1話
背後で轟いた咆哮が、山を揺らした。
木々の枝から一斉に鳥が飛び立ち、頭上を覆うように羽音が広がる。
レイラは振り返らなかった。
乱れた呼吸を繰り返しながら、木々の間を走り続ける。
枝が頬を掠め、剥き出しの根に何度も足を取られた。それでも、立ち止まることはできなかった。
耳の奥には、ヴェルドラの怒声がこびりついている。
——レイラ!
あれほど激しく名前を呼ばれたのは、初めてだった。
怒りに満ちた声だった。
命令を無視し、自分のもとから逃げたレイラを、ヴェルドラが許すはずはない。
けれど、あの黒い尾はレイラへ届かなかった。
鋭い爪も、石柱の間を越えることはできなかった。
「……っ」
胸の奥から込み上げた息が、震えて漏れる。
大丈夫。
もう追いつかれない。
そう言い聞かせても、足は止まらなかった。
木々の隙間へ差し込む光が増えていく。
獣道だった足元は、やがて人が踏み固めた細い山道へ変わった。
見覚えのある道だった。
山を下りれば、村がある。
ヴェルドラの爪も牙も届かない場所へ、本当に帰ることができる。
そう思った途端、張りつめていたものが僅かに緩んだ。
同時に足から力が抜け、レイラは道の上へ膝をついた。
荒い呼吸だけが、静かな山道に響く。
土へついた手が震えていた。
指先へ力を込め、もう一度立ち上がろうとする。
そのとき、前方から複数の足音が聞こえた。
レイラは顔を上げる。
木々の向こうから、数人の村人たちがこちらへ向かってきていた。
先ほどの咆哮を聞き、山の様子を確かめに来たのかもしれない。
村人たちの手には、それぞれ斧や槍が握られている。
このまま山へ入らせてはいけない。
「待って……」
声を出したつもりだった。
けれど、乾いた喉から漏れたのは、掠れた息だけだった。
レイラはふらつきながら立ち上がる。
「山へ……行かないで……」
村人の一人が、その声に気づいた。
こちらを見たまま足を止める。
「誰かいるぞ」
ほかの者たちも、一斉にレイラへ顔を向けた。
「女の子だ」
「おい、あれは……」
村人たちの中から、一人の青年が飛び出した。
見覚えのある明るい髪。
その手から斧が落ち、地面へ転がった。
「レイラ!」
名前を呼ばれた瞬間、レイラの足が止まった。
ハンスが、ほかの村人たちを置き去りにして駆けてくる。
「レイラ……本当に、君なのか?」
「ハンス……」
それだけ答えると、急に膝が折れた。
倒れかけた身体を、ハンスの腕が受け止める。
「しっかりしろ」
肩へ回された腕の温かさに、レイラの身体が強張った。
咄嗟に身を引こうとしてしまう。
それに気づいたハンスが、すぐに腕の力を緩めた。
「……悪い。どこか怪我をしているのか?」
レイラは首を横へ振った。
枝に擦った頬や手足が痛むだけで、大きな怪我はない。
「どうして、山から……」
ハンスの視線が、レイラの姿を辿っていく。
泥に汚れたドレス。
乱れた髪。
細かな傷の残る手足。
片腕には、採り集めた若葉の入った籠が掛かったままだった。
ハンスは唇を引き結び、レイラの顔へ視線を戻した。
やがて追いついた村人たちが、二人の周囲へ集まってくる。
「レイラじゃないか」
「今まで、どこにいたんだ?」
「さっきの声は何だ。山で何かあったのか?」
次々に投げかけられる言葉へ、レイラは答えられなかった。
何から話せばよいのか分からない。
山で迷ったところを、黒い竜に捕らえられたこと。
村を滅ぼすと脅され、あの夜、ヴェルドラのもとへ戻ったこと。
そのそばで食事を作り、言葉を交わし、同じ洞窟で幾日も暮らしていたこと。
どれも、口に出した途端に現実ではなくなってしまいそうだった。
「今は一度、村へ戻ろう」
そう言って、ハンスが村人たちを制した。
「話はそれからでいい」
「だめ……」
レイラは、ハンスの服を掴んだ。
思っていたよりも強く掴んでしまい、ハンスが目を見開く。
「山へ行っては、だめです」
「レイラ?」
「お願いです。誰も……あの石柱より奥へ入らないで」
村人たちの間に、戸惑いが走った。
「石柱?」
「山の奥に、古い石柱が二本立っています。その間を越えてはいけません」
「その先に、何があるんだ?」
問いかけられ、喉が詰まる。
震えを抑えようとした唇が、思うように動かなかった。
そのとき、山の奥から低い地響きが伝わってきた。
もう咆哮は聞こえない。
それでも木々がざわめき、足元の小石が僅かに揺れている。
レイラの指が、ハンスの服をいっそう強く握った。
「……黒い竜が」
辺りから、音が消えた。
誰も、すぐには言葉を返さなかった。
