6話
洞窟へ降り立つと、ヴェルドラは胸元に抱えていたレイラを岩床へ下ろした。
傷ついた翼が畳まれ、その先から血が滴り落ちる。
レイラはすぐに黒い前脚へ手を伸ばした。
「傷を見せてください」
『必要ない』
「駄目です」
レイラはヴェルドラの前へ膝をつくと、鱗の隙間に残った深い傷へ目を落とした。
流れ出す血は止まっておらず、足元の岩床に赤い雫が落ちている。
「すぐに戻りますから、ここで待っていてください」
立ち上がろうとした途端、黒い尾がレイラの腰へ巻きついた。
『どこへ行く』
「薬草を探しに行くだけです。この近くに生えているはずですから」
『放っておけ』
「放っておけません」
レイラは腰へ巻きついた尾に手を添え、ヴェルドラを見上げた。
「それに、黒竜さんから離れたりしません。洞窟の前にいますから」
赤い瞳が僅かに細められる。
しばらくして尾が解かれると、レイラは木椀を手に取り、洞窟の外へ向かった。
ヴェルドラの視線を背中に感じながら、岩場の隙間や木の根元を探していく。
やがて目当ての葉を見つけると、必要な分だけ摘み取り、木椀へ入れた。
洞窟へ戻ったレイラは、泉の水で葉についた土を洗い流した。
平たい石の上へ並べ、別の石を押し当てて、緑色の汁が滲むまですり潰していく。
ヴェルドラは泉のそばへ身を伏せたまま、その様子を眺めていた。
「少し染みるかもしれません」
『我にそのようなものが効くと思っているのか』
「何もしないよりは、きっといいです」
レイラは潰した薬草を指先に取り、前脚の傷へそっと塗り込んだ。
ヴェルドラの爪が岩床を僅かに擦る。
レイラはその動きに気づいたものの、何も言わず手を動かし続けた。
「この薬草も、祖母に教えてもらったんです」
傷を覆うように薬草を重ねながら、レイラは小さく呟いた。
「怪我をしたときの使い方も、煎じて飲む方法も……一人でも困らずに暮らせるように、覚えておきなさいって」
レイラは自分のドレスの裾へ手をかけた。
布を掴み、細長くなるように引き裂いていく。
破いた布を傷の周りへ回し、薬草がずれないよう丁寧に巻きつけた。
「料理も、裁縫も、火の起こし方も……暮らしていくために必要なことは、ほとんど祖母が教えてくれました」
最後に布の端を結ぶと、レイラは傷を押さえない程度に指先で確かめた。
「祖母がいなくなってからも、一人で暮らしてこられたから……もう、慣れていると思っていたんです」
ヴェルドラは何も答えなかった。
レイラは立ち上がると、傷ついた翼へ近づいた。
黒い皮膜には、折れた矢が何本も残されている。
「抜きますね」
矢の残った部分を両手で掴み、傷口を広げないよう慎重に引き抜く。
ヴェルドラの喉から低い唸り声が漏れた。
レイラは手を止め、黒い顔を見上げる。
「痛いですか?」
『早くしろ』
「……はい」
一本ずつ矢を抜き、開いた傷へ潰した薬草を塗っていく。
指先へ血がついても、レイラは丁寧に手当てを続けた。
「村へ戻って、また一人で過ごしてみたら……前とは違っていました」
最後の矢を引き抜くと、レイラは血に濡れた手を泉の水で洗った。
「家の中が、あんなに静かだったなんて、今まで気づかなかったんです」
濡れた指先をドレスで拭い、残った薬草を翼の傷へ重ねる。
「料理をしていても、眠ろうとしても……気づくと、黒竜さんのことを考えていました」
手当てを終えたレイラは、傷ついた翼へ触れないよう、そっと手を離した。
それからヴェルドラの傍らへ戻り、その頬を見上げる。
「いつの間にか、黒竜さんとの暮らしが……私の中で、当たり前になっていたみたいです」
ヴェルドラは赤い瞳を細め、レイラを見下ろしていた。
