4話
日が沈んでも、レイラは戻らなかった。
泉のそばへ身を伏せたヴェルドラは、暗闇に沈んだ洞窟の入り口を見据えていた。
風が吹き込むたびに、岩床へ散らばった草や葉が乾いた音を立てる。
そのたびに、ヴェルドラの耳が僅かに動いた。
やがて月が高く昇り、石柱の方角から聞こえてくるのは、風に揺れる木々の音ばかりになった。
『日が沈むまでだ』
確かに、そう命じた。
聞き違えるはずも、意味が分からなかったはずもない。
ヴェルドラの尾が苛立たしげに岩床を打つ。
『また、我から逃げたか』
低い声に答える者はいなかった。
ヴェルドラは立ち上がると、レイラが整えたばかりの寝床へ前脚を振り下ろした。
乾いた草と葉が宙へ舞い、岩床へ散らばる。
これで目障りなものはなくなったはずだった。
それでも、胸の奥に燻る苛立ちは消えなかった。
洞窟の外で枝が鳴るたび、赤い瞳がそちらへ向く。
夜が明けてもレイラは現れず、次の日が暮れても、聞き慣れた足音が洞窟へ近づくことはなかった。
焚き火の弾ける音も、岩床を歩く足音も聞こえない。
朝になれば向けられていた挨拶も、眠る前の小さな声もない。
ヴェルドラは静まり返った洞窟を睨み、喉の奥から低い唸り声を漏らした。
何度目かの朝、遠くから無数の足音が響いてきた。
重い靴が土を踏み締める音に、金属同士の触れ合う硬い音が混じっている。
ヴェルドラはゆっくりと頭を上げた。
森にいた鳥たちが次々と飛び立ち、木々の隙間から空へ逃れていく。
赤い瞳が鋭く細められた。
『来たか』
ヴェルドラは洞窟の外へ出ると、地面を蹴り、翼を広げた。
木々の上へ舞い上がり、山道へ目を向ける。
盾を構えた兵士たちが、列を成して山を登っていた。
先頭の兵士が二本の石柱の前で足を止め、隣の男と目配せを交わす。
やがて盾を構えたまま石柱の間へ踏み込むと、後ろに続く兵士たちも次々と山の奥へ入ってきた。
石柱の向こうには、車輪のついた大弓と、それを守る数人の兵士だけが残された。
『身の程も知らぬ虫けらどもめ』
ヴェルドラは翼を打ち、兵士たちの前方へ降り立った。
風に煽られた土や枯れ葉が舞い上がる。
「構えろ!」
並べられた盾の隙間から、長い槍の穂先が一斉に向けられた。
その後ろでは、弓兵たちがすでに弦を引き絞っている。
ヴェルドラは鋭い牙を覗かせた。
『この我を討ちに来たか』
「放て!」
指揮官が腕を振り下ろすと、無数の矢が盾の列を越えてヴェルドラへ降り注いだ。
ヴェルドラは翼で顔を庇い、そのまま矢の雨へ飛び込んだ。
黒い爪が盾を引き裂き、振るわれた尾が逃げ遅れた兵士を地面へ転がす。
怒号と悲鳴が入り乱れ、整然と並んでいた列が崩れていく。
その中へ踏み込んだヴェルドラは、目についた人間へ容赦なく爪を振るった。
血に濡れた盾が落ち、折れた槍が踏み荒らされた草の間へ散らばる。
それでも、兵士たちは退かなかった。
崩れた列の隙間にはすぐに別の盾が並び、左右から伸びた槍が鱗の隙間を狙う。
一人を爪で押し倒した直後、ヴェルドラの前脚に鋭い痛みが走った。
鱗の隙間には槍が深く突き刺さり、流れ出した血が黒い脚を伝っていく。
ヴェルドラが槍を引き抜こうと身体を捻ると、その動きを待っていたかのように矢が降り注いだ。
広げた翼を何本もの矢が貫き、黒い皮膜に血がにじんだ。
ヴェルドラの咆哮が森を揺らす。
『鬱陶しい!』
翼を打ちつけるように振るうと、巻き起こった風に兵士たちが顔を庇った。
ヴェルドラは槍を前脚から抜き取り、目の前に並ぶ盾へ身体をぶつける。
