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暴虐の黒き竜と囚われの娘【R15版】  作者: いをり。
第4章【自由の向こう側】

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3話

レイラが村へたどり着くより、少し前。


その姿が森の奥へ消えたあとも、ヴェルドラは結界の前から動かなかった。


『レイラ!』


怒声が木々の間を駆け抜ける。


返事はない。


ヴェルドラは再び前脚を振り上げ、光の壁へ叩きつけた。


轟音とともに地面が大きく揺れる。


鋭い爪が触れた場所から幾重もの紋様が広がり、二本の石柱が眩い光を放った。


この結界が、どれほど力をぶつけても破れないことは、ヴェルドラ自身が誰よりも分かっていた。


それでも攻撃をやめず、再び光の壁へ爪を叩きつける。


太い尾が結界を打ち据え、光の紋様が激しく明滅した。


衝撃に耐えきれなくなった石柱の表面から、細かな欠片が零れ落ちる。


それでも、爪も尾も向こう側へ届かない。


『忌々しい……!』


ヴェルドラは低く唸りながら、レイラが消えた森の奥を睨みつけた。


命令を無視した。


戻れと告げたにもかかわらず、あの女は自分へ背を向けて逃げた。


以前、村へ戻ることを許した夜には、レイラは命じたとおり夜明けまでに帰ってきた。


だが、あの女が戻ったのは、戻らなければ村を滅ぼすと脅したからだ。


あのときのレイラは、ヴェルドラが境界を越えられないことを知らなかった。


そして今、それを知った途端に背を向けた。


自分を縛るものはもう何もないと知り、逃げていった。


ヴェルドラの喉から、地を這うような唸り声が漏れる。


『我から逃げられると思うな……』


押し殺した声が、低く森へ響いた。


レイラの姿は戻ってこない。


聞こえるのは、先ほどの衝撃に驚いた鳥や獣が逃げていく音ばかりだった。


ヴェルドラは結界へ爪を立てたまま、しばらく森の奥を睨み続けた。


やがて前脚を下ろすと、苛立ちをぶつけるように地面を強く踏みつける。


深く抉れた土が周囲へ飛び散った。


今すぐレイラを捕らえ、その細い身体を尾で締め上げてやりたかった。


二度と逃げようと思わぬよう、誰の所有物なのかを思い知らせてやりたかった。


それなのに、目の前の結界が邪魔をする。


ヴェルドラは最後にもう一度、レイラが消えた方角へ低い咆哮を放った。


そして翼を広げ、地面を蹴る。


黒い巨体が木々の上へ舞い上がり、洞窟のある山の奥へ向かった。


洞窟へ降り立つと、ヴェルドラは乱暴な足取りで中へ入った。


消えかけた焚き火が、灰の中に僅かな赤い光を残している。


そのそばには、洗われた鍋や木椀が伏せられていた。


けれど、焚き火の前にレイラの姿はない。


いつもなら、ヴェルドラが戻ればこちらへ顔を向けた。


獲物を持ち帰れば礼を告げ、食事に使える肉を切り分けてほしいと頼んできた。


そうでなくても、何かしらくだらぬ言葉を投げかけてきた。


何かを尋ねては、素っ気なく答えても、また別の話を続けてきた。


料理を出せば、味はどうかと赤い瞳を窺っていた。


今は、その声が聞こえない。


洞窟の中は、静まり返っていた。


レイラが現れる前と、何も変わらない。


朝になってもくだらぬ挨拶をされることはなく、食事をするたびに味を尋ねられることもない。


鬱陶しい声を聞かずに済むのだから、せいせいするはずだった。


それなのに、なぜか洞窟の静けさがひどく耳障りだった。


ヴェルドラは苛立たしげに尾を振り、岩床を強く打ちつけた。


乾いた音が洞窟の奥まで響き、壁際に積まれていた細い枝が崩れ落ちる。


それを拾う者もいない。


『……忌々しい』


勝手に現れ、勝手に火を焚いた。


勝手に食事を作り、頼んでもいないのに話しかけ続けた。


そうして我の住処へ入り込んだ挙句、今度は勝手に消えた。


何もかもが気に食わなかった。


ヴェルドラは泉のそばへ向かおうとして、足を止めた。


視界の端に、レイラの寝床が映っている。


乾いた草と柔らかな葉を重ね、その上には畳まれた毛布が置かれていた。


持ち主が勝手に消えたというのに、寝床だけが残されていることが、ひどく目障りだった。


赤い瞳が険しく細められる。


こんなものを残しておく必要はない。


ヴェルドラは黒い前脚を振り上げ、寝床へ叩きつけた。


乾いた草と葉が押し潰され、周囲へ飛び散る。


毛布が爪に引っかかり、岩床の上を滑っていった。


なおも前脚を動かし、残った草を乱暴に掻き払う。


そのとき、乾いた草の隙間で何かが光った。


ヴェルドラの動きが止まる。


爪先で草を退けると、細い銀色の鎖が絡みついていた。


引き出された鎖の先から、小さな青い石が岩床の上へ転がり落ちる。


レイラが、いつも胸元へ下げていたものだった。


ヴェルドラは青い石を見下ろした。


こんなものを残したことにも気づかず、逃げていったらしい。


『愚かな女だ』


吐き捨てるように告げ、青い石へ爪先を押し当てる。


僅かに力を込めるだけで、こんな小さな石など簡単に砕ける。


鎖ごと引き裂き、跡形もなくしてやればいい。


爪先へ力が込められる。


けれど、青い石が砕ける寸前で、その動きは止まった。


今ここで砕いたところで、これが壊れる瞬間をレイラに見せることはできない。


それでは罰にならない。


『……ふん』


どうせ、あの女は戻ってくる。


そのとき目の前でこれを砕き、自分のもとから逃げたことを後悔させてやればいい。


そして二度と我の前から消えようなどと思わぬよう、逃げた代償を思い知らせてやる。


ヴェルドラは爪先を青い石から離した。


絡みついていた草を払い落とすと、細い鎖を爪先へ引っかけたまま、泉のそばにある自身の寝床へ向かう。


そこへ身を伏せ、首飾りを前脚の脇へ置いた。


洞窟の入り口から差し込んでいた光が、少しずつ弱まっていく。


やがて森の向こうへ日が沈み、焚き火に残っていた赤い光も消えた。


暗闇の中で、ヴェルドラは目を閉じた。


どこかで枝の擦れる音がすると、赤い瞳が開く。


けれど、洞窟の入り口に人影はない。


ただ風に揺られた木の枝が、互いに触れただけだった。


ヴェルドラは低く鼻を鳴らし、再び目を閉じる。


どうせ、すぐに戻ってくる。


戻ってきたとき、どのような罰を与えるかを考えていればいい。


しかし、夜が深くなっても、レイラの足音が洞窟へ近づいてくることはなかった。

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