↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
暴虐の黒き竜と囚われの娘【R15版】  作者: いをり。
第3章【黒竜との暮らし】

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

16/47

5話

翌朝、レイラは目を覚ましても、しばらく毛布の中で動かなかった。


ほとんど眠れないまま夜を過ごしたせいで、身体が重い。


目を閉じれば、昨夜ヴェルドラから告げられた言葉が蘇ってくる。


——玩具に我を拒む権利などない。


レイラは毛布の端を握りしめたあと、ゆっくりと身体を起こした。


泉のそばには、ヴェルドラが昨夜と変わらない姿で身を伏せている。


「おはようございます」


その声には、いつもの柔らかな響きがなかった。


ヴェルドラの片目が僅かに開く。


けれどレイラは返事を待たず、毛布を畳み始めた。


乱れた髪を手櫛で整え、消えかけた焚き火の前へ座る。


灰の中に残っていた火種へ細い枝を重ね、静かに息を吹きかけた。


やがて小さな炎が上がり、乾いた枝の表面を舐め始める。


レイラは汲んでおいた水を鍋へ注ぎ、残っていた山菜と干し肉を入れて火にかけた。


その間も、ヴェルドラへ話しかけることはなかった。


鍋が煮立つ音と、焚き火の爆ぜる音だけが洞窟の中へ響いている。


「できました」


レイラは二つの木椀へスープをよそい、その一つをヴェルドラの前脚のそばへ置いた。


それから焚き火の前へ戻り、自分の木椀を手に取る。


いつもなら、レイラはヴェルドラが最初の一口を食べるまで、その様子を窺っていた。


料理が気に入ったのか。


味が足りなかったのか。


僅かな反応を見つけようと、赤い瞳や口元へ視線を向けていた。


けれどその日は、俯いたまま自分の食事を口へ運んだ。


ヴェルドラは木椀へ鼻先を近づけたものの、すぐには食べようとしなかった。


赤い瞳が、焚き火の向こうにいるレイラへ向けられる。


それでもレイラが顔を上げることはなかった。


やがてヴェルドラは低く鼻を鳴らし、木椀の中身を口にし始めた。


レイラは先に食事を終えると、空になった木椀を膝の上へ置いた。


ヴェルドラが食べ終えるのを黙って待ち、差し出された木椀を受け取る。


それから水筒を手に泉へ向かい、食器を洗うための水を汲んだ。


焚き火のそばへ戻ると、空になった鍋へ水を注ぐ。


その水で木椀や匙を洗い、最後に鍋の汚れを布で拭っていく。


その様子を、ヴェルドラは赤い瞳でじっと見つめていた。


『今日は随分と静かだな』


レイラの手が僅かに止まった。


けれど、すぐに布を動かし始める。


「お邪魔をしてはいけないと思いまして」


『……誰がそのようなことを言った』


「すみません」


レイラはそれだけ答え、洗い終えた木椀を布の上へ伏せた。


それ以上、言葉を続ける様子はない。


ヴェルドラの喉から、低い唸り声が漏れる。


レイラは怯えたように肩を揺らしたが、理由を尋ねることなく、濁った水の入った鍋を持って洞窟の外へ向かった。


それからも、レイラはこれまでと変わらない生活を続けた。


朝になれば挨拶をし、食事を作る。


ヴェルドラの見える場所で山菜や木の実を集め、洞窟へ戻れば、採ってきたものを一つずつ選り分けた。


何かを尋ねられれば素直に答え、獲物を持ち帰ってもらえば礼を告げる。


ただ、自分から話しかけることはなくなった。


食事をするヴェルドラを嬉しそうに見つめることもない。


赤い瞳と視線が重なれば、レイラは静かに目を伏せた。


それでもヴェルドラの低い唸り声や、黒い尾が岩床を打つ音に肩を震わせることはあった。


そんなとき、レイラは邪魔にならないよう、そっと離れた場所へ移動した。


そのたびに、ヴェルドラの苛立ちはさらに増していった。


ある日の夕方、洞窟の入り口へ大きな鹿が落とされた。


重い音に、焚き火の前へ座っていたレイラが顔を上げる。


ヴェルドラの口元には、まだ新しい血が付いていた。


黒い前脚が鹿の身体を押さえ、鋭い爪が肉を切り裂く。


ヴェルドラは食べられる部分を一塊切り分けると、レイラの前へ差し出した。


「ありがとうございます」


レイラは肉を両手で受け取り、鍋のそばへ運んだ。


それからナイフを手に取り、料理に使える大きさへ切り分けていく。


ヴェルドラはその場から動かなかった。


赤い瞳が、レイラの手元を見つめている。


肉を切り終えたレイラは、鍋へ水を注ぎ、山菜とともに火へかけた。


それでも、背後から視線が外れることはなかった。


レイラは振り返り、ヴェルドラを見上げる。


「どうかなさいましたか?」


ヴェルドラの赤い瞳が険しく細められた。


『それだけか』


「……何がでしょうか?」


『…………』


ヴェルドラの口が僅かに開く。


けれど、そこから言葉は続かなかった。


何かを押し殺すような低い唸り声だけが、喉の奥から漏れる。


『……いや』


ヴェルドラは忌々しそうに顔を背けると、洞窟の奥へ向かった。


太い尾が岩床を強く打ち、小石がレイラの足元まで転がってくる。


