5話
村の家々にともっていた灯りが、一つ、また一つと消えていく。
窓の外から聞こえていた話し声も途絶え、やがて村は静かな闇に包まれた。
レイラは灯りをつけないまま、窓辺に立っていた。
道を歩く者の姿はない。
家々の扉は閉ざされ、窓から漏れる光もほとんど消えている。
レイラは窓から離れると、音を立てないように扉を開いた。
夜の冷たい空気が、頬を撫でる。
外へ出て扉へ鍵をかけ、その鍵を戸口の脇にある石の下へ戻した。
辺りを見回してから、山へ続く道へ足を向ける。
夜空には月が浮かび、淡い光が家々の屋根や道を照らしていた。
レイラは足音を忍ばせながら、眠りについた家々の間を進む。
村の外れまでは、もう遠くない。
そこを抜ければ、あとは山へ続く道を進むだけだった。
そのとき、前方から小さな灯りが近づいてきた。
レイラの足が止まる。
手に灯りを提げた一人の青年が、道の向こうから歩いてくる。
見慣れた明るい髪が、夜風に揺れていた。
「レイラ?」
ハンスもこちらに気づき、驚いたように足を止めた。
「こんな時間に、どこへ行くんだ?」
レイラは答えることができなかった。
ハンスはその姿を見つめたあと、山へ続く道へ目を向ける。
「……まさか、山へ行くつもりなのか」
レイラは俯いた。
何も答えないことが、かえって答えになってしまう。
ハンスが早足で近づいてきた。
「さっきの君の様子が気になって、見に来たんだ」
レイラの前で立ち止まり、その顔を覗き込む。
「やっぱり、あの竜のところへ戻るつもりだったのか」
「討伐のことを、知らせないと……」
「行かせない」
ハンスはレイラの前へ回り込み、山へ続く道を塞いだ。
「ハンス……」
「どうして、そこまでして戻ろうとするんだ」
「それは……」
「今度は、あの竜に戻れと言われたわけじゃないんだろう?」
「……ええ」
「あの竜はここまで来られない。君はもう自由なんだ」
ハンスの視線が、レイラから逸れることはなかった。
「もう、あの竜に怯えなくていい。それなのに、どうして自分から戻ろうとする?」
レイラは答えられなかった。
自分でも、分からなかった。
ようやく逃げることができた。
もう、ヴェルドラの機嫌を窺う必要はない。
命令に従わなければ、何をされるのかと怯えることもない。
「あの竜のところへ、戻りたいのか?」
レイラの指先が、ドレスの裾を握る。
「……分からない」
戻りたいのかと問われても、答えることができなかった。
あの洞窟へ戻ることは、今も怖い。
逃げた自分を、ヴェルドラが許すはずはない。
再び捕らえられるかもしれない。
今度こそ、殺されるかもしれない。
「戻るのは、怖いわ」
声が僅かに掠れた。
「また何をされるかも、分からない」
ハンスの眉が寄せられる。
「何があったのかは聞かない」
ハンスは一度言葉を切った。
「だが、それでも戻ろうとする理由を教えてくれ」
レイラは唇を開きかけ、再び閉じた。
上手く言葉にすることができない。
何度も考えたはずなのに、自分でもまだ答えが分からなかった。
「……家へ戻ってからも、何度も彼のことを考えてしまって」
一人で食事をしているときも。
静かな寝台へ横たわったときも。
何も聞こえない部屋の中で、山の方角へ耳を澄ませたときも。
脳裏に浮かぶのは、いつもあの黒い竜だった。
「討伐されるかもしれないと聞いたら……ここにいられなかったの」
「レイラ……」
「彼は、何も知らないわ」
村で討伐を願い出ようとしていることも。
討伐のために、兵士たちが山へ入ってくるかもしれないことも。
何も知らず、あの洞窟にいる。
そう考えるだけで、胸の奥が苦しくなった。
「何も知らないまま、大勢の人に襲われるかもしれないなんて……嫌なの」
ハンスは何も言わなかった。
レイラは胸元へ手を伸ばしかけ、そこに青い石がないことを思い出して指を止めた。
「それに、彼は強いから……山へ向かった人たちも、きっと無事では済まないわ」
「だから、自分が行くのか?」
「……ほかに、どうすればいいのか分からないの」
自信などなかった。
ヴェルドラが話を聞いてくれるとも思えない。
人間を傷つけないでほしいと頼んだところで、素直に受け入れるはずもなかった。
それでも、何もせずに待つことだけはできなかった。
「お願い、ハンス。行かせて」
「だめだ」
レイラが脇を通り過ぎようとすると、ハンスが再び行く手を塞いだ。
「君が一人で行くことを分かっていて、黙って見送ることなんてできない」
「でも……」
「帰るぞ、レイラ」
ハンスの手が、レイラの腕を掴んだ。
そのまま来た道へ向き直り、レイラを連れ戻そうとする。
「待って……」
レイラは足を止めた。
ハンスに引かれた身体が、僅かに前へ傾く。
「離して」
「だめだ」
「お願い……」
「何を言われても、今夜は行かせない」
ハンスの手に力が込められる。
レイラは掴まれた腕を引いた。
けれど、ハンスの手は離れない。
「ハンス……」
「明日になれば、また話を聞く。だから今は戻るんだ」
「明日では……遅いかもしれない」
「それでもだ」
再び腕を引かれ、レイラは一歩よろめいた。
このまま家へ戻されれば、もう一人で外へ出ることはできないだろう。
ハンスだけではない。
村長やほかの村人たちも、レイラが山へ向かわないよう見張るかもしれない。
「ごめんなさい」
レイラは掴まれた腕を、もう一度強く引いた。
ハンスも離すまいと腕へ力を込める。
二人の身体がぶつかり、その拍子にハンスの持っていた灯りが大きく揺れた。
「あっ……」
灯りが手から滑り落ちる。
地面へ落ちた衝撃で、中の火が消えた。
辺りが一瞬で暗闇に沈む。
ハンスの意識が、落とした灯りへ向いた。
レイラの腕を掴んでいた手から、僅かに力が抜ける。
レイラはその隙に腕を引き抜いた。
「レイラ、待て!」
ハンスの声を背に、暗い道を走り出す。
「行くな!」
背後で、ハンスが落とした灯りを拾う気配がした。
レイラは振り返らなかった。
村の外れを抜け、月明かりの届かない木々の間へ駆け込む。
枝が頬を掠め、剥き出しの根に足を取られそうになる。
それでも、止まることはできなかった。
「レイラ!」
ハンスの声が追ってくる。
暗闇の中で足音が近づき始めた。
レイラは大きな木の脇を曲がり、細い山道へ入る。
その先には、深い闇に包まれた森が広がっていた。
足元もほとんど見えない。
一歩先に何があるのかさえ分からなかった。
レイラは僅かに足を止めた。
胸の奥で、恐怖が大きく膨らむ。
それでも背後から聞こえる声に振り返ることなく、闇に沈む山の中へ足を踏み入れた。




