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暴虐の黒き竜と囚われの娘【R15版】  作者: いをり。
第3章【黒竜との暮らし】

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6話

ヴェルドラが戻らないまま、夜が明けた。


焚き火の前に座っていたレイラは、洞窟の入り口から差し込む光へ顔を上げた。


膝に掛けていた毛布を畳み、寝床の上へ置く。


昨夜から何度も洞窟の外へ目を向けていたが、黒い翼が戻ってくることはなかった。


レイラは冷えた灰の中から火種を探し、細い枝を重ねた。


僅かに残っていた火へ息を吹きかけると、灰の奥で赤い光が明滅する。


やがて小さな炎が上がった。


その前へ鍋を置こうとして、レイラは手を止める。


料理へ使える山菜は、もうほとんど残っていなかった。


洞窟の隅に積んでいた薪も、昨夜のうちに随分と減っている。


レイラはしばらく迷ったあと、籠とナイフを手に取った。


洞窟を出る前に、もう一度だけ空を見上げる。


木々の隙間から覗く朝の空に、ヴェルドラの姿はなかった。


「少しだけ、行ってきます」


返事のない洞窟へ告げ、レイラは森の中へ足を踏み入れた。


朝露に濡れた草を踏み、いつも山菜を採っている場所へ向かう。


けれど、何日も同じ辺りを探していたため、残っているのは固く育った葉や、食べられない草ばかりだった。


レイラは周囲を見回した。


普段なら、これ以上先へ進むことはない。


少しでもヴェルドラの目の届かない場所へ行こうとすれば、すぐに呼び止められた。


だが今は、どこからも彼の声は聞こえてこなかった。


レイラは籠を抱え直し、木々の間をさらに下っていく。


やがて開けた場所へ出ると、地面に二本の古びた石柱が立っていた。


長い年月の間に風雨へ晒されたのか、表面は苔に覆われている。


何かが刻まれているようにも見えたが、崩れてしまっていて読み取ることはできなかった。


その向こうに、柔らかな若葉が群生している。


レイラは石柱の間を通り抜け、若葉のそばへ屈んだ。


指先で茎を摘み、食べられるものだけを選んで籠へ入れていく。


一束を採り終え、次の葉へ手を伸ばしたときだった。


遠くから、枝の折れる音が聞こえた。


一度ではない。


何か大きなものが木々を押し退けながら、凄まじい速さで近づいてくる。


レイラが立ち上がるのと同時に、頭上を黒い影が覆った。


激しい風が吹きつけ、周囲の草木が大きく揺れる。


「黒竜さん……」


地面を揺らして降り立ったヴェルドラが、真っ直ぐにレイラを見据えていた。


赤い瞳には、燃え上がるような怒りが宿っている。


『なぜ、ここにいる』


押し殺した声に、レイラの身体が強張った。


「食べ物と薪がなくなりそうだったので……」


『誰が、勝手に離れてよいと言った』


「すみません」


レイラが目を伏せる。


次の瞬間、ヴェルドラの尾が地面を這い、レイラの腰を捕らえようと伸びてきた。


ところが、尾は二本の石柱の間へ差しかかった途端、何かへ激しく弾かれた。


乾いた衝撃音が森の中へ響く。


何もなかったはずの空間へ光の紋様が浮かび、ヴェルドラとレイラの間を遮った。


「……え?」


レイラは目の前に広がった光を見つめた。


ヴェルドラの尾が、再びこちらへ伸びてくる。


そのたびに光の紋様が強く輝き、黒い尾を押し返した。


ヴェルドラの喉から、地を這うような唸り声が漏れる。


黒い前脚が振り上げられ、光の壁へ叩きつけられた。


轟音とともに地面が揺れ、石柱から細かな欠片が落ちる。


それでも、ヴェルドラの爪がレイラのいる側へ届くことはなかった。


『レイラ。こちらへ来い』


いつもの命令と変わらないはずなのに、その声には僅かな余裕もなかった。


レイラは籠を抱えたまま、ヴェルドラを見つめる。


「もしかして……ここから先へは、来られないのですか?」


『黙って戻れ!』


ヴェルドラが前脚を叩きつける。


光の壁が激しく揺れ、幾重もの紋様が空中へ広がった。


レイラは、その向こうで爪を振るう黒い巨体を見つめた。


どれほど強い力をぶつけても、ヴェルドラは石柱の間を越えられない。


以前、村へ戻った自分へ告げられた言葉が蘇る。


——『夜明けまでに戻らなければ、村を滅ぼす』


あのときは、その言葉を疑うことさえできなかった。


けれどヴェルドラは、この場所から先へ進めない。


村まで追ってくることもできない。


レイラは胸の前で籠を強く抱きしめた。


ここを越えれば、もう捕まらない。


洞窟へ連れ戻されることもない。


ようやく手にしたはずの自由を前にしても、足はすぐには動かなかった。


ヴェルドラが、再び光の壁へ爪を立てる。


その目はレイラだけを捉えていた。


『戻れ、レイラ!』


重く響いた声に、レイラの肩が震えた。


昨夜、身体の両脇へついた黒い前脚。


乾いた草へ食い込んだ鋭い爪。


——『玩具に我を拒む権利などない』


その言葉が胸の奥へ蘇り、止まっていた足が一歩後ろへ下がった。


ヴェルドラの赤い瞳が大きく見開かれる。


『貴様……何をしている』


さらに一歩、レイラは後ろへ下がった。


「ごめんなさい」


『戻れ』


レイラは身を翻した。


籠の中で若葉が揺れ、いくつかが地面へ落ちる。


背後から、ヴェルドラの爪が光の壁を打ちつける音が響いた。


『待て!』


レイラは振り返らなかった。


枝を腕で押し退け、木の根へ足を取られそうになりながら斜面を駆け下りる。


『レイラ!』


山を震わせるほどの怒声に、レイラの足が止まった。


ゆっくりと振り返る。


木々の隙間から、光の壁へ爪を立てるヴェルドラの姿が見えた。


地面には深い亀裂が走り、二本の石柱が激しく揺れている。


尾が何度も光の壁を打ち据え、光の紋様が眩いほどに明滅していた。


赤い瞳が、遠く離れたレイラを捉えている。


その形相は恐ろしく、今にもすべてを焼き尽くしてしまいそうな怒りに満ちていた。


けれど、ヴェルドラがそれほど必死に何かを求める姿を、レイラは初めて見た。


胸の奥が強く揺れる。


このまま戻れば、ヴェルドラは何をするのだろう。


また尾で捕らえられるのか。


拒む権利などないと言われ、望まれるまま身体を差し出す日々へ戻るのか。


レイラは籠を握る指へ力を込めた。


「……ごめんなさい」


届くはずのない声を残し、再び前を向いた。


『レイラ——!!』


背後から何度名前を呼ばれても、今度は足を止めなかった。


木々の向こうに続く、村への道だけを見つめて走り続ける。


やがてレイラの姿が深い森の中へ消えた。


その直後、行き場を失った黒竜の咆哮が、山全体を震わせた。

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