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暴虐の黒き竜と囚われの娘【R15版】  作者: いをり。
第4章【自由の向こう側】

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1話

背後で轟いた咆哮が、山を揺らした。


木々の枝から一斉に鳥が飛び立ち、頭上を覆うように羽音が広がる。


レイラは振り返らなかった。


乱れた呼吸を繰り返しながら、木々の間を走り続ける。


枝が頬を掠め、剥き出しの根に何度も足を取られた。それでも、立ち止まることはできなかった。


耳の奥には、ヴェルドラの怒声がこびりついている。


——レイラ!


あれほど激しく名前を呼ばれたのは、初めてだった。


怒りに満ちた声だった。


命令を無視し、自分のもとから逃げたレイラを、ヴェルドラが許すはずはない。


けれど、あの黒い尾はレイラへ届かなかった。


鋭い爪も、石柱の間を越えることはできなかった。


「……っ」


胸の奥から込み上げた息が、震えて漏れる。


大丈夫。


もう追いつかれない。


そう言い聞かせても、足は止まらなかった。


木々の隙間へ差し込む光が増えていく。


獣道だった足元は、やがて人が踏み固めた細い山道へ変わった。


見覚えのある道だった。


山を下りれば、村がある。


ヴェルドラの爪も牙も届かない場所へ、本当に帰ることができる。


そう思った途端、張りつめていたものが僅かに緩んだ。


同時に足から力が抜け、レイラは道の上へ膝をついた。


荒い呼吸だけが、静かな山道に響く。


土へついた手が震えていた。


指先へ力を込め、もう一度立ち上がろうとする。


そのとき、前方から複数の足音が聞こえた。


レイラは顔を上げる。


木々の向こうから、数人の村人たちがこちらへ向かってきていた。


先ほどの咆哮を聞き、山の様子を確かめに来たのかもしれない。


村人たちの手には、それぞれ斧や槍が握られている。


このまま山へ入らせてはいけない。


「待って……」


声を出したつもりだった。


けれど、乾いた喉から漏れたのは、掠れた息だけだった。


レイラはふらつきながら立ち上がる。


「山へ……行かないで……」


村人の一人が、その声に気づいた。


こちらを見たまま足を止める。


「誰かいるぞ」


ほかの者たちも、一斉にレイラへ顔を向けた。


「女の子だ」


「おい、あれは……」


村人たちの中から、一人の青年が飛び出した。


見覚えのある明るい髪。


その手から斧が落ち、地面へ転がった。


「レイラ!」


名前を呼ばれた瞬間、レイラの足が止まった。


ハンスが、ほかの村人たちを置き去りにして駆けてくる。


「レイラ……本当に、君なのか?」


「ハンス……」


それだけ答えると、急に膝が折れた。


倒れかけた身体を、ハンスの腕が受け止める。


「しっかりしろ」


肩へ回された腕の温かさに、レイラの身体が強張った。


咄嗟に身を引こうとしてしまう。


それに気づいたハンスが、すぐに腕の力を緩めた。


「……悪い。どこか怪我をしているのか?」


レイラは首を横へ振った。


枝に擦った頬や手足が痛むだけで、大きな怪我はない。


「どうして、山から……」


ハンスの視線が、レイラの姿を辿っていく。


泥に汚れたドレス。


乱れた髪。


細かな傷の残る手足。


片腕には、採り集めた若葉の入った籠が掛かったままだった。


ハンスは唇を引き結び、レイラの顔へ視線を戻した。


やがて追いついた村人たちが、二人の周囲へ集まってくる。


「レイラじゃないか」


「今まで、どこにいたんだ?」


「さっきの声は何だ。山で何かあったのか?」


次々に投げかけられる言葉へ、レイラは答えられなかった。


何から話せばよいのか分からない。


山で迷ったところを、黒い竜に捕らえられたこと。


村を滅ぼすと脅され、あの夜、ヴェルドラのもとへ戻ったこと。


そのそばで食事を作り、言葉を交わし、同じ洞窟で幾日も暮らしていたこと。


どれも、口に出した途端に現実ではなくなってしまいそうだった。


「今は一度、村へ戻ろう」


そう言って、ハンスが村人たちを制した。


「話はそれからでいい」


「だめ……」


レイラは、ハンスの服を掴んだ。


思っていたよりも強く掴んでしまい、ハンスが目を見開く。


「山へ行っては、だめです」


「レイラ?」


「お願いです。誰も……あの石柱より奥へ入らないで」


村人たちの間に、戸惑いが走った。


「石柱?」


「山の奥に、古い石柱が二本立っています。その間を越えてはいけません」


「その先に、何があるんだ?」


問いかけられ、喉が詰まる。


震えを抑えようとした唇が、思うように動かなかった。


そのとき、山の奥から低い地響きが伝わってきた。


もう咆哮は聞こえない。


それでも木々がざわめき、足元の小石が僅かに揺れている。


レイラの指が、ハンスの服をいっそう強く握った。


