↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
暴虐の黒き竜と囚われの娘【R15版】  作者: いをり。
第4章【自由の向こう側】

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

21/46

4話

レイラが村へ戻ってから、幾日かが過ぎた。


泥に汚れていたドレスを洗い、薄く埃の積もっていた家の中を掃除する。


閉め切られていた窓を開け、寝台の布を干し、使っていなかった食器も一つずつ洗った。


近所の者たちは、何かとレイラを気にかけてくれた。


焼いたパンや温かな料理を持ってきてくれる者もいれば、薪や食料が足りているかと尋ねてくれる者もいた。


道へ出れば、誰もが足を止めて声をかけてくる。


無事に戻ったことを喜び、困ったことがあればいつでも頼るようにと言ってくれた。


レイラはそのたびに礼を告げた。


村の者たちは、以前と変わらず優しかった。


日が出ている間は、家の中にも村人たちの声が届く。


道を走る子どもたちの足音。


近くの家から聞こえてくる笑い声。


軒先で言葉を交わす女たちや、仕事へ向かう男たちの声。


それらを聞いていると、自分も村で暮らす一人なのだと思うことができた。


けれど、日が沈めば、村人たちはそれぞれの家へ帰っていく。


窓から見える家々には灯りがともり、その向こうから家族の話し声が漏れ聞こえてきた。


レイラは一人で食事を終えると、使った器を洗い、窓と扉へ鍵をかける。


そうすれば、家の中には静けさだけが残った。


祖母を亡くしてから三年。


一人で眠り、一人で目を覚まし、一人で食事をする生活には、もう慣れていたはずだった。


寂しいと思う夜がなかったわけではない。


それでも、これが自分の暮らしなのだと受け入れていた。


けれど今は、以前と同じ静けさが、どこか違うものに感じられた。


朝になれば、挨拶をする相手がいた。


食事を作れば、それを食べる大きな黒い竜がいた。


何かを尋ねても、返ってくるのは素っ気ない言葉ばかりだった。


低い唸り声に肩を震わせ、太い尾が岩床を打つたび、次は何をされるのかと身構えていた。


それでも、洞窟にはいつもヴェルドラの気配があった。


今は何も聞こえない。


何も言葉を返さない静けさの中で、レイラは何度も山の方角へ目を向けた。


あの黒竜は、今頃何をしているのだろう。


焚き火は、もう消えてしまっただろうか。


自分が残してきた鍋や木椀は、あのまま置かれているのだろうか。


そこまで考えてから、レイラは小さく首を横へ振った。


ヴェルドラのもとへ戻りたいわけではない。


戻れば、再び自由を奪われるかもしれない。


拒む権利などないと言われ、また身体を傷つけられるかもしれない。


逃げたことへ怒り、今度こそ殺される可能性だってある。


怖くないはずがなかった。


それなのに、気づけばヴェルドラのことを考えている。


何もない胸元へ手を置くたび、失くした首飾りとともに、燃えるような赤い瞳が脳裏へ浮かんだ。


なぜ、こんなにも気になるのか。


その理由を、レイラはまだ分からずにいた。


その日の夕方、レイラは食事を届けてくれた近所の者へ籠を返し、自宅へ戻ろうとしていた。


傾き始めた陽が、村の家々を淡い橙色に染めている。


道の先から、二人の女の話し声が聞こえてきた。


「今も村長の家に集まっているらしいよ」


「あの黒竜のことでしょう?」


黒竜という言葉に、レイラの足が止まった。


女たちは少し声を潜めたものの、こちらには気づかないまま話を続けている。


「領主様へ使いを出して、討伐隊を寄越してもらうよう頼むそうだよ」


「山から出られないうちに討った方がいいものね。もし村まで下りてきたら、私たちではどうにもできないもの」


「ハンスも賛成しているそうよ」


「今の話は、本当ですか?」


