5話
遠くで響いた咆哮に、小さな窓が震えた。
物置の扉へ背を預けていたレイラは、弾かれたように顔を上げる。
聞き間違えるはずはなかった。
「黒竜さん……」
直後、村の鐘が激しく鳴り始めた。
扉の向こうを、慌ただしい足音が行き交う。
男たちの怒鳴り声に、女や子どもの泣き声が重なり、静かだった村が瞬く間に騒然となった。
レイラは立ち上がり、扉を叩いた。
「開けてください! 何があったんですか!」
返事はない。
外から再び咆哮が轟き、積み上げられていた食器が音を立てて揺れた。
レイラは胸元の青い石を握り締める。
やがて廊下を駆けてくる足音が聞こえ、扉の向こうで掛け金が外された。
開いた扉の前に、息を切らしたハンスが立っていた。
「レイラ、逃げるぞ」
「えっ……?」
「討伐隊を追って、あの竜が村へ向かっている」
レイラの顔が強張る。
「戦いは……」
「兵士たちにも、かなりの怪我人が出ている。話はあとだ。早く来て」
ハンスはレイラの手を掴み、廊下を駆け出した。
家の外へ出ると、村人たちが山とは反対の方角へ逃げていく。
泣き叫ぶ子どもを抱えた女。
足を引きずる老人へ肩を貸す男。
荷車には、血に濡れた兵士たちが折り重なるように乗せられていた。
山へ続く道からは、残った兵士たちが次々と駆け下りてくる。
「急げ! 村人を避難させろ!」
「弓兵は村の入り口へ集まれ!」
怒号の上を、巨大な影が横切った。
見上げたレイラの瞳に、黒い翼が映る。
傷ついた翼から血を落としながら、ヴェルドラは村の通りへ降り立った。
地面が大きく揺れ、土煙が巻き上がる。
その勢いに、近くにいた村人たちが悲鳴を上げた。
ヴェルドラは赤い瞳で逃げ惑う人間どもを見渡す。
『我を檻へ閉じ込めた人間どもよ』
低い声が、村中へ響き渡る。
『その罪、すべてその身で償わせてやる』
振るわれた尾が道端の柵を薙ぎ払い、その向こうに積まれていた樽が砕け散った。
兵士たちが村人を背にかばい、再び盾を並べる。
「ここを通すな!」
黒い爪が振り下ろされ、盾を構えていた兵士たちが地面へ倒れた。
左右から槍が伸びると、ヴェルドラは鋭い牙を剥き、その柄ごと兵士を振り払う。
「放て!」
無数の矢がヴェルドラへ向かう。
傷ついた翼を広げて矢を受け止めると、ヴェルドラは怒りに満ちた咆哮を上げた。
黒い尾が地を薙ぎ、兵士たちの列を崩していく。
「レイラ、行くぞ!」
ハンスが強く手を引いた。
レイラの足が、逃げていく人々と同じ方向へ向けられる。
それでも、その目はヴェルドラから離れなかった。
傷ついたヴェルドラの姿に、レイラの足が止まる。
「早く!」
ハンスがもう一度、その手を引いた。
そのとき、ヴェルドラは一人の兵士を片方の前脚で押さえ込み、もう片方の爪を持ち上げた。
「やめて!」
レイラはハンスの手を振りほどいた。
「レイラ!」
背後から呼び止める声にも振り返らず、逃げてくる人々の間を逆らうように駆けていく。
「待て! 戻れ!」
兵士の制止を振り切り、レイラはヴェルドラへ向かって走った。
「黒竜さん!」
振り下ろされようとしていた爪が止まる。
ヴェルドラの赤い瞳が、こちらへ向けられた。
レイラはその前まで駆け寄ると、黒い前脚へ両腕を回した。
『貴様……』
「ごめんなさい……」
息を乱したまま、黒い鱗へ縋りつく。
「約束を守れなくて、ごめんなさい……」
『なぜ戻らなかった』
低い声が、レイラの身体を震わせた。
「戻りたかったんです。でも……」
その先を言えず、前脚へ回した腕に力を込める。
黒い前脚へ回した腕を、温かな血が伝っていく。
レイラは驚いて身体を離すと、赤く濡れた自分の腕を見つめた。
顔を上げれば、傷ついた翼には折れた矢が何本も残されている。
「こんなに……」
新たな涙が溢れ、ヴェルドラの姿が滲む。
レイラはゆっくりと顔を上げた。
