5話
翌朝、レイラは目を覚ましても、しばらく毛布の中で動かなかった。
ほとんど眠れないまま夜を過ごしたせいで、身体が重い。
目を閉じれば、昨夜ヴェルドラから告げられた言葉が蘇ってくる。
——玩具に我を拒む権利などない。
レイラは毛布の端を握りしめたあと、ゆっくりと身体を起こした。
泉のそばには、ヴェルドラが昨夜と変わらない姿で身を伏せている。
「おはようございます」
その声には、いつもの柔らかな響きがなかった。
ヴェルドラの片目が僅かに開く。
けれどレイラは返事を待たず、毛布を畳み始めた。
乱れた髪を手櫛で整え、消えかけた焚き火の前へ座る。
灰の中に残っていた火種へ細い枝を重ね、静かに息を吹きかけた。
やがて小さな炎が上がり、乾いた枝の表面を舐め始める。
レイラは汲んでおいた水を鍋へ注ぎ、残っていた山菜と干し肉を入れて火にかけた。
その間も、ヴェルドラへ話しかけることはなかった。
鍋が煮立つ音と、焚き火の爆ぜる音だけが洞窟の中へ響いている。
「できました」
レイラは二つの木椀へスープをよそい、その一つをヴェルドラの前脚のそばへ置いた。
それから焚き火の前へ戻り、自分の木椀を手に取る。
いつもなら、レイラはヴェルドラが最初の一口を食べるまで、その様子を窺っていた。
料理が気に入ったのか。
味が足りなかったのか。
僅かな反応を見つけようと、赤い瞳や口元へ視線を向けていた。
けれどその日は、俯いたまま自分の食事を口へ運んだ。
ヴェルドラは木椀へ鼻先を近づけたものの、すぐには食べようとしなかった。
赤い瞳が、焚き火の向こうにいるレイラへ向けられる。
それでもレイラが顔を上げることはなかった。
やがてヴェルドラは低く鼻を鳴らし、木椀の中身を口にし始めた。
レイラは先に食事を終えると、空になった木椀を膝の上へ置いた。
ヴェルドラが食べ終えるのを黙って待ち、差し出された木椀を受け取る。
それから水筒を手に泉へ向かい、食器を洗うための水を汲んだ。
焚き火のそばへ戻ると、空になった鍋へ水を注ぐ。
その水で木椀や匙を洗い、最後に鍋の汚れを布で拭っていく。
その様子を、ヴェルドラは赤い瞳でじっと見つめていた。
『今日は随分と静かだな』
レイラの手が僅かに止まった。
けれど、すぐに布を動かし始める。
「お邪魔をしてはいけないと思いまして」
『……誰がそのようなことを言った』
「すみません」
レイラはそれだけ答え、洗い終えた木椀を布の上へ伏せた。
それ以上、言葉を続ける様子はない。
ヴェルドラの喉から、低い唸り声が漏れる。
レイラは怯えたように肩を揺らしたが、理由を尋ねることなく、濁った水の入った鍋を持って洞窟の外へ向かった。
それからも、レイラはこれまでと変わらない生活を続けた。
朝になれば挨拶をし、食事を作る。
ヴェルドラの見える場所で山菜や木の実を集め、洞窟へ戻れば、採ってきたものを一つずつ選り分けた。
何かを尋ねられれば素直に答え、獲物を持ち帰ってもらえば礼を告げる。
ただ、自分から話しかけることはなくなった。
食事をするヴェルドラを嬉しそうに見つめることもない。
赤い瞳と視線が重なれば、レイラは静かに目を伏せた。
それでもヴェルドラの低い唸り声や、黒い尾が岩床を打つ音に肩を震わせることはあった。
そんなとき、レイラは邪魔にならないよう、そっと離れた場所へ移動した。
そのたびに、ヴェルドラの苛立ちはさらに増していった。
ある日の夕方、洞窟の入り口へ大きな鹿が落とされた。
重い音に、焚き火の前へ座っていたレイラが顔を上げる。
ヴェルドラの口元には、まだ新しい血が付いていた。
黒い前脚が鹿の身体を押さえ、鋭い爪が肉を切り裂く。
ヴェルドラは食べられる部分を一塊切り分けると、レイラの前へ差し出した。
「ありがとうございます」
レイラは肉を両手で受け取り、鍋のそばへ運んだ。
それからナイフを手に取り、料理に使える大きさへ切り分けていく。
ヴェルドラはその場から動かなかった。
赤い瞳が、レイラの手元を見つめている。
肉を切り終えたレイラは、鍋へ水を注ぎ、山菜とともに火へかけた。
それでも、背後から視線が外れることはなかった。
レイラは振り返り、ヴェルドラを見上げる。
「どうかなさいましたか?」
ヴェルドラの赤い瞳が険しく細められた。
『それだけか』
「……何がでしょうか?」
『…………』
ヴェルドラの口が僅かに開く。
けれど、そこから言葉は続かなかった。
何かを押し殺すような低い唸り声だけが、喉の奥から漏れる。
『……いや』
ヴェルドラは忌々しそうに顔を背けると、洞窟の奥へ向かった。
太い尾が岩床を強く打ち、小石がレイラの足元まで転がってくる。
レイラはしばらくヴェルドラの背を見つめたあと、鍋へ向き直った。
何を求められていたのか、分からなかった。
