1話
ヴェルドラの耳が、僅かに動いた。
夜の山を吹き抜ける風に混じり、遠くから小さな足音が聞こえてくる。
獣のものではない。
木の根や石を避けながら、覚束ない足取りで山を登ってくる人間の足音だった。
ヴェルドラは泉のそばへ身を伏せたまま、じっと耳を澄ませる。
その足音を、聞き間違えるはずはなかった。
やがて風に乗り、微かな声が届く。
「……黒竜さん……」
ヴェルドラの赤い瞳が大きく開いた。
次の瞬間には立ち上がり、洞窟の外へ向かっていた。
力強く地面を蹴り、大きな翼を広げる。
激しい風が洞窟の中を吹き抜け、岩床へ散らばっていた乾いた草や葉を巻き上げた。
ヴェルドラは黒い翼で夜空を打ち、声の聞こえた方角へ向かう。
木々の上を飛び越え、暗い森を見下ろした。
月明かりの届かない山道を、小さな人影が歩いている。
枝へ手を伸ばし、何度も足を止めながら、それでも山の奥へ向かって進んでいた。
やがて人影は、二本の石柱が立つ開けた場所へたどり着いた。
「黒竜さん……いませんか?」
自分を呼ぶ声を聞きながら、ヴェルドラは石柱の内側へ降り立った。
地面が大きく揺れ、木々の枝から枯れ葉が舞い落ちる。
レイラが驚いたように顔を上げた。
「黒竜さん……」
ヴェルドラは、石柱の向こうに立つレイラを見据えた。
『何をしに来た』
冷たい声が、夜の森へ響く。
レイラの肩が僅かに揺れた。
それでも目を逸らすことなく、ヴェルドラを見上げる。
「あなたに、お伝えしたいことがあって……」
ヴェルドラは答えなかった。
レイラは一度足元へ目を落とすと、小さく息を吸った。
やがて意を決したように、一歩を踏み出す。
そのまま足を止めることなく、二本の石柱を越えてヴェルドラの前まで歩み寄った。
ヴェルドラの赤い瞳が、僅かに見開かれる。
次の瞬間、黒い尾が地を薙ぎ、レイラの腰へ巻きついた。
「きゃっ……!」
細い身体を持ち上げ、そのまま眼前へ引き寄せる。
レイラは驚いたように尾へ手を添えたが、逃れようとはしなかった。
『我から逃げた貴様が、よく戻ってこられたものだな』
「ごめんなさい……」
『謝れば許されると思っているのか?』
「いいえ」
ヴェルドラは赤い瞳を険しく細めた。
怯えていることは、荒い呼吸や強張った身体から伝わってくる。
それでもレイラは、ヴェルドラから目を逸らさなかった。
『戻れば、我に何をされるか分からぬことも承知のうえか』
「……はい」
『ならば、覚悟はできているのだろうな』
黒い尾へ力を込めると、レイラの顔が僅かに歪んだ。
「それでも……あなたに伝えなければならないと思ったんです」
ヴェルドラはしばらくレイラを見つめた。
やがて低く鼻を鳴らすと、片方の前脚をその背へ回す。
鋭い爪を立てないよう、胸元へ抱え込んだ。
黒い翼を広げ、再び夜空へ舞い上がる。
レイラの腕が、咄嗟にヴェルドラの鱗へ回された。
ヴェルドラはその身体を抱えたまま森の上を飛び、洞窟へ向かった。
洞窟へ降り立つと、レイラを岩床へ下ろす。
レイラは周囲を見回した。
消えた焚き火。
伏せられたままの鍋や木椀。
壁際へ散らばった枝。
そして、原形を失い、岩床へ散乱している乾いた草と葉。
レイラの視線が、以前は寝床のあった場所で止まった。
「寝床が……」
『我の住処に、貴様が勝手に作ったものを残しておく理由があるか』
レイラは何も答えなかった。
散らばった草と葉を見つめたあと、静かに目を伏せる。
ヴェルドラは低く鼻を鳴らすと、泉のそばにある自身の寝床へ向かった。
前脚の脇へ置いていた細い鎖を、爪先へ引っかけて持ち上げる。
月明かりを受け、小さな青い石が揺れた。
レイラが大きく目を見開く。
「どうして……黒竜さんが、それを?」
『貴様の寝床に落ちていた』
レイラは無意識に、何もない胸元へ手を置いた。
『我に話があるなどと言って、これを取り戻しに来たのか』
「違います」
レイラは迷いなく首を横へ振った。
『ならば、用件を話せ』
「明日の朝、村から領主様へ使いが出ます。あなたの討伐を願い出るためです」
ヴェルドラの赤い瞳が鋭く細められた。
『なぜ、人間どもが我のことを知っている』
