4話
レイラが村へ戻ってから、幾日かが過ぎた。
泥に汚れていたドレスを洗い、薄く埃の積もっていた家の中を掃除する。
閉め切られていた窓を開け、寝台の布を干し、使っていなかった食器も一つずつ洗った。
近所の者たちは、何かとレイラを気にかけてくれた。
焼いたパンや温かな料理を持ってきてくれる者もいれば、薪や食料が足りているかと尋ねてくれる者もいた。
道へ出れば、誰もが足を止めて声をかけてくる。
無事に戻ったことを喜び、困ったことがあればいつでも頼るようにと言ってくれた。
レイラはそのたびに礼を告げた。
村の者たちは、以前と変わらず優しかった。
日が出ている間は、家の中にも村人たちの声が届く。
道を走る子どもたちの足音。
近くの家から聞こえてくる笑い声。
軒先で言葉を交わす女たちや、仕事へ向かう男たちの声。
それらを聞いていると、自分も村で暮らす一人なのだと思うことができた。
けれど、日が沈めば、村人たちはそれぞれの家へ帰っていく。
窓から見える家々には灯りがともり、その向こうから家族の話し声が漏れ聞こえてきた。
レイラは一人で食事を終えると、使った器を洗い、窓と扉へ鍵をかける。
そうすれば、家の中には静けさだけが残った。
祖母を亡くしてから三年。
一人で眠り、一人で目を覚まし、一人で食事をする生活には、もう慣れていたはずだった。
寂しいと思う夜がなかったわけではない。
それでも、これが自分の暮らしなのだと受け入れていた。
けれど今は、以前と同じ静けさが、どこか違うものに感じられた。
朝になれば、挨拶をする相手がいた。
食事を作れば、それを食べる大きな黒い竜がいた。
何かを尋ねても、返ってくるのは素っ気ない言葉ばかりだった。
低い唸り声に肩を震わせ、太い尾が岩床を打つたび、次は何をされるのかと身構えていた。
それでも、洞窟にはいつもヴェルドラの気配があった。
今は何も聞こえない。
何も言葉を返さない静けさの中で、レイラは何度も山の方角へ目を向けた。
あの黒竜は、今頃何をしているのだろう。
焚き火は、もう消えてしまっただろうか。
自分が残してきた鍋や木椀は、あのまま置かれているのだろうか。
そこまで考えてから、レイラは小さく首を横へ振った。
ヴェルドラのもとへ戻りたいわけではない。
戻れば、再び自由を奪われるかもしれない。
拒む権利などないと言われ、また身体を傷つけられるかもしれない。
逃げたことへ怒り、今度こそ殺される可能性だってある。
怖くないはずがなかった。
それなのに、気づけばヴェルドラのことを考えている。
何もない胸元へ手を置くたび、失くした首飾りとともに、燃えるような赤い瞳が脳裏へ浮かんだ。
なぜ、こんなにも気になるのか。
その理由を、レイラはまだ分からずにいた。
その日の夕方、レイラは食事を届けてくれた近所の者へ籠を返し、自宅へ戻ろうとしていた。
傾き始めた陽が、村の家々を淡い橙色に染めている。
道の先から、二人の女の話し声が聞こえてきた。
「今も村長の家に集まっているらしいよ」
「あの黒竜のことでしょう?」
黒竜という言葉に、レイラの足が止まった。
女たちは少し声を潜めたものの、こちらには気づかないまま話を続けている。
「領主様へ使いを出して、討伐隊を寄越してもらうよう頼むそうだよ」
「山から出られないうちに討った方がいいものね。もし村まで下りてきたら、私たちではどうにもできないもの」
「ハンスも賛成しているそうよ」
「今の話は、本当ですか?」
突然背後から声をかけられ、女たちが振り返った。
「レイラ……」
レイラは二人へ近づいた。
「黒竜を討伐するというのは、本当ですか?」