それでも、追いかけて尋ねようとは思わなかった。
煮立ち始めた鍋へ木杓子を入れ、浮かんできた灰汁を静かに取り除いていく。
その夜も、ヴェルドラはレイラの作った食事を一滴も残さず食べた。
けれどレイラが、その空になった木椀を見て微笑むことはなかった。
それから数日後の夜。
食事を終えたレイラは、焚き火のそばで鍋を洗っていた。
水筒から鍋へ水を注ぎ、内側に残った汚れを布で拭っていく。
背後では、ヴェルドラが泉のそばへ身を伏せていた。
布を水へ浸したとき、突然、乾いた音が洞窟の中へ響いた。
ヴェルドラの尾が、岩床を強く叩いた音だった。
レイラの肩が跳ねる。
恐る恐る振り返ると、ヴェルドラが立ち上がっていた。
黒い巨体が、重い足音を響かせながら近づいてくる。
「どうかなさいましたか?」
ヴェルドラは答えない。
レイラの前まで来ると、赤い瞳で真っ直ぐに見下ろした。
『いつまで、その態度を続けるつもりだ』
「……態度、ですか?」
『我を愚弄しているのか』
「そんなつもりはありません」
レイラは静かに答えた。
食事も作っている。
挨拶も欠かしていない。
ヴェルドラから何かを命じられれば、これまでと変わらず従っていた。
だからこそ、何を咎められているのか分からなかった。
『ならば、なぜ——』
ヴェルドラの言葉が、不自然に途切れた。
レイラは続きを待った。
けれどヴェルドラは、苛立たしげに喉を鳴らすだけで、何も言おうとしない。
「すみません」
結局、それ以外に返せる言葉はなかった。
レイラはヴェルドラから視線を外し、置いていた鍋へ手を伸ばした。
その瞬間、黒い尾がレイラの腰へ巻きつく。
「っ……!」
身体を持ち上げられ、鍋が手から滑り落ちた。
硬い音を立てて岩床を転がり、焚き火のそばに積まれていた枝へぶつかる。
中に残っていた水がこぼれ、地面へ広がっていった。
レイラはそのまま新しい寝床の上へ下ろされた。
ヴェルドラの黒い前脚が、身体の両脇へつく。
鋭い爪が乾いた草を深く抉った。
赤い瞳が、レイラを射抜くように見下ろしている。
何をされようとしているのか、レイラには分かった。
あの夜と同じように拒めば、またヴェルドラを怒らせる。
どれほど嫌だと訴えても、自分の言葉が届くことはない。
レイラは腰へ巻きついた尾へ触れることも、ヴェルドラの胸元を押し返すこともしなかった。
身体から力を抜き、静かに目を閉じる。
「……どうぞ」
ヴェルドラの動きが止まった。
レイラは目を閉じたまま、言葉を続ける。
「お好きになさってください」
ヴェルドラの喉から、低い唸り声が漏れた。
『何のつもりだ』
レイラはゆっくりと目を開いた。
見上げた先にある赤い瞳には、先ほどまでとは比べものにならないほど激しい怒りが宿っていた。
それでもレイラは身を縮めなかった。
「私に、拒む権利はないのでしょう?」
ヴェルドラの爪が、乾いた草へさらに深く沈んだ。
レイラは次に起こることを、黙って待った。
あの夜のように泣いて訴えることもない。
怯えて身体を強張らせることも、許しを請うこともしなかった。
ただヴェルドラの望むまま、自分の身体を差し出そうとしている。
その姿を、ヴェルドラは赤い瞳で見つめ続けた。
やがて、腰へ巻きついていた尾が唐突に解かれる。
ヴェルドラはレイラから離れると、苛立ちをぶつけるように前脚を岩床へ叩きつけた。
鋭い爪の下で岩が砕け、破片が周囲へ飛び散る。
レイラはとっさに腕で顔を庇った。
『……気に食わん』
吐き捨てるような声が、洞窟の中へ響いた。
「すみません」
レイラが答えると、ヴェルドラの喉からひときわ低い唸り声が漏れた。
黒い巨体がレイラへ背を向ける。
そのまま洞窟の外へ向かい、強く地面を蹴った。
大きな翼が広がり、巻き起こった風が焚き火の炎を激しく揺らす。
ヴェルドラは夜の山へ飛び立ち、すぐに姿が見えなくなった。
レイラは寝床の上に横たわったまま、しばらく動けなかった。
言われたとおり、拒まなかった。
何をされても受け入れようとした。
それなのに、ヴェルドラはさらに怒り、何もせずに離れていった。
理由は分からなかった。
レイラはゆっくりと身体を起こすと、焚き火のそばへ転がった鍋を拾いに向かった。
こぼれた水が、岩床の上に黒い染みを作っている。
レイラは鍋の底に残っていた水へ布を浸し、内側の汚れを拭い始めた。
洞窟の中には、布が鍋を擦る小さな音と、焚き火の爆ぜる音だけが響いている。
洗い終えると、レイラは鍋に残った濁った水を洞窟の外へ捨て、布の上へ伏せた。
それから散らばった枝を一本ずつ拾い集める。
ヴェルドラのいない洞窟は、いつもより広く感じられた。
すべての片づけを終えても、レイラはしばらく焚き火の前から動かなかった。




