6話
ヴェルドラが戻らないまま、夜が明けた。
焚き火の前に座っていたレイラは、洞窟の入り口から差し込む光へ顔を上げた。
膝に掛けていた毛布を畳み、寝床の上へ置く。
昨夜から何度も洞窟の外へ目を向けていたが、黒い翼が戻ってくることはなかった。
レイラは冷えた灰の中から火種を探し、細い枝を重ねた。
僅かに残っていた火へ息を吹きかけると、灰の奥で赤い光が明滅する。
やがて小さな炎が上がった。
その前へ鍋を置こうとして、レイラは手を止める。
料理へ使える山菜は、もうほとんど残っていなかった。
洞窟の隅に積んでいた薪も、昨夜のうちに随分と減っている。
レイラはしばらく迷ったあと、籠とナイフを手に取った。
洞窟を出る前に、もう一度だけ空を見上げる。
木々の隙間から覗く朝の空に、ヴェルドラの姿はなかった。
「少しだけ、行ってきます」
返事のない洞窟へ告げ、レイラは森の中へ足を踏み入れた。
朝露に濡れた草を踏み、いつも山菜を採っている場所へ向かう。
けれど、何日も同じ辺りを探していたため、残っているのは固く育った葉や、食べられない草ばかりだった。
レイラは周囲を見回した。
普段なら、これ以上先へ進むことはない。
少しでもヴェルドラの目の届かない場所へ行こうとすれば、すぐに呼び止められた。
だが今は、どこからも彼の声は聞こえてこなかった。
レイラは籠を抱え直し、木々の間をさらに下っていく。
やがて開けた場所へ出ると、地面に二本の古びた石柱が立っていた。
長い年月の間に風雨へ晒されたのか、表面は苔に覆われている。
何かが刻まれているようにも見えたが、崩れてしまっていて読み取ることはできなかった。
その向こうに、柔らかな若葉が群生している。
レイラは石柱の間を通り抜け、若葉のそばへ屈んだ。
指先で茎を摘み、食べられるものだけを選んで籠へ入れていく。
一束を採り終え、次の葉へ手を伸ばしたときだった。
遠くから、枝の折れる音が聞こえた。
一度ではない。
何か大きなものが木々を押し退けながら、凄まじい速さで近づいてくる。
レイラが立ち上がるのと同時に、頭上を黒い影が覆った。
激しい風が吹きつけ、周囲の草木が大きく揺れる。
「黒竜さん……」
地面を揺らして降り立ったヴェルドラが、真っ直ぐにレイラを見据えていた。
赤い瞳には、燃え上がるような怒りが宿っている。
『なぜ、ここにいる』
押し殺した声に、レイラの身体が強張った。
「食べ物と薪がなくなりそうだったので……」
『誰が、勝手に離れてよいと言った』
「すみません」
レイラが目を伏せる。
次の瞬間、ヴェルドラの尾が地面を這い、レイラの腰を捕らえようと伸びてきた。
ところが、尾は二本の石柱の間へ差しかかった途端、何かへ激しく弾かれた。
乾いた衝撃音が森の中へ響く。
何もなかったはずの空間へ光の紋様が浮かび、ヴェルドラとレイラの間を遮った。
「……え?」
レイラは目の前に広がった光を見つめた。
ヴェルドラの尾が、再びこちらへ伸びてくる。
そのたびに光の紋様が強く輝き、黒い尾を押し返した。
ヴェルドラの喉から、地を這うような唸り声が漏れる。
黒い前脚が振り上げられ、光の壁へ叩きつけられた。
轟音とともに地面が揺れ、石柱から細かな欠片が落ちる。
それでも、ヴェルドラの爪がレイラのいる側へ届くことはなかった。
『レイラ。こちらへ来い』
いつもの命令と変わらないはずなのに、その声には僅かな余裕もなかった。
レイラは籠を抱えたまま、ヴェルドラを見つめる。
「もしかして……ここから先へは、来られないのですか?」
『黙って戻れ!』
ヴェルドラが前脚を叩きつける。
光の壁が激しく揺れ、幾重もの紋様が空中へ広がった。
レイラは、その向こうで爪を振るう黒い巨体を見つめた。
どれほど強い力をぶつけても、ヴェルドラは石柱の間を越えられない。
以前、村へ戻った自分へ告げられた言葉が蘇る。
——『夜明けまでに戻らなければ、村を滅ぼす』
あのときは、その言葉を疑うことさえできなかった。
けれどヴェルドラは、この場所から先へ進めない。
村まで追ってくることもできない。
レイラは胸の前で籠を強く抱きしめた。
ここを越えれば、もう捕まらない。
洞窟へ連れ戻されることもない。
ようやく手にしたはずの自由を前にしても、足はすぐには動かなかった。
ヴェルドラが、再び光の壁へ爪を立てる。
その目はレイラだけを捉えていた。
『戻れ、レイラ!』
重く響いた声に、レイラの肩が震えた。
昨夜、身体の両脇へついた黒い前脚。
乾いた草へ食い込んだ鋭い爪。
——『玩具に我を拒む権利などない』
その言葉が胸の奥へ蘇り、止まっていた足が一歩後ろへ下がった。
ヴェルドラの赤い瞳が大きく見開かれる。
『貴様……何をしている』
さらに一歩、レイラは後ろへ下がった。
「ごめんなさい」
『戻れ』
レイラは身を翻した。
籠の中で若葉が揺れ、いくつかが地面へ落ちる。
背後から、ヴェルドラの爪が光の壁を打ちつける音が響いた。
『待て!』
レイラは振り返らなかった。
枝を腕で押し退け、木の根へ足を取られそうになりながら斜面を駆け下りる。
『レイラ!』
山を震わせるほどの怒声に、レイラの足が止まった。
ゆっくりと振り返る。
木々の隙間から、光の壁へ爪を立てるヴェルドラの姿が見えた。
地面には深い亀裂が走り、二本の石柱が激しく揺れている。
尾が何度も光の壁を打ち据え、光の紋様が眩いほどに明滅していた。
赤い瞳が、遠く離れたレイラを捉えている。
その形相は恐ろしく、今にもすべてを焼き尽くしてしまいそうな怒りに満ちていた。
けれど、ヴェルドラがそれほど必死に何かを求める姿を、レイラは初めて見た。
胸の奥が強く揺れる。
このまま戻れば、ヴェルドラは何をするのだろう。
また尾で捕らえられるのか。
拒む権利などないと言われ、望まれるまま身体を差し出す日々へ戻るのか。
レイラは籠を握る指へ力を込めた。
「……ごめんなさい」
届くはずのない声を残し、再び前を向いた。
『レイラ——!!』
背後から何度名前を呼ばれても、今度は足を止めなかった。
木々の向こうに続く、村への道だけを見つめて走り続ける。
やがてレイラの姿が深い森の中へ消えた。
その直後、行き場を失った黒竜の咆哮が、山全体を震わせた。