突然背後から声をかけられ、女たちが振り返った。


「レイラ……」


レイラは二人へ近づいた。


「黒竜を討伐するというのは、本当ですか?」


「え……ええ。私たちも、詳しいことまでは知らないけれど」


「村長さんの家で、山に詳しい人たちを集めて話し合っているみたい」


それだけ聞くと、レイラは村長の家へ向かって走り出した。


背後から名前を呼ばれたが、足を止めることはできなかった。


黒竜を討つ。


その言葉だけが、頭の中で何度も繰り返される。


ヴェルドラは強い。


人間など、いとも簡単にやられてしまうだろう。


かつては町や村を滅ぼし、多くの人間に恐れられていた。


けれど今は、山の奥から出ることができない。


討伐隊が山へ入り、ヴェルドラと戦えばどうなるのか。


彼が、武器を手に向かってくる人間へ、爪や牙を振るうことを躊躇うとは思えなかった。


けれど、どれほど強いヴェルドラでも、討伐隊を相手にまったく傷つかないとは言い切れない。


その光景を想像した途端、胸の奥が強く締めつけられる。


嫌だった。


討伐に向かった者たちが命を落とすことも。


ヴェルドラが傷つけられることも。


気づけばレイラは、村長の家の前まで来ていた。


閉ざされた扉の向こうから、何人もの男たちの声が聞こえる。


「では、使いを出すのは明日の朝でいいな」


「領主様の判断が下るまでは、誰も石柱の先へ入らないようにしないと」


「黒竜がまた山を下りようとするかもしれん。しばらくは、山へ近づかない方がいいだろう」


レイラは戸口を叩くことも忘れ、扉を開けた。


室内にいた者たちが、一斉にこちらへ顔を向ける。


机を囲んでいたのは、ハンスとその父である村長、それから村の男たちだった。


突然現れたレイラに、誰もすぐには言葉を発しなかった。


「レイラ?」


最初に立ち上がったのは、ハンスだった。


「どうしたんだ。そんなに慌てて」


「黒竜を討伐するというのは、本当ですか?」


室内へ、僅かな沈黙が落ちた。


村長は険しい表情を浮かべたまま、ゆっくりと頷いた。


「ああ。明日の朝、領主様へ使いを出す」


それを聞いた瞬間、レイラは考えるより先に声を上げた。


「やめてください!」


自分でも驚くほど大きな声だった。


男たちの間に、戸惑いが広がる。


ハンスも、信じられないものを見るようにレイラを見つめていた。


「どうして君が、あの竜の討伐を止めるんだ」


「彼は、山の奥から出ることができません。村まで来ることはできないんです。だから……」


「今は、だ」


ハンスの声は固かった。


「あの日の咆哮も地響きも、村まで届いていた。今の状態が、この先も続く保証はない」


レイラは、光の壁へ爪を立て、何度も尾を打ちつけていたヴェルドラの姿を思い出した。


二本の石柱は大きく揺れ、表面から細かな欠片が落ちていた。


「それに、戻らなければ村を滅ぼすと、君を脅していたんだろう?」


「それは……」


「実際には来られなかったとしても、あの竜に村を滅ぼす意思があったことは変わらない」


レイラは唇を結んだ。


もし本当に山を下りられたなら、ヴェルドラがその脅しを実行しなかったとも言い切れない。


人間を傷つけることに躊躇しない竜であることは、レイラ自身が誰よりも知っている。


それでも、退くことはできなかった。


「彼は、皆さんが考えているよりもずっと強いんです」


レイラは机を囲む男たちを見渡した。


「討伐隊が彼のいる山の奥へ入れば、彼は必ず反撃します。多くの人が命を落とすかもしれません」


「それでも、放っておくことはできない」


ハンスが答えた。


「それほど危険な竜なら、山から出られない今のうちに討つべきだろう」


「でも……」


「討伐が認められれば、戦いに慣れた兵士たちが来る。何の備えもなく山へ入るわけじゃない」


「それでも、彼には敵わないかもしれない」


