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暴虐の黒き竜と囚われの娘【R15版】  作者: いをり。
第5章【黒龍と人間の狭間で】

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1話

ヴェルドラの耳が、僅かに動いた。


夜の山を吹き抜ける風に混じり、遠くから小さな足音が聞こえてくる。


獣のものではない。


木の根や石を避けながら、覚束ない足取りで山を登ってくる人間の足音だった。


ヴェルドラは泉のそばへ身を伏せたまま、じっと耳を澄ませる。


その足音を、聞き間違えるはずはなかった。


やがて風に乗り、微かな声が届く。


「……黒竜さん……」


ヴェルドラの赤い瞳が大きく開いた。


次の瞬間には立ち上がり、洞窟の外へ向かっていた。


力強く地面を蹴り、大きな翼を広げる。


激しい風が洞窟の中を吹き抜け、岩床へ散らばっていた乾いた草や葉を巻き上げた。


ヴェルドラは黒い翼で夜空を打ち、声の聞こえた方角へ向かう。


木々の上を飛び越え、暗い森を見下ろした。


月明かりの届かない山道を、小さな人影が歩いている。


枝へ手を伸ばし、何度も足を止めながら、それでも山の奥へ向かって進んでいた。


やがて人影は、二本の石柱が立つ開けた場所へたどり着いた。


「黒竜さん……いませんか?」


自分を呼ぶ声を聞きながら、ヴェルドラは石柱の内側へ降り立った。


地面が大きく揺れ、木々の枝から枯れ葉が舞い落ちる。


レイラが驚いたように顔を上げた。


「黒竜さん……」


ヴェルドラは、石柱の向こうに立つレイラを見据えた。


『何をしに来た』


冷たい声が、夜の森へ響く。


レイラの肩が僅かに揺れた。


それでも目を逸らすことなく、ヴェルドラを見上げる。


「あなたに、お伝えしたいことがあって……」


ヴェルドラは答えなかった。


レイラは一度足元へ目を落とすと、小さく息を吸った。


やがて意を決したように、一歩を踏み出す。


そのまま足を止めることなく、二本の石柱を越えてヴェルドラの前まで歩み寄った。


ヴェルドラの赤い瞳が、僅かに見開かれる。


次の瞬間、黒い尾が地を薙ぎ、レイラの腰へ巻きついた。


「きゃっ……!」


細い身体を持ち上げ、そのまま眼前へ引き寄せる。


レイラは驚いたように尾へ手を添えたが、逃れようとはしなかった。


『我から逃げた貴様が、よく戻ってこられたものだな』


「ごめんなさい……」


『謝れば許されると思っているのか?』


「いいえ」


ヴェルドラは赤い瞳を険しく細めた。


怯えていることは、荒い呼吸や強張った身体から伝わってくる。


それでもレイラは、ヴェルドラから目を逸らさなかった。


『戻れば、我に何をされるか分からぬことも承知のうえか』


「……はい」


『ならば、覚悟はできているのだろうな』


黒い尾へ力を込めると、レイラの顔が僅かに歪んだ。


「それでも……あなたに伝えなければならないと思ったんです」


ヴェルドラはしばらくレイラを見つめた。


やがて低く鼻を鳴らすと、片方の前脚をその背へ回す。


鋭い爪を立てないよう、胸元へ抱え込んだ。


黒い翼を広げ、再び夜空へ舞い上がる。


レイラの腕が、咄嗟にヴェルドラの鱗へ回された。


ヴェルドラはその身体を抱えたまま森の上を飛び、洞窟へ向かった。


洞窟へ降り立つと、レイラを岩床へ下ろす。


レイラは周囲を見回した。


消えた焚き火。


伏せられたままの鍋や木椀。


壁際へ散らばった枝。


そして、原形を失い、岩床へ散乱している乾いた草と葉。


レイラの視線が、以前は寝床のあった場所で止まった。


「寝床が……」


『我の住処に、貴様が勝手に作ったものを残しておく理由があるか』


レイラは何も答えなかった。


散らばった草と葉を見つめたあと、静かに目を伏せる。


ヴェルドラは低く鼻を鳴らすと、泉のそばにある自身の寝床へ向かった。


前脚の脇へ置いていた細い鎖を、爪先へ引っかけて持ち上げる。


月明かりを受け、小さな青い石が揺れた。


レイラが大きく目を見開く。


「どうして……黒竜さんが、それを?」


『貴様の寝床に落ちていた』


レイラは無意識に、何もない胸元へ手を置いた。


『我に話があるなどと言って、これを取り戻しに来たのか』


「違います」


レイラは迷いなく首を横へ振った。


『ならば、用件を話せ』


「明日の朝、村から領主様へ使いが出ます。あなたの討伐を願い出るためです」