レイラは一瞬だけ目を伏せた。
「私が……話しました」
直後、ヴェルドラの尾が岩床へ叩きつけられた。
轟音とともに地面が揺れ、レイラの身体が大きく跳ねる。
『貴様が我の存在を話したのか』
「……はい」
『我から逃げたうえ、人間どもへ我の居場所まで教えたというのか』
「あなたの声を聞いて、みんなが山へ入ろうとしていたんです」
『だから何だ』
「みんなが行けば、あなたは全員殺していたでしょう?」
『当然だ』
「だから、止めたかったんです」
ヴェルドラの喉から、低い唸り声が漏れた。
『ふん……忌々しい虫けらどもめ。この我を討とうというのか』
「……はい。領主様が認めれば、兵士たちがこの山へ来ます」
『それを知らせるために、わざわざ戻ってきたというのか』
「はい」
『我に殺されるかもしれぬと分かっていながら?』
「……はい」
『そうか』
ヴェルドラは細い鎖を岩床へ落とした。
乾いた音を立てて、青い石が転がる。
その上へ、黒い爪がゆっくりと下ろされた。
レイラは、首飾りを押さえる黒い爪を見つめた。
「何を……?」
『貴様の目の前で砕いてやる』
レイラの顔から血の気が引いた。
「どうして、そんな……」
『玩具の分際で、我のもとから勝手に逃げた罰だ』
ヴェルドラの爪先へ、僅かに力が込められる。
「やめてください!」
レイラはヴェルドラの前脚へ駆け寄ると、黒い鱗へ両腕を回し、縋りつくように抱きついた。
「それは、母と祖母から受け継いだものなんです」
『知るか。逃げた貴様が悪い』
黒い爪が青い石を押さえ込む。
「お願い、やめて……!」
レイラはヴェルドラの前脚を、いっそう強く抱き締めた。
「私に残された、大切な形見なんです。どうか……壊さないでください」
ヴェルドラは、自らの前脚へ必死に縋りつくレイラを見下ろした。
細い身体は微かに震えている。
それでも離れようとはせず、黒い鱗へ頬を押しつけていた。
僅かに力を込めるだけで、青い石など簡単に砕ける。
そのために、今まで残しておいたはずだった。
ヴェルドラの爪先へ、再び力が込められる。
「私は、首飾りを取り戻すために戻ったんじゃありません」
黒い爪の動きが、僅かに止まった。
「何も知らないまま、大勢の人に襲われるかもしれないなんて……嫌だったんです」
『この我が、人間ごときに討たれるとでも思ったか』
「あなたが強いことは知っています」
ヴェルドラは、前脚へ縋りついたままのレイラを見下ろした。
レイラは前脚へ回していた片腕を解くと、躊躇うように手を持ち上げた。
ヴェルドラの赤い瞳が、その指先を追う。
ヴェルドラが顔を近づけると、細い指が漆黒の頬へそっと触れた。
「でも、どれほど強くても、絶対に傷つかないとは言い切れません」
硬い鱗を確かめるように、レイラの指先がゆっくりと頬を撫でる。
「私は……あなたに傷ついてほしくないんです」
ヴェルドラの動きが止まった。
レイラの瞳に、嘘は見えない。
なぜ自分を案じるのか、ヴェルドラには理解できなかった。
喉の奥から、苛立ちを滲ませた低い唸り声が漏れた。
『……鬱陶しい。離れろ』
ヴェルドラは青い石の上から爪を退けた。
レイラは恐る恐る前脚から腕を解き、僅かに後ろへ下がった。
ヴェルドラは首飾りを、その足元へ弾いた。
レイラはすぐに膝をつき、岩床へ落ちた青い石を拾い上げた。
鎖や石に傷がないことを確かめると、安堵したように胸元へ抱き締める。
「……ありがとうございます」
ヴェルドラは答えなかった。
レイラは首飾りを首へかけ直すと、胸元で揺れる青い石へそっと触れた。
それから立ち上がると、改めてヴェルドラへ向き直った。
「でも……討伐に来る人たちにも、死んでほしくないんです」
レイラは胸元の青い石へ手を添え、もう一度ヴェルドラを見上げた。
「勝手なお願いだということは分かっています。それでも……お願いします。もし討伐隊が来ても、殺さないでください」
ヴェルドラの赤い瞳が、冷たく細められる。
『断る』
鋭い牙を覗かせ、ヴェルドラは低く言い放った。
『我に刃を向ける者に、容赦などせぬ』
レイラは胸元の青い石を強く握り締めたまま、揺れる瞳でヴェルドラを見つめた。