「え……ええ。私たちも、詳しいことまでは知らないけれど」
「村長さんの家で、山に詳しい人たちを集めて話し合っているみたい」
それだけ聞くと、レイラは村長の家へ向かって走り出した。
背後から名前を呼ばれたが、足を止めることはできなかった。
黒竜を討つ。
その言葉だけが、頭の中で何度も繰り返される。
ヴェルドラは強い。
人間など、いとも簡単にやられてしまうだろう。
かつては町や村を滅ぼし、多くの人間に恐れられていた。
けれど今は、山の奥から出ることができない。
討伐隊が山へ入り、ヴェルドラと戦えばどうなるのか。
彼が、武器を手に向かってくる人間へ、爪や牙を振るうことを躊躇うとは思えなかった。
けれど、どれほど強いヴェルドラでも、討伐隊を相手にまったく傷つかないとは言い切れない。
その光景を想像した途端、胸の奥が強く締めつけられる。
嫌だった。
討伐に向かった者たちが命を落とすことも。
ヴェルドラが傷つけられることも。
気づけばレイラは、村長の家の前まで来ていた。
閉ざされた扉の向こうから、何人もの男たちの声が聞こえる。
「では、使いを出すのは明日の朝でいいな」
「領主様の判断が下るまでは、誰も石柱の先へ入らないようにしないと」
「黒竜がまた山を下りようとするかもしれん。しばらくは、山へ近づかない方がいいだろう」
レイラは戸口を叩くことも忘れ、扉を開けた。
室内にいた者たちが、一斉にこちらへ顔を向ける。
机を囲んでいたのは、ハンスとその父である村長、それから村の男たちだった。
突然現れたレイラに、誰もすぐには言葉を発しなかった。
「レイラ?」
最初に立ち上がったのは、ハンスだった。
「どうしたんだ。そんなに慌てて」
「黒竜を討伐するというのは、本当ですか?」
室内へ、僅かな沈黙が落ちた。
村長は険しい表情を浮かべたまま、ゆっくりと頷いた。
「ああ。明日の朝、領主様へ使いを出す」
それを聞いた瞬間、レイラは考えるより先に声を上げた。
「やめてください!」
自分でも驚くほど大きな声だった。
男たちの間に、戸惑いが広がる。
ハンスも、信じられないものを見るようにレイラを見つめていた。
「どうして君が、あの竜の討伐を止めるんだ」
「彼は、山の奥から出ることができません。村まで来ることはできないんです。だから……」
「今は、だ」
ハンスの声は固かった。
「あの日の咆哮も地響きも、村まで届いていた。今の状態が、この先も続く保証はない」
レイラは、光の壁へ爪を立て、何度も尾を打ちつけていたヴェルドラの姿を思い出した。
二本の石柱は大きく揺れ、表面から細かな欠片が落ちていた。
「それに、戻らなければ村を滅ぼすと、君を脅していたんだろう?」
「それは……」
「実際には来られなかったとしても、あの竜に村を滅ぼす意思があったことは変わらない」
レイラは唇を結んだ。
もし本当に山を下りられたなら、ヴェルドラがその脅しを実行しなかったとも言い切れない。
人間を傷つけることに躊躇しない竜であることは、レイラ自身が誰よりも知っている。
それでも、退くことはできなかった。
「彼は、皆さんが考えているよりもずっと強いんです」
レイラは机を囲む男たちを見渡した。
「討伐隊が彼のいる山の奥へ入れば、彼は必ず反撃します。多くの人が命を落とすかもしれません」
「それでも、放っておくことはできない」
ハンスが答えた。
「それほど危険な竜なら、山から出られない今のうちに討つべきだろう」
「でも……」
「討伐が認められれば、戦いに慣れた兵士たちが来る。何の備えもなく山へ入るわけじゃない」
「それでも、彼には敵わないかもしれない」
「なら、あの竜が山から出られるようになったあとでは、なおさら誰にも止められない」
