2話
しばらくレイラを見据えたあと、ヴェルドラは興味を失ったように顔を背けた。
そのまま泉のそばへ向かい、岩床へ身を伏せる。
レイラは胸元の青い石へ触れたまま、その場に立ち尽くしていた。
これ以上頼んでも、ヴェルドラが考えを変えるとは思えない。
洞窟の入り口へ目を向ける。
外には深い闇が広がり、冷たい夜風が木々を揺らしている。
今から一人で山を下りることもできた。
それでも、レイラの足が入り口へ向かうことはなかった。
視線を巡らせると、岩床へ散らばった乾いた草や葉が目に入る。
レイラは僅かに迷ったあと、泉のそばに伏せるヴェルドラへ向き直った。
「……今日は、ここで眠ってもいいですか?」
ヴェルドラの片耳が動く。
赤い瞳だけが、レイラへ向けられた。
『勝手にしろ』
「ありがとうございます」
レイラは散らばった枝を拾い集め、消えた焚き火の前へ膝をついた。
壁際に残されていた鞄を開き、中からマッチの小箱を取り出す。
細い枝と乾いた葉を重ね、擦ったマッチの火を近づけた。
やがて小さな炎が上がり、洞窟の中へ揺れる橙色の光が戻る。
レイラは立ち上がると、以前寝床のあった場所へ向かった。
踏み潰され、岩床へ散らばった草や葉を一つずつ集めていく。
土や小石を払い、まだ使えそうなものだけを焚き火のそばへ運んだ。
以前のように厚く敷くには足りない。
それでも、一晩身体を横たえるだけなら十分だった。
レイラは整えた草の上へ腰を下ろすと、胸元から青い石を取り出した。
炎の光を受け、傷一つない石が小さく煌めく。
両手で包み込むように握り締めると、張り詰めていた息がようやく漏れた。
視線を上げる。
ヴェルドラの赤い瞳は、すでに閉じられていた。
「……おやすみなさい、黒竜さん」
返事はなかった。
レイラは草の上へ身体を横たえ、目を閉じる。
硬い岩の感触も、夜風が洞窟へ入り込む音も、以前と何も変わらない。
けれど、村の家で一人きりの夜を過ごしたときより、不思議と胸の奥は静かだった。
やがて焚き火の弾ける音に混じり、ヴェルドラの低く穏やかな呼吸が聞こえてくる。
レイラは首飾りを握ったまま、ゆっくりと眠りへ落ちていった。
翌朝、洞窟へ差し込む淡い光に、レイラは目を覚ました。
消えかけた焚き火の向こうで、ヴェルドラの赤い瞳がこちらを見ている。
レイラは身を起こし、乱れた髪を手で整えた。
外はすでに明るい。
その光を見た瞬間、眠気が消えた。
「もう、使いが村を出る頃かもしれません」
ヴェルドラは何も答えない。
レイラは立ち上がると、ドレスについた草を払い落とした。
「村へ戻ります」
ヴェルドラの瞳が鋭く細められる。
『また我から逃げるつもりか』
「違います」
レイラはすぐに首を横へ振った。
「使いが出る前に、もう一度みんなと話してきます」
『貴様が何を言ったところで、人間どもの決定が覆るとは思えぬがな』
「……分かっています。それでも、このままにはできません」
ヴェルドラの喉から、不機嫌そうな唸り声が漏れた。
レイラは僅かに息を詰めたが、視線を逸らさなかった。
「話が終わったら、必ずここへ戻ります」
『必ずだと?』
「はい」
ヴェルドラは身を起こすと、レイラの前へ顔を近づけた。
赤い瞳が、試すようにその顔を覗き込む。
『日が沈むまでだ』
「分かりました」
『次に我を欺けば、首飾りだけで済むとは思うな』
「……はい」
ヴェルドラはしばらくレイラを見つめたあと、低く鼻を鳴らして顔を退けた。
レイラは胸元の青い石へ一度触れると、洞窟の外へ向かった。
暗い森を抜け、山道を下っていく。
二本の石柱が見えてくると、レイラは足を止めた。
振り返れば、木々の隙間から黒い巨体がこちらを見ている。
「行ってきます」
ヴェルドラは答えなかった。
レイラは前へ向き直り、二本の石柱の間を越えた。
そのまま村へ続く山道を歩き始める。
背中へ向けられた赤い視線は、木々に姿を遮られるまで、一度も逸れることはなかった。