竜など、遠い昔の物語の中にしか存在しない。
誰もが、そう思っていた。
「黒い……竜?」
ハンスが、確かめるように繰り返した。
レイラは俯いたまま頷く。
「私、山で道に迷って……そこで、捕まっていました」
肩へ置かれていたハンスの手が止まった。
「捕まっていた?」
「はい」
「それなら、あの夜も……」
レイラは何も言えなかった。
あの夜。
家へ戻った自分を見つけ、ここに残るよう何度も言ってくれたハンス。
それでもレイラは本当のことを告げず、ヴェルドラのもとへ戻った。
ハンスの表情が強張っていく。
「君は、村を離れたかったわけじゃなかったのか?」
レイラは唇を噛んだ。
「……ごめんなさい」
「どうして、何も言わなかった」
「戻らなければ、村を破壊すると言われたんです」
息を呑む音が重なった。
村人たちが、一斉に山を見上げる。
先ほどまで武器を握りしめていた手から、力が抜けていくのが見えた。
ハンスだけは、レイラから目を逸らさなかった。
「だから、一人で戻ったのか?」
レイラは小さく頷いた。
「……ほかに、どうすればいいのか分からなくて」
「それで、誰にも相談せずに?」
責めるような声ではなかった。
だからこそ、レイラは答えられなかった。
あのときは、自分が戻る以外に村を守る方法など思いつかなかった。
「どうやって逃げたんだ?」
「森で食べるものを探していたとき、知らないうちに石柱の間を越えていました」
レイラは服を掴んでいた手を離し、自分の指先へ目を落とした。
「追ってきたあの竜が、私を引き戻そうとして……でも、尾も爪もこちら側までは届かなかったんです」
「なら、その竜はここまで来られないのか?」
「……分かりません」
レイラは、ゆっくりと首を横へ振った。
「ただ、あの石柱を越えることはできないようでした」
ハンスはしばらく黙っていた。
やがて地面に落とした斧を拾い、ほかの村人たちへ向き直る。
「今日は山へ入らない方がいい。父さんにも知らせよう」
反対する者はいなかった。
レイラはハンスに支えられ、村へ続く道を歩き始めた。
咆哮を聞いて家から出てきた村人たちが、道の両側からこちらを見ている。
驚いた顔。
心配そうな顔。
名前を呼び、近づこうとする者もいた。
けれど、レイラの疲れきった姿を見ると、誰もすぐには問い詰めなかった。
「おかえり、レイラ」
年老いた女性が、胸元で両手を組みながら呟いた。
その一言に、レイラの胸が詰まる。
帰ってきた。
ヴェルドラの命令で荷物を取りに来たのではない。
夜が明ける前に、誰にも見つからないよう立ち去る必要もない。
ここにいてもいいのだ。
レイラは何かを返そうとしたが、声にならなかった。
ただ小さく頭を下げ、見慣れた家々の間を進んでいく。
やがて、自分の家が見えた。
扉も窓も、あの夜に出ていったときのままだった。
戸口の前で、レイラは足を止める。
「中まで送る」
ハンスがそう言ったが、レイラは首を横へ振った。
「大丈夫。少し……一人で休みたいの」
ハンスはすぐには動かなかった。
何かを言いかけ、けれど今は聞くべきではないと思ったのか、口を閉ざす。
「分かった。何かあったら、すぐに呼んでくれ」
「ええ」
「それから……」
ハンスは一度言葉を切り、レイラを真っ直ぐに見つめた。
「もう、こんなことを一人で決めないでくれ」
レイラの指先が、ドレスの裾を握る。
心配をかけた。
本当のことを話さず、何もかも自分だけで決めた。
それでも、あのときはほかに選べなかった。
言い訳も、約束も口にすることができず、レイラは目を伏せた。
「……ごめんなさい」
ハンスは僅かに眉を寄せたものの、それ以上は何も言わなかった。
レイラが戸口の脇に隠してある鍵を取り出すまで、黙ってそばに立っていた。
扉を開けると、外から差し込んだ光が薄暗い部屋を照らした。
見慣れた机。
二つ並んだ椅子。
壁際の棚。
何も変わっていない。
レイラは中へ入り、静かに扉を閉めた。
それだけで、外から聞こえていた人々の声が遠くなる。
家の中は、しんと静まり返っていた。
誰の気配もない。
何かを命じる低い声も。
苛立たしげに岩床を打つ、太い尾の音も。
自分を追って、名前を叫ぶ声も聞こえない。
レイラは扉へ背を預けたまま、ゆっくりと床へ座り込んだ。
強張っていた指から、ようやく力が抜けていく。
もう、怯えなくてもいい。
何をされるのかと、赤い瞳を窺う必要もない。
ここなら安全だった。
レイラは膝を抱え、深く息を吐いた。
「……帰ってきた」
呟いた声は、誰もいない部屋へ吸い込まれた。