ハンスの言葉に、男たちが頷く。
「あの黒竜を放っておけば、次に誰かが山へ入ったとき、君と同じように捕らえられるかもしれない」
村長が静かに告げた。
「この先も、あの竜が山から出られないという保証はない。村を守るためにも、あのままにしておくわけにはいかないんだ」
「でも、誰も石柱の先へ入らなければ……」
「何百年もの間、実在するかどうかさえ分からなかった竜だ。あの石柱が何なのかも、我々には分かっていない」
「彼は、本当に山を下りることができません」
「だからこそ、今のうちに討つ」
「犠牲が出るかもしれないと分かっていてもですか?」
村長はすぐには答えなかった。
重い沈黙のあと、険しい表情のまま頷く。
「危険があることは、領主様にもすべて伝える。そのうえで、討伐するかどうかを決めていただく」
「でも……」
「何もせずに放置し、いつかあの竜が山を下りられるようになれば、危険に晒されるのはこの村だけではない」
揺るがない声だった。
レイラは無意識に胸元へ手を伸ばした。
青い石を握ろうとした指先が、ドレスの布に触れて止まった。
「お願いします」
震えそうになる声を抑え、村長を見つめる。
「討伐だけは、やめてください」
「レイラ」
ハンスが、レイラの前へ歩み寄った。
「あの竜を庇う必要なんてない」
「庇っているわけでは……」
レイラは言葉を濁した。
「ただ、討伐隊が山へ入れば、彼は容赦しない。山へ向かう人たちにも、彼にも、傷ついてほしくないの」
「人間を心配するのは分かる。だが、どうして君があの竜のことまで心配するんだ」
「それは……」
言葉が続かなかった。
ヴェルドラは自分を捕らえ、何度も傷つけた。
玩具と呼び、拒む権利などないと言い放った。
討伐されると聞けば、安心してもおかしくない相手のはずだった。
「……分からない」
「レイラ?」
「私にも、分からないの」
なぜ、自分を傷つけたヴェルドラまで案じているのか。
考えても、答えは出なかった。
やがて、村長が重い息を吐いた。
「すまないが、領主様へ討伐を願い出る方針は変えられない」
レイラは顔を上げた。
「これは、村全体の命に関わることだ。君一人の気持ちだけで決定を変えるわけにはいかない」
「でも……」
「明日の朝、予定どおり領主様へ使いを出す」
これ以上何を言っても、誰も聞き入れてはくれない。
レイラは唇を結び、胸元へ伸ばしていた手を下ろした。
「……分かりました」
そう答え、男たちへ小さく頭を下げる。
ハンスが何かを言いかけたが、レイラはその顔を見ないまま踵を返した。
家へ戻る頃には、すっかり陽が沈んでいた。
扉を閉めると、外から聞こえていた村人たちの声が遠ざかる。
レイラは暗い部屋の中に立ち尽くした。
明日の朝、領主へ使いが出される。
領主が討伐を認めるかどうかは、まだ分からない。
それでも、決定が下されてからでは遅い。
領主が討伐を認めれば、兵士たちは山へ入る。
ヴェルドラは、襲ってきた人間を躊躇なく傷つけるだろう。
そうなる前に、村が動いていることを彼へ知らせなければならない。
そして、人間たちを傷つけないよう説得するしかない。
聞き入れてもらえる保証などなかった。
逃げたことに激怒し、話を聞く前に殺されるかもしれない。
それでも、両者が戦うことを黙って待つことはできなかった。
レイラは窓辺へ向かい、暗闇の向こうにある山を見つめた。
山へ戻ると知られれば、誰も行かせてはくれないだろう。
誰にも告げず、一人で行くしかなかった。
ヴェルドラと人間たちを、争わせないために。
レイラはその決意を胸の内に秘め、村が寝静まるのを待った。




