先が僅かに止まる。
「あの石柱は……やはり、ヴェルドラさんを山の中へ閉じ込めていたものだったんですか?」
赤い瞳が、レイラへ向けられた。
『あれは、かつて人間どもが我に掛けた枷だ』
レイラは血を拭っていた布を下ろした。
「では、もう山の外へも出られるんですね」
『ああ』
ヴェルドラの爪が岩床を擦る。
『今さら、何者にも我を閉じ込めることはできん』
低く響く声に、レイラは僅かに息を呑んだ。
村を破壊すると脅されたあの夜とは違う。
今のヴェルドラなら、本当に村まで行くことができる。
レイラの表情を見下ろし、ヴェルドラの赤い瞳が細められた。
『何だ、その顔は』
「……いいえ」
『我を疑っているのか』
「そうではありません。ただ……」
レイラは言葉を探すように目を伏せた。
ヴェルドラの喉から、不機嫌そうな唸り声が漏れる。
『我に害をなさぬ者へは、こちらから手を出さぬと告げたはずだ』
レイラは顔を上げた。
『何度も同じことを言わせるな』
「……はい」
張りつめていた表情が、僅かに緩む。
「ありがとうございます、ヴェルドラさん」
『礼などいらん』
ヴェルドラは煩わしそうに顔を背けた。
レイラは使った布を泉の水ですすぎ、岩の上へ広げた。
立ち上がると、壁際に置かれていた鞄へ向かう。
そのそばには、洗って畳んだハンスの外套が残されていた。
外套を手に取った途端、背後から低い声が飛んでくる。
『ようやく、その目障りな布を捨てる気になったか』
「返しに行くんです」
『同じことだ。二度と我の住処へ持ち込むな』
「分かっています」
レイラは外套を鞄へ収めた。
「それから、家に残してきた衣服や、ここで暮らすために必要なものも持ってきたいんです」
ヴェルドラの尾が、岩床を一度強く打った。
『また、あの村に長居するつもりか』
「必要なものをまとめたら、すぐに戻ります」
『前にも同じことを言ったな』
レイラの手が止まる。
日が沈むまでに戻ると約束しながら、村人たちに閉じ込められ、果たすことができなかった。
レイラは返す言葉を失い、鞄を握りしめた。
『信用できんな』
ヴェルドラは身を起こすと、レイラへ顔を近づけた。
『貴様は二度も我を待たせた』
熱い吐息が、レイラの髪を揺らす。
以前なら、それだけで身体が竦んでいた。
けれどレイラは逃げることなく、燃えるような赤い瞳を見上げた。
「日が沈む前には、ここへ帰ってきます」
その言葉が、洞窟の中へ静かに響いた。
ヴェルドラは何も言わず、レイラの顔を見つめている。
「ですから、待っていてください」
『ならぬ』
「でも——」
『我が連れていく』
「え?」
ヴェルドラは洞窟の入り口へ顔を向けた。
「駄目です。翼にはまだ傷が——」
『貴様一人を運ぶ程度でどうにかなるほど、我は脆くない』
「ですが、村の近くにヴェルドラさんが現れたら、皆が驚いてしまいます」
『我がどこへ降りるかは我が決める』
それ以上の口答えを許さぬ声だった。
黒い尾がレイラの腰へ巻きつき、その身体を胸元へ引き寄せる。
レイラは鞄を抱え、黒い鱗へ腕を回した。
ヴェルドラは傷の残る翼を広げる。
「翼は、大丈夫ですか?」
『黙って掴まっていろ』
次の瞬間、黒い巨体が地面を蹴った。
巻き起こった風が乾いた草や葉を舞い上げ、二人の身体が空へ運ばれていく。
レイラはヴェルドラの胸元へ抱かれたまま、眼下に広がる山を見下ろした。
木々の間には、片方だけになった石柱が立っている。
ヴェルドラはその上を通り過ぎ、これまで越えることのできなかった場所へ迷いなく翼を進めた。
やがて山の麓にある村の屋根が見え始める。
ヴェルドラは村から少し離れた森へ降り立った。
地面へ下ろされたレイラは、鞄を肩へ掛け直す。
木々の向こうには、村へ続く道が見えていた。
「ここからなら、歩いて行けます」
レイラは村へ続く道へ足を向ける。
「では、行ってきますね」
そう告げて歩き出したものの、レイラは数歩先で足を止めた。
振り返ると、ヴェルドラはその場に立ったまま、彼女を見ている。
「待っていてくださいますか?」
『少しでも戻るのが遅ければ、今度は我が迎えに行く』
遅くなれば本当に村まで来るつもりなのだろう。
それでも、レイラの口元には小さな笑みが浮かんだ。
「分かりました。必ず、日が沈む前に帰ります」
『当然だ』
レイラは今度こそ村へ向かって歩き出した。
木々の奥へ消えていく背中を、ヴェルドラは黙って見送る。
その姿が見えなくなったあとも、すぐに飛び去ることはなかった。
遠ざかっていく足音を聞きながら、ヴェルドラは森の中へ身体を伏せる。
人間の村など、どうでもよい。
あの女が何をして戻ってくるのかも、興味などない。
そう自分へ言い聞かせながら、赤い瞳はレイラが消えた方角へ向けられたままだった。
しばらくすると、頭上から大きな羽音が響いた。
ヴェルドラの耳が動く。
木々の上を、白く輝く巨大な影が通り過ぎた。
朝の光を受けた鱗は、氷を削り出したような淡い水色を帯びている。
大きな翼が広げられ、白銀の巨体がヴェルドラの前へ静かに降り立った。
舞い上がった木の葉の向こうで、白銀竜がゆっくりと顔を上げる。
『やあ。随分と久しぶりだね、ヴェルドラ』
ヴェルドラの喉から、低い唸り声が漏れた。
『……貴様か、ラルク』
『久しぶりに会ったというのに、随分な挨拶だな』
ラルクは気にした様子もなく、ヴェルドラの傷ついた翼へ目を向けた。
『突然、懐かしい気配が戻ってきたから、確かめに来たんだよ』
ラルクの視線が、再びヴェルドラへ向けられる。
『君の気配が消えてから、もう随分と経つ。あれほど人間たちを襲っていたから、とうとう殺されたのかと思っていたよ』
『我が人間ごときに殺されるものか』
『それなら、今までどこで何をしていたの?』
『貴様には関係ない』
『そう』
ラルクはあっさりと視線を外し、レイラが消えた村の方角へ顔を向けた。
『それにしても——』
白銀の顔が、再びヴェルドラへ向けられる。
『さっき君が大切そうに抱えていた、あの人間は何?』
ヴェルドラの喉から、低い唸り声が漏れた。




