3話
レイラが村へたどり着くより、少し前。
その姿が森の奥へ消えたあとも、ヴェルドラは結界の前から動かなかった。
『レイラ!』
怒声が木々の間を駆け抜ける。
返事はない。
ヴェルドラは再び前脚を振り上げ、光の壁へ叩きつけた。
轟音とともに地面が大きく揺れる。
鋭い爪が触れた場所から幾重もの紋様が広がり、二本の石柱が眩い光を放った。
この結界が、どれほど力をぶつけても破れないことは、ヴェルドラ自身が誰よりも分かっていた。
それでも攻撃をやめず、再び光の壁へ爪を叩きつける。
太い尾が結界を打ち据え、光の紋様が激しく明滅した。
衝撃に耐えきれなくなった石柱の表面から、細かな欠片が零れ落ちる。
それでも、爪も尾も向こう側へ届かない。
『忌々しい……!』
ヴェルドラは低く唸りながら、レイラが消えた森の奥を睨みつけた。
命令を無視した。
戻れと告げたにもかかわらず、あの女は自分へ背を向けて逃げた。
以前、村へ戻ることを許した夜には、レイラは命じたとおり夜明けまでに帰ってきた。
だが、あの女が戻ったのは、戻らなければ村を滅ぼすと脅したからだ。
あのときのレイラは、ヴェルドラが境界を越えられないことを知らなかった。
そして今、それを知った途端に背を向けた。
自分を縛るものはもう何もないと知り、逃げていった。
ヴェルドラの喉から、地を這うような唸り声が漏れる。
『我から逃げられると思うな……』
押し殺した声が、低く森へ響いた。
レイラの姿は戻ってこない。
聞こえるのは、先ほどの衝撃に驚いた鳥や獣が逃げていく音ばかりだった。
ヴェルドラは結界へ爪を立てたまま、しばらく森の奥を睨み続けた。
やがて前脚を下ろすと、苛立ちをぶつけるように地面を強く踏みつける。
深く抉れた土が周囲へ飛び散った。
今すぐレイラを捕らえ、その細い身体を尾で締め上げてやりたかった。
二度と逃げようと思わぬよう、誰の所有物なのかを思い知らせてやりたかった。
それなのに、目の前の結界が邪魔をする。
ヴェルドラは最後にもう一度、レイラが消えた方角へ低い咆哮を放った。
そして翼を広げ、地面を蹴る。
黒い巨体が木々の上へ舞い上がり、洞窟のある山の奥へ向かった。
洞窟へ降り立つと、ヴェルドラは乱暴な足取りで中へ入った。
消えかけた焚き火が、灰の中に僅かな赤い光を残している。
そのそばには、洗われた鍋や木椀が伏せられていた。
けれど、焚き火の前にレイラの姿はない。
いつもなら、ヴェルドラが戻ればこちらへ顔を向けた。
獲物を持ち帰れば礼を告げ、食事に使える肉を切り分けてほしいと頼んできた。
そうでなくても、何かしらくだらぬ言葉を投げかけてきた。
何かを尋ねては、素っ気なく答えても、また別の話を続けてきた。
料理を出せば、味はどうかと赤い瞳を窺っていた。
今は、その声が聞こえない。
洞窟の中は、静まり返っていた。
レイラが現れる前と、何も変わらない。
朝になってもくだらぬ挨拶をされることはなく、食事をするたびに味を尋ねられることもない。
鬱陶しい声を聞かずに済むのだから、せいせいするはずだった。
それなのに、なぜか洞窟の静けさがひどく耳障りだった。
ヴェルドラは苛立たしげに尾を振り、岩床を強く打ちつけた。
乾いた音が洞窟の奥まで響き、壁際に積まれていた細い枝が崩れ落ちる。
それを拾う者もいない。
『……忌々しい』
勝手に現れ、勝手に火を焚いた。
勝手に食事を作り、頼んでもいないのに話しかけ続けた。
そうして我の住処へ入り込んだ挙句、今度は勝手に消えた。
何もかもが気に食わなかった。
ヴェルドラは泉のそばへ向かおうとして、足を止めた。
視界の端に、レイラの寝床が映っている。
乾いた草と柔らかな葉を重ね、その上には畳まれた毛布が置かれていた。
持ち主が勝手に消えたというのに、寝床だけが残されていることが、ひどく目障りだった。
赤い瞳が険しく細められる。
こんなものを残しておく必要はない。
ヴェルドラは黒い前脚を振り上げ、寝床へ叩きつけた。
乾いた草と葉が押し潰され、周囲へ飛び散る。
毛布が爪に引っかかり、岩床の上を滑っていった。
なおも前脚を動かし、残った草を乱暴に掻き払う。
そのとき、乾いた草の隙間で何かが光った。
ヴェルドラの動きが止まる。
爪先で草を退けると、細い銀色の鎖が絡みついていた。
引き出された鎖の先から、小さな青い石が岩床の上へ転がり落ちる。
レイラが、いつも胸元へ下げていたものだった。
ヴェルドラは青い石を見下ろした。
こんなものを残したことにも気づかず、逃げていったらしい。
『愚かな女だ』
吐き捨てるように告げ、青い石へ爪先を押し当てる。
僅かに力を込めるだけで、こんな小さな石など簡単に砕ける。
鎖ごと引き裂き、跡形もなくしてやればいい。
爪先へ力が込められる。
けれど、青い石が砕ける寸前で、その動きは止まった。
今ここで砕いたところで、これが壊れる瞬間をレイラに見せることはできない。
それでは罰にならない。
『……ふん』
どうせ、あの女は戻ってくる。
そのとき目の前でこれを砕き、自分のもとから逃げたことを後悔させてやればいい。
そして二度と我の前から消えようなどと思わぬよう、逃げた代償を思い知らせてやる。
ヴェルドラは爪先を青い石から離した。
絡みついていた草を払い落とすと、細い鎖を爪先へ引っかけたまま、泉のそばにある自身の寝床へ向かう。
そこへ身を伏せ、首飾りを前脚の脇へ置いた。
洞窟の入り口から差し込んでいた光が、少しずつ弱まっていく。
やがて森の向こうへ日が沈み、焚き火に残っていた赤い光も消えた。
暗闇の中で、ヴェルドラは目を閉じた。
どこかで枝の擦れる音がすると、赤い瞳が開く。
けれど、洞窟の入り口に人影はない。
ただ風に揺られた木の枝が、互いに触れただけだった。
ヴェルドラは低く鼻を鳴らし、再び目を閉じる。
どうせ、すぐに戻ってくる。
戻ってきたとき、どのような罰を与えるかを考えていればいい。
しかし、夜が深くなっても、レイラの足音が洞窟へ近づいてくることはなかった。