鉄の軋む音とともに一人が倒れ、その背後にいた兵士たちが押し合うようによろめいた。
牙を剥き、開いた隙間へ飛び込もうとする。
その隙を狙い、背後から縄が投げられた。
太い縄が後脚へ絡みつき、ヴェルドラが振り返るより先に、別の縄が首へかかる。
兵士たちが一斉に縄を引き、後脚が僅かに地面を滑った。
ヴェルドラは尾を振るい、縄を引く兵士たちを薙ぎ倒した。
緩んだ縄を振りほどくと、間近に迫っていた兵士を盾ごと地面へ叩きつけた。
呻き声を上げながら倒れた仲間を、別の兵士が後方へ引きずっていく。
翼を動かすたびに皮膜が引き攣れ、鋭い痛みが走る。
それでも赤い瞳から、戦意が消えることはなかった。
『この程度で、我を討てると思ったか』
鋭い牙を覗かせ、ヴェルドラが歩み寄る。
兵士たちの足が、僅かに後ろへ下がった。
「退け! 石柱の外まで戻れ!」
その声をきっかけに、残った兵士たちが一斉に背を向けた。
傷ついた仲間を支え、武器を捨てながら山道を駆けていく。
『逃がすものか』
ヴェルドラは血の流れる前脚で地面を蹴り、逃げる兵士たちを追った。
やがて木々の向こうに、二本の石柱が見える。
兵士たちはその間を抜けると、傷ついた仲間を後方へ運びながら、すぐに隊列を組み直した。
ヴェルドラは逃げ遅れた一人へ牙を剥き、その背へ前脚を伸ばす。
爪が届く寸前、石柱の間に現れた淡い光が、ヴェルドラの前脚を遮った。
「弓隊、構えろ!」
すでに矢を番えていた兵士たちが、一斉に弦を引き絞った。
ヴェルドラが光の壁へ爪を振り下ろした瞬間、矢が放たれる。
ヴェルドラは翼で顔を覆った。
黒い皮膜を矢が次々と貫き、滴り落ちた血が足元の土を濡らす。
それでもヴェルドラは退かなかった。
怒りに任せて爪を立てるたび、二本の石柱の間で淡い光が激しく波打つ。
その向こうにいる人間どもの顔には、もはや先ほどまでの恐怖はなかった。
『忌々しい虫けらどもめ……!』
矢を翼で受けながら、再び光の壁へ身体を押しつける。
そのとき、盾の列の向こうから低く軋む音が聞こえた。
兵士たちの間を割って現れた大弓には、槍ほどもある太矢が番えられている。
ヴェルドラが赤い瞳を細めた直後、張り詰めていた弦が放たれた。
胸元へ迫った太矢を、ヴェルドラは横から爪で叩いた。
弾かれた太矢は激しく回転しながら、すぐ脇に立つ石柱へ突き刺さる。
ヴェルドラは石柱には目も向けず、光の壁へさらに爪を押し込んだ。
そのとき、すぐ脇から低く軋む音がした。
視界の端に、石柱の表面を走る亀裂が映った。
太矢の周囲から広がった亀裂が、古びた石柱の根元へ向かって伸びていく。
やがて石柱が傾き、根元から崩れ落ちる。
淡い光が激しく明滅した。
次の瞬間、ヴェルドラの身体を押し返していた力が消えた。
光の壁へ預けていた前脚が勢いよく境界を抜け、鋭い爪が向こう側の土へ深く食い込む。
兵士たちの表情が凍りついた。
ヴェルドラは土へ食い込んだ爪を見下ろし、ゆっくりと顔を上げる。
赤い瞳が、石柱の向こうにいる人間どもを捉えた。
「逃げろ!」
誰かが叫んだ。
その声とともに、兵士たちは再び山道を駆け下りていく。
ヴェルドラは残された石柱の横を抜け、逃げていく兵士たちへ顔を向けた。
『どこへ逃げようというのだ』
血に濡れた翼を広げ、地面を蹴る。
ヴェルドラは逃げる兵士たちを追い、村へ向かって飛び立った。
怒りに満ちた咆哮が、兵士たちよりも先に山の麓へ届いた。




