2話
どれほどそうしていたのか、レイラには分からなかった。
扉へ背を預けたまま、静まり返った部屋の中に座り込んでいた。
窓から差し込む光が、床の上を少しずつ移動していく。
やがて痺れた足を動かし、レイラはゆっくりと立ち上がった。
片腕に掛けたままだった籠を、机の上へ置く。
中には、山で採った若葉が残っていた。
洞窟へ持ち帰り、食事に使うはずだったものだ。
レイラはしばらく籠を見つめたあと、そこから目を逸らした。
泥に汚れたドレスを着替えようと、寝室へ向かう。
窓を開けると、閉め切られていた部屋へ柔らかな風が入り込んだ。
寝台の上には薄く埃が積もっている。
レイラはそれを手で払い、棚から清潔なドレスを取り出した。
着替える前に首飾りを外そうと、首の後ろへ手を回す。
けれど、そこにあるはずの留め具へ指が触れなかった。
「……え?」
胸元へ手を滑らせる。
いつもなら布越しに感じるはずの青い石も、どこにもなかった。
「……ない」
レイラは慌ててドレスの襟元へ手を入れ、首筋から胸元まで何度も探った。
けれど、細い鎖も青い石も指には触れない。
寝台の上や足元を探し、ドレスの襟や裾にも手を這わせる。
それでも、首飾りは見つからなかった。
レイラは寝室を飛び出し、先ほどまで座っていた戸口へ戻った。
床へ膝をつき、机や椅子の下へ目を凝らす。
籠の中から若葉をすべて取り出しても、青い石はどこにもない。
最後に首飾りへ触れたのは、ヴェルドラに求められた夜だった。
毛布の中で身体を丸め、縋るように青い石を握り締めた。
あのときには、確かに胸元にあった。
レイラの脳裏に、山を駆け下りたときの光景が蘇る。
枝が何度も頬やドレスを掠めた。
剥き出しの根に足を取られ、倒れそうになったことも一度ではない。
逃げることに必死で、胸元へ意識を向ける余裕などなかった。
あのとき、鎖が枝に引っかかって外れてしまったのかもしれない。
母と祖母から受け継いだ、大切な首飾り。
自分の家を離れ、洞窟へ戻ると決めた夜にも、それだけは置いていくことができなかった。
「探さないと……」
レイラは立ち上がり、扉へ手をかけた。
けれど、開こうとした手が止まる。
先ほど、レイラ自身が村人たちへ、山の奥に黒竜がいることを告げたばかりだった。
その黒竜に捕らえられていたレイラが、再び一人で山へ向かおうとすれば、誰も黙って行かせてはくれないだろう。
だからといって、首飾りを失くしたことを話せば、ハンスやほかの村人たちが代わりに探しに行くと言い出すかもしれない。
その先には、今もヴェルドラがいる。
自分のために、誰かを危険な山へ入らせるわけにはいかなかった。
レイラは扉から手を離した。
たとえ誰にも見つからず村を抜けられたとしても、今すぐ来た道を引き返せる状態ではない。
山から逃げてきたばかりの足には、まだ力が戻っていない。
レイラは俯き、何もない胸元を強く握った。
「どうしよう……」
そのとき、戸口を叩く音がした。
レイラの肩が大きく跳ねる。
「レイラ、俺だけど」
扉の向こうから聞こえてきたのは、ハンスの声だった。
レイラは取り出していた清潔なドレスを寝室へ戻した。
身につけたままの汚れたドレスを両手で整えてから、ゆっくりと扉を開ける。
ハンスは布で包まれた籠を持って立っていた。
「何も食べていないだろう。近所の人たちが、君にって」
「ありがとう……」
レイラが受け取ろうとすると、ハンスはその手を避けた。
「中まで運ぶよ」
「でも……」
「これくらいはさせてくれ」
レイラは僅かに迷ったあと、扉を大きく開いた。
ハンスは籠を机の上へ置いた。
布を外すと、焼きたてのパンと、蓋のついた鍋が現れる。