「……黒い竜が」


辺りから、音が消えた。


誰も、すぐには言葉を返さなかった。


竜など、遠い昔の物語の中にしか存在しない。


誰もが、そう思っていた。


「黒い……竜?」


ハンスが、確かめるように繰り返した。


レイラは俯いたまま頷く。


「私、山で道に迷って……そこで、捕まっていました」


肩へ置かれていたハンスの手が止まった。


「捕まっていた?」


「はい」


「それなら、あの夜も……」


レイラは何も言えなかった。


あの夜。


家へ戻った自分を見つけ、ここに残るよう何度も言ってくれたハンス。


それでもレイラは本当のことを告げず、ヴェルドラのもとへ戻った。


ハンスの表情が強張っていく。


「君は、村を離れたかったわけじゃなかったのか?」


レイラは唇を噛んだ。


「……ごめんなさい」


「どうして、何も言わなかった」


「戻らなければ、村を破壊すると言われたんです」


息を呑む音が重なった。


村人たちが、一斉に山を見上げる。


先ほどまで武器を握りしめていた手から、力が抜けていくのが見えた。


ハンスだけは、レイラから目を逸らさなかった。


「だから、一人で戻ったのか?」


レイラは小さく頷いた。


「……ほかに、どうすればいいのか分からなくて」


「それで、誰にも相談せずに?」


責めるような声ではなかった。


だからこそ、レイラは答えられなかった。


あのときは、自分が戻る以外に村を守る方法など思いつかなかった。


「どうやって逃げたんだ?」


「森で食べるものを探していたとき、知らないうちに石柱の間を越えていました」


レイラは服を掴んでいた手を離し、自分の指先へ目を落とした。


「追ってきたあの竜が、私を引き戻そうとして……でも、尾も爪もこちら側までは届かなかったんです」


「なら、その竜はここまで来られないのか?」


「……分かりません」


レイラは、ゆっくりと首を横へ振った。


「ただ、あの石柱を越えることはできないようでした」


ハンスはしばらく黙っていた。


やがて地面に落とした斧を拾い、ほかの村人たちへ向き直る。


「今日は山へ入らない方がいい。父さんにも知らせよう」


反対する者はいなかった。


レイラはハンスに支えられ、村へ続く道を歩き始めた。


咆哮を聞いて家から出てきた村人たちが、道の両側からこちらを見ている。


驚いた顔。


心配そうな顔。


名前を呼び、近づこうとする者もいた。


けれど、レイラの疲れきった姿を見ると、誰もすぐには問い詰めなかった。


「おかえり、レイラ」


年老いた女性が、胸元で両手を組みながら呟いた。


その一言に、レイラの胸が詰まる。


帰ってきた。


ヴェルドラの命令で荷物を取りに来たのではない。


夜が明ける前に、誰にも見つからないよう立ち去る必要もない。


ここにいてもいいのだ。


レイラは何かを返そうとしたが、声にならなかった。


ただ小さく頭を下げ、見慣れた家々の間を進んでいく。


やがて、自分の家が見えた。


扉も窓も、あの夜に出ていったときのままだった。


戸口の前で、レイラは足を止める。


「中まで送る」


ハンスがそう言ったが、レイラは首を横へ振った。


「大丈夫。少し……一人で休みたいの」


ハンスはすぐには動かなかった。


何かを言いかけ、けれど今は聞くべきではないと思ったのか、口を閉ざす。


「分かった。何かあったら、すぐに呼んでくれ」


「ええ」


「それから……」


ハンスは一度言葉を切り、レイラを真っ直ぐに見つめた。


「もう、こんなことを一人で決めないでくれ」


レイラの指先が、ドレスの裾を握る。


心配をかけた。


本当のことを話さず、何もかも自分だけで決めた。


それでも、あのときはほかに選べなかった。


言い訳も、約束も口にすることができず、レイラは目を伏せた。


「……ごめんなさい」


ハンスは僅かに眉を寄せたものの、それ以上は何も言わなかった。


レイラが戸口の脇に隠してある鍵を取り出すまで、黙ってそばに立っていた。


扉を開けると、外から差し込んだ光が薄暗い部屋を照らした。


見慣れた机。


二つ並んだ椅子。


壁際の棚。


何も変わっていない。


レイラは中へ入り、静かに扉を閉めた。


それだけで、外から聞こえていた人々の声が遠くなる。


家の中は、しんと静まり返っていた。


誰の気配もない。


何かを命じる低い声も。


苛立たしげに岩床を打つ、太い尾の音も。


自分を追って、名前を叫ぶ声も聞こえない。


レイラは扉へ背を預けたまま、ゆっくりと床へ座り込んだ。


強張っていた指から、ようやく力が抜けていく。


もう、怯えなくてもいい。


何をされるのかと、赤い瞳を窺う必要もない。


ここなら安全だった。


レイラは膝を抱え、深く息を吐いた。


「……帰ってきた」


呟いた声は、誰もいない部屋へ吸い込まれた。

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