レイラはしばらくヴェルドラの背を見つめたあと、鍋へ向き直った。


何を求められていたのか、分からなかった。


それでも、追いかけて尋ねようとは思わなかった。


煮立ち始めた鍋へ木杓子を入れ、浮かんできた灰汁を静かに取り除いていく。


その夜も、ヴェルドラはレイラの作った食事を一滴も残さず食べた。


けれどレイラが、その空になった木椀を見て微笑むことはなかった。


それから数日後の夜。


食事を終えたレイラは、焚き火のそばで鍋を洗っていた。


水筒から鍋へ水を注ぎ、内側に残った汚れを布で拭っていく。


背後では、ヴェルドラが泉のそばへ身を伏せていた。


布を水へ浸したとき、突然、乾いた音が洞窟の中へ響いた。


ヴェルドラの尾が、岩床を強く叩いた音だった。


レイラの肩が跳ねる。


恐る恐る振り返ると、ヴェルドラが立ち上がっていた。


黒い巨体が、重い足音を響かせながら近づいてくる。


「どうかなさいましたか?」


ヴェルドラは答えない。


レイラの前まで来ると、赤い瞳で真っ直ぐに見下ろした。


『いつまで、その態度を続けるつもりだ』


「……態度、ですか?」


『我を愚弄しているのか』


「そんなつもりはありません」


レイラは静かに答えた。


食事も作っている。


挨拶も欠かしていない。


ヴェルドラから何かを命じられれば、これまでと変わらず従っていた。


だからこそ、何を咎められているのか分からなかった。


『ならば、なぜ——』


ヴェルドラの言葉が、不自然に途切れた。


レイラは続きを待った。


けれどヴェルドラは、苛立たしげに喉を鳴らすだけで、何も言おうとしない。


「すみません」


結局、それ以外に返せる言葉はなかった。


レイラはヴェルドラから視線を外し、置いていた鍋へ手を伸ばした。


その瞬間、黒い尾がレイラの腰へ巻きつく。


「っ……!」


身体を持ち上げられ、鍋が手から滑り落ちた。


硬い音を立てて岩床を転がり、焚き火のそばに積まれていた枝へぶつかる。


中に残っていた水がこぼれ、地面へ広がっていった。


レイラはそのまま新しい寝床の上へ下ろされた。


ヴェルドラの黒い前脚が、身体の両脇へつく。


鋭い爪が乾いた草を深く抉った。


赤い瞳が、レイラを射抜くように見下ろしている。


何をされようとしているのか、レイラには分かった。


あの夜と同じように拒めば、またヴェルドラを怒らせる。


どれほど嫌だと訴えても、自分の言葉が届くことはない。


レイラは腰へ巻きついた尾へ触れることも、ヴェルドラの胸元を押し返すこともしなかった。


身体から力を抜き、静かに目を閉じる。


「……どうぞ」


ヴェルドラの動きが止まった。


レイラは目を閉じたまま、言葉を続ける。


「お好きになさってください」


ヴェルドラの喉から、低い唸り声が漏れた。


『何のつもりだ』


レイラはゆっくりと目を開いた。


見上げた先にある赤い瞳には、先ほどまでとは比べものにならないほど激しい怒りが宿っていた。


それでもレイラは身を縮めなかった。


「私に、拒む権利はないのでしょう?」


ヴェルドラの爪が、乾いた草へさらに深く沈んだ。


レイラは次に起こることを、黙って待った。


あの夜のように泣いて訴えることもない。


怯えて身体を強張らせることも、許しを請うこともしなかった。


ただヴェルドラの望むまま、自分の身体を差し出そうとしている。


その姿を、ヴェルドラは赤い瞳で見つめ続けた。


やがて、腰へ巻きついていた尾が唐突に解かれる。


ヴェルドラはレイラから離れると、苛立ちをぶつけるように前脚を岩床へ叩きつけた。


鋭い爪の下で岩が砕け、破片が周囲へ飛び散る。


レイラはとっさに腕で顔を庇った。


『……気に食わん』


吐き捨てるような声が、洞窟の中へ響いた。


「すみません」


レイラが答えると、ヴェルドラの喉からひときわ低い唸り声が漏れた。


黒い巨体がレイラへ背を向ける。


そのまま洞窟の外へ向かい、強く地面を蹴った。


大きな翼が広がり、巻き起こった風が焚き火の炎を激しく揺らす。


ヴェルドラは夜の山へ飛び立ち、すぐに姿が見えなくなった。


レイラは寝床の上に横たわったまま、しばらく動けなかった。


言われたとおり、拒まなかった。


何をされても受け入れようとした。


それなのに、ヴェルドラはさらに怒り、何もせずに離れていった。


理由は分からなかった。


レイラはゆっくりと身体を起こすと、焚き火のそばへ転がった鍋を拾いに向かった。


こぼれた水が、岩床の上に黒い染みを作っている。


レイラは鍋の底に残っていた水へ布を浸し、内側の汚れを拭い始めた。


洞窟の中には、布が鍋を擦る小さな音と、焚き火の爆ぜる音だけが響いている。


洗い終えると、レイラは鍋に残った濁った水を洞窟の外へ捨て、布の上へ伏せた。


それから散らばった枝を一本ずつ拾い集める。


ヴェルドラのいない洞窟は、いつもより広く感じられた。


すべての片づけを終えても、レイラはしばらく焚き火の前から動かなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。