「なら、あの竜が山から出られるようになったあとでは、なおさら誰にも止められない」


ハンスの言葉に、男たちが頷く。


「あの黒竜を放っておけば、次に誰かが山へ入ったとき、君と同じように捕らえられるかもしれない」


村長が静かに告げた。


「この先も、あの竜が山から出られないという保証はない。村を守るためにも、あのままにしておくわけにはいかないんだ」


「でも、誰も石柱の先へ入らなければ……」


「何百年もの間、実在するかどうかさえ分からなかった竜だ。あの石柱が何なのかも、我々には分かっていない」


「彼は、本当に山を下りることができません」


「だからこそ、今のうちに討つ」


「犠牲が出るかもしれないと分かっていてもですか?」


村長はすぐには答えなかった。


重い沈黙のあと、険しい表情のまま頷く。


「危険があることは、領主様にもすべて伝える。そのうえで、討伐するかどうかを決めていただく」


「でも……」


「何もせずに放置し、いつかあの竜が山を下りられるようになれば、危険に晒されるのはこの村だけではない」


揺るがない声だった。


レイラは無意識に胸元へ手を伸ばした。


青い石を握ろうとした指先が、ドレスの布に触れて止まった。


「お願いします」


震えそうになる声を抑え、村長を見つめる。


「討伐だけは、やめてください」


「レイラ」


ハンスが、レイラの前へ歩み寄った。


「あの竜を庇う必要なんてない」


「庇っているわけでは……」


レイラは言葉を濁した。


「ただ、討伐隊が山へ入れば、彼は容赦しない。山へ向かう人たちにも、彼にも、傷ついてほしくないの」


「人間を心配するのは分かる。だが、どうして君があの竜のことまで心配するんだ」


「それは……」


言葉が続かなかった。


ヴェルドラは自分を捕らえ、何度も傷つけた。


玩具と呼び、拒む権利などないと言い放った。


討伐されると聞けば、安心してもおかしくない相手のはずだった。


「……分からない」


「レイラ?」


「私にも、分からないの」


なぜ、自分を傷つけたヴェルドラまで案じているのか。


考えても、答えは出なかった。


やがて、村長が重い息を吐いた。


「すまないが、領主様へ討伐を願い出る方針は変えられない」


レイラは顔を上げた。


「これは、村全体の命に関わることだ。君一人の気持ちだけで決定を変えるわけにはいかない」


「でも……」


「明日の朝、予定どおり領主様へ使いを出す」


これ以上何を言っても、誰も聞き入れてはくれない。


レイラは唇を結び、胸元へ伸ばしていた手を下ろした。


「……分かりました」


そう答え、男たちへ小さく頭を下げる。


ハンスが何かを言いかけたが、レイラはその顔を見ないまま踵を返した。


家へ戻る頃には、すっかり陽が沈んでいた。


扉を閉めると、外から聞こえていた村人たちの声が遠ざかる。


レイラは暗い部屋の中に立ち尽くした。


明日の朝、領主へ使いが出される。


領主が討伐を認めるかどうかは、まだ分からない。


それでも、決定が下されてからでは遅い。


領主が討伐を認めれば、兵士たちは山へ入る。


ヴェルドラは、襲ってきた人間を躊躇なく傷つけるだろう。


そうなる前に、村が動いていることを彼へ知らせなければならない。


そして、人間たちを傷つけないよう説得するしかない。


聞き入れてもらえる保証などなかった。


逃げたことに激怒し、話を聞く前に殺されるかもしれない。


それでも、両者が戦うことを黙って待つことはできなかった。


レイラは窓辺へ向かい、暗闇の向こうにある山を見つめた。


山へ戻ると知られれば、誰も行かせてはくれないだろう。


誰にも告げず、一人で行くしかなかった。


ヴェルドラと人間たちを、争わせないために。


レイラはその決意を胸の内に秘め、村が寝静まるのを待った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。