鍋の中には、まだ温かなスープが入っていた。
「今日は何も考えずに休んだ方がいい」
「ええ……」
「父さんたちには、俺から話しておいた。詳しいことは、君が落ち着いてから聞くと言っている」
「ごめんなさい。みんなに、心配をかけてしまって……」
「謝らなくていい」
ハンスはそう言ったあと、レイラの顔を見つめた。
「本当に、一人で大丈夫か?」
レイラは小さく頷いた。
「大丈夫よ」
「……分かった」
ハンスはそれ以上尋ねず、戸口へ向かった。
「また、あとで様子を見に来る」
「ありがとう、ハンス」
扉が閉まると、家の中には再び静けさが戻った。
レイラは寝室へ戻り、身につけていたドレスを脱いだ。
襟や裾、布の重なった部分まで、もう一度丁寧に確かめる。
それでも、首飾りは見つからなかった。
レイラは汚れたドレスを寝台の端へ置くと、浴室で身体や髪を洗う。
枝に擦った頬や手足へ水が触れるたび、細かな痛みが走る。
泥を落とし、清潔なドレスへ着替えると、ようやく自分の家へ戻ってきたのだという実感が湧いた。
寝室へ戻り、久しぶりに自分の寝台へ身体を横たえる。
柔らかな布が、疲れた身体を受け止めた。
岩の硬さも、地面から伝わる冷たさもない。
乾いた草が肌へ触れることもなかった。
ここなら、安心して眠ることができる。
そう思った途端、張りつめていた意識が急速に遠のいていった。
次に目を覚ましたとき、窓の外は茜色に染まっていた。
レイラは身体を起こし、机の上へ置かれた鍋を火にかけた。
温め直したスープの香りが、部屋の中へ広がっていく。
棚から木の器を一つ取り出す。
続けてもう一つへ手を伸ばしかけ、レイラの指が止まった。
洞窟では、いつも二つの木椀へ食事をよそっていた。
一つは自分のために。
もう一つは、ヴェルドラのために。
レイラは伸ばしていた手を下ろし、器を一つだけ持って机へ戻った。
椅子へ腰を下ろし、温かなスープを口へ運ぶ。
優しい味が、空腹だった身体へ染み渡っていく。
レイラは匙を持つ手を止め、向かいに置かれた椅子へ目を向けた。
祖母が生きていた頃は、いつもそこに座っていた。
採ってきた山菜のことや、その日に村であった出来事を話しながら、二人で食事をしていた。
祖母を亡くしてから、向かいの椅子は空いたままだった。
一人で食べることには、もう慣れていたはずだった。
けれど洞窟では、顔を上げればいつもヴェルドラがいた。
料理の味を尋ねれば、素っ気なくても返事があった。
何も言わないまま空になった木椀を見て、密かに嬉しく思うこともあった。
レイラは誰もいない椅子から、そっと目を逸らした。
あの洞窟へ戻りたいわけではない。
再び捕らえられ、自由を奪われたいはずもない。
ここには、自分を傷つける者はいなかった。
何をされるのかと怯えながら、赤い瞳を窺う必要もないはずなのに、静まり返った家の中は以前よりも広く感じてしまう。
レイラは残っていたスープをゆっくりと食べ終えた。
夜になると、窓と扉へ鍵をかけ、寝台へ横たわった。
目を閉じても、なかなか眠りは訪れなかった。
聞こえるのは、窓の外で風に揺れる木の葉の音だけ。
岩床を打つ太い尾の音も。
すぐそばで繰り返される、大きな寝息も。
不機嫌そうに自分を呼ぶ、低い声も聞こえない。
レイラは毛布の中で、何もない胸元へ手を置いた。
首飾りは、逃げてきた山道のどこかに落ちているのだろうか。
探すためには、もう一度あの山へ戻らなければならない。
レイラは胸元へ手を置いたまま、暗闇の向こうにある山の方角へ耳を澄ませた。
しかし、夜が深くなっても、あの黒竜の声は聞こえなかった。