やがて低く鼻を鳴らすと、その視線が壁際へ向けられる。
そこには、洗って畳まれた外套が置かれていた。
『あれは、貴様を引き留めた雄のものか』
レイラも外套へ目を向けた。
「……はい」
ヴェルドラの尾が、苛立たしげに岩床を打つ。
『やはり気に食わんな。捨ててこい』
「それは駄目です。借りたものですから」
『ならば、いつまでここに置いておくつもりだ』
「今度、きちんと返してきます」
ヴェルドラの尾が、再び岩床を打った。
『また村へ行くのか』
レイラはヴェルドラの前まで歩み寄ると、血と土に汚れた頬へそっと手を触れた。
「返しに行くだけです。もう決めましたから……あなたと、一緒にいるって」
ヴェルドラは何も答えなかった。
黒い尾がレイラの腰へ巻きつき、その身体を胸元へ引き寄せる。
『次も我を待たせてみろ。今度こそ、あの村ごと跡形もなく潰してやる』
「……はい。必ず戻ります」
腰を締めつける尾へ、レイラは静かに手を重ねた。
ヴェルドラはその顔へ鼻先を寄せ、逃げ場を塞ぐように赤い瞳を覗き込む。
『……罰を受けると言ったな』
レイラの身体が僅かに強張った。
それでも逃げようとはせず、ヴェルドラを見上げたまま小さく頷く。
「はい……」
黒い尾がレイラを持ち上げ、乾いた草の散らばる岩床へ横たえた。
ヴェルドラはその上へ覆いかぶさり、鋭い爪をレイラの両脇へつく。
『今度こそ、我から逃れられると思うな』
「逃げません」
レイラはゆっくりと腕を伸ばした。
黒い首元へ両腕を回し、自らヴェルドラの身体を引き寄せる。
思いがけない仕草に、赤い瞳が僅かに見開かれた。
レイラは潤んだ瞳でヴェルドラを見上げ、その首元へ頬を寄せる。
「もう、逃げませんから……」
喉の奥から、低い唸り声が漏れた。
黒い鼻先がレイラの頬をなぞり、そのまま白い首筋へ触れる。
僅かに感じた熱へ、レイラは目を閉じた。
怖くないわけではなかった。
それでも、黒い首元へ回した腕を解くことはなかった。
ヴェルドラの胸元へ自ら身を寄せ、その存在を確かめるように漆黒の鱗へ頬を重ねる。
「黒竜さん……」
洞窟の奥で、焚き火が小さく弾けた。
揺れる炎が、寄り添う二つの影を岩壁へ映し出す。
レイラは何度も同じ呼び方を繰り返した。
そのたびに、ヴェルドラの喉から低い唸り声が返ってくる。
やがて、苛立ったような声が頭上から落ちた。
『ヴェルドラだ』
「え……?」
レイラは顔を上げた。
『我の名だ。いつまで黒竜などと呼ぶつもりだ』
驚きに揺れた瞳が、やがて嬉しそうに細められる。
「やっと……教えてくれましたね……」
レイラは黒い首元へ回した腕に、もう一度力を込めた。
「ヴェルドラさん……」
初めて名を呼ばれた瞬間、ヴェルドラの喉からこれまでよりも深い唸り声が漏れた。
腰へ巻きついた尾へ力が込められ、レイラの身体がさらに強く胸元へ引き寄せられる。
けれど、今度は身を強張らせなかった。
「ヴェルドラさん」
もう一度、確かめるように名を呼ぶ。
その声と重なるように、洞窟の外で風が木々を揺らした。
炎は次第に小さくなり、二人の影も薄闇の中へ溶けていく。
それでもレイラが、黒い首元へ回した腕を解くことはなかった。
長い時間が過ぎ、洞窟の中へ静けさが戻っても、ヴェルドラの尾がレイラを解放することはなかった。
レイラは乱れた息を整えながら、漆黒の鱗へ頬を寄せる。
「ヴェルドラさん……」
教えられたばかりの名を、もう一度口にする。
ヴェルドラは赤い瞳を細め、その身体を尾の内側へ深く抱え込んだ。
『二度と忘れるな』
「はい……」
レイラは小さく微笑み、ヴェルドラの胸元へ身を預けた。