ヴェルドラの赤い瞳が鋭く細められた。


『なぜ、人間どもが我のことを知っている』


レイラは一瞬だけ目を伏せた。


「私が……話しました」


直後、ヴェルドラの尾が岩床へ叩きつけられた。


轟音とともに地面が揺れ、レイラの身体が大きく跳ねる。


『貴様が我の存在を話したのか』


「……はい」


『我から逃げたうえ、人間どもへ我の居場所まで教えたというのか』


「あなたの声を聞いて、みんなが山へ入ろうとしていたんです」


『だから何だ』


「みんなが行けば、あなたは全員殺していたでしょう?」


『当然だ』


「だから、止めたかったんです」


ヴェルドラの喉から、低い唸り声が漏れた。


『ふん……忌々しい虫けらどもめ。この我を討とうというのか』


「……はい。領主様が認めれば、兵士たちがこの山へ来ます」


『それを知らせるために、わざわざ戻ってきたというのか』


「はい」


『我に殺されるかもしれぬと分かっていながら?』


「……はい」


『そうか』


ヴェルドラは細い鎖を岩床へ落とした。


乾いた音を立てて、青い石が転がる。


その上へ、黒い爪がゆっくりと下ろされた。


レイラは、首飾りを押さえる黒い爪を見つめた。


「何を……?」


『貴様の目の前で砕いてやる』


レイラの顔から血の気が引いた。


「どうして、そんな……」


『玩具の分際で、我のもとから勝手に逃げた罰だ』


ヴェルドラの爪先へ、僅かに力が込められる。


「やめてください!」


レイラはヴェルドラの前脚へ駆け寄ると、黒い鱗へ両腕を回し、縋りつくように抱きついた。


「それは、母と祖母から受け継いだものなんです」


『知るか。逃げた貴様が悪い』


黒い爪が青い石を押さえ込む。


「お願い、やめて……!」


レイラはヴェルドラの前脚を、いっそう強く抱き締めた。


「私に残された、大切な形見なんです。どうか……壊さないでください」


ヴェルドラは、自らの前脚へ必死に縋りつくレイラを見下ろした。


細い身体は微かに震えている。


それでも離れようとはせず、黒い鱗へ頬を押しつけていた。


僅かに力を込めるだけで、青い石など簡単に砕ける。


そのために、今まで残しておいたはずだった。


ヴェルドラの爪先へ、再び力が込められる。


「私は、首飾りを取り戻すために戻ったんじゃありません」


黒い爪の動きが、僅かに止まった。


「何も知らないまま、大勢の人に襲われるかもしれないなんて……嫌だったんです」


『この我が、人間ごときに討たれるとでも思ったか』


「あなたが強いことは知っています」


ヴェルドラは、前脚へ縋りついたままのレイラを見下ろした。


レイラは前脚へ回していた片腕を解くと、躊躇うように手を持ち上げた。


ヴェルドラの赤い瞳が、その指先を追う。


ヴェルドラが顔を近づけると、細い指が漆黒の頬へそっと触れた。


「でも、どれほど強くても、絶対に傷つかないとは言い切れません」


硬い鱗を確かめるように、レイラの指先がゆっくりと頬を撫でる。


「私は……あなたに傷ついてほしくないんです」


ヴェルドラの動きが止まった。


レイラの瞳に、嘘は見えない。


なぜ自分を案じるのか、ヴェルドラには理解できなかった。


喉の奥から、苛立ちを滲ませた低い唸り声が漏れた。


『……鬱陶しい。離れろ』


ヴェルドラは青い石の上から爪を退けた。


レイラは恐る恐る前脚から腕を解き、僅かに後ろへ下がった。


ヴェルドラは首飾りを、その足元へ弾いた。


レイラはすぐに膝をつき、岩床へ落ちた青い石を拾い上げた。


鎖や石に傷がないことを確かめると、安堵したように胸元へ抱き締める。


「……ありがとうございます」


ヴェルドラは答えなかった。


レイラは首飾りを首へかけ直すと、胸元で揺れる青い石へそっと触れた。


それから立ち上がると、改めてヴェルドラへ向き直った。


「でも……討伐に来る人たちにも、死んでほしくないんです」


レイラは胸元の青い石へ手を添え、もう一度ヴェルドラを見上げた。


「勝手なお願いだということは分かっています。それでも……お願いします。もし討伐隊が来ても、殺さないでください」


ヴェルドラの赤い瞳が、冷たく細められる。


『断る』


鋭い牙を覗かせ、ヴェルドラは低く言い放った。


『我に刃を向ける者に、容赦などせぬ』


レイラは胸元の青い石を強く握り締めたまま、揺れる瞳でヴェルドラを見つめた。

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