怒りに燃えていた赤い瞳が、間近からレイラを見下ろしている。
涙を拭うこともせず、その頬へそっと手を伸ばした。
細い指が漆黒の鱗へ触れ、優しく撫でる。
「痛かったですよね……」
ヴェルドラの喉から、低い唸り声が漏れた。
『この程度、傷のうちにも入らぬ』
「それでも、嫌なんです」
レイラは頬へ触れたまま、首を横へ振った。
「もう、やめてください。私と一緒に帰りましょう」
『我を傷つけた人間どもを、見逃せというのか』
「……お願いします。約束を破った罰なら、受けますから」
ヴェルドラの赤い瞳が、鋭く細められる。
『罰を受けるのは当然だ。貴様が許されたと思うな』
「はい」
『ならば誓え。二度と我のもとから逃げぬと』
レイラは迷うことなく頷いた。
「誓います。もう二度と、あなたのもとから逃げません」
ヴェルドラはしばらくレイラを見つめた。
やがて鋭い牙を覗かせ、低く告げる。
『貴様は我の玩具だ』
黒い尾が、レイラの腰へ巻きついた。
『勝手にいなくなることも、死ぬことも許さん』
「はい……」
レイラは腰へ巻きついた尾へ、そっと手を添えた。
「黒竜さんも、約束してくれますか?」
『何をだ』
「もう、無闇に人を襲わないと」
ヴェルドラは何も答えず、レイラを見下ろした。
「お願いします」
長い沈黙のあと、ヴェルドラが低く鼻を鳴らす。
『我に害をなさぬ者へは、こちらから手を出さぬ』
ヴェルドラは足元の兵士から前脚を退けた。
レイラは安堵したように目を伏せた。
「ありがとうございます」
そのとき、背後で弓を引き絞る音がした。
「その娘から離れろ!」
ヴェルドラが兵士たちへ牙を剥く。
レイラはすぐにその前へ立ち、両腕を広げた。
「待ってください!」
「そこを退け!」
「もう、黒竜さんを攻撃しないでください」
「そいつを、このまま放っておけると思うのか!」
「黒竜さんは、もう無闇に人を襲わないと約束してくれました」
レイラは一歩も退くことなく、兵士たちを見据えた。
「私も一緒に山へ戻ります。何かあれば、私が責任を取ります」
兵士たちの間に、戸惑いが広がる。
弓を構えたままの指揮官が、険しい表情でレイラを睨んだ。
「そんな言葉を、どう信じろというんだ」
「信じてください」
レイラは胸元の青い石を握り締めた。
「お願いします。もう、戦わないでください」
指揮官はしばらくレイラを見つめていた。
やがて、黒い竜へ視線を移す。
ヴェルドラもまた、赤い瞳で兵士たちを睨みつけていた。
張り詰めた沈黙のあと、指揮官が片手を上げる。
「……武器を下ろせ」
弓兵たちがゆっくりと弦を緩め、槍の穂先が地面へ下ろされていく。
ヴェルドラは兵士たちから目を逸らさなかった。
その間に立つレイラだけが、腰へ巻きついた黒い尾へそっと手を重ねる。
「レイラ!」
人々の間から、ハンスが駆けてくる。
「本当に行くのか?」
レイラは黙ってハンスを見つめた。
「行くな、レイラ。俺たちと一緒に、この村で暮らそう」
「ごめんなさい、ハンス」
「レイラ……」
レイラは一度だけ目を伏せた。
やがて顔を上げ、静かに告げる。
「私は、黒竜さんと共にいます」
ハンスの表情が歪んだ。
それでも、レイラは言葉を続けなかった。
黒い尾がその身体を持ち上げ、ヴェルドラの胸元へ引き寄せる。
レイラは咄嗟に黒い鱗へ腕を回した。
『帰るぞ』
ヴェルドラは傷ついた翼を広げた。
レイラは胸元へ抱かれたまま、ヴェルドラを見上げる。
「はい」
ヴェルドラが地面を蹴った。
黒い翼が大きく空を打ち、二人の身体を村の上へ運んでいく。
眼下では、ハンスが立ち尽くしたまま空を見上げていた。
家々も、傷ついた兵士たちも、少しずつ遠ざかっていく。
小さくなっていく村を見下ろしながら、レイラは漆黒の鱗へ腕を回した。
ヴェルドラはその身体を決して離すことなく、山の奥にある洞窟へ向かって飛び続けた。




