4話
新しい寝床で眠るようになってから、幾日かが過ぎた。
朝になれば、レイラはヴェルドラへ挨拶をする。
ヴェルドラの見える場所で山菜や木の実を集め、洞窟へ戻ると、焚き火を起こして食事を作った。
ヴェルドラが狩りから獲物を持ち帰れば、食べられる分だけ肉を分けてもらい、鍋で煮込む。
初めは人間の料理など食わないと言っていたヴェルドラも、今ではレイラが木椀へ盛ったものを、何も言わず口にするようになっていた。
食事が終われば、レイラは鍋や食器を洗い、焚き火のそばへ道具を片づける。
そして夜になると、乾いた草と柔らかな葉で作った寝床へ横たわり、毛布に包まれて眠った。
そんな日々を重ねても、ヴェルドラが低い唸り声を漏らせば、レイラの肩は今も大きく跳ねた。
赤い瞳に鋭く睨まれ、太い尾が僅かに動くだけで、身体が無意識に強張ることもあった。
それでも、この数日間は身体を求められることも、傷つけられることもなかった。
川で身体を洗いたいと頼んだときも、寝床を作るために外へ出たいと告げたときも、ヴェルドラは不機嫌そうにしながら許してくれた。
何かを尋ねれば、素っ気なくても答えが返ってくることがある。
穏やかな時間が続くうちに、張り詰めていたレイラの心も、少しずつ緩み始めていた。
以前よりも、自分の言葉を聞いてくれるようになったのかもしれない。
このままヴェルドラの機嫌を損ねずにいれば、もう酷いことはされないのかもしれない。
そんな淡い期待が、レイラの胸の中に生まれ始めていた。
その日も、いつもと変わらない一日が過ぎた。
レイラはヴェルドラが持ち帰った肉と山菜を煮込み、二人分の食事を用意した。
食べ終えた木椀を洗い、火が消えないよう焚き火へ枝を足す。
すべての片づけを終える頃には、洞窟の外はすっかり暗くなっていた。
レイラは小さく欠伸を零すと、新しい寝床へ向かった。
毛布を広げ、その中へ身体を滑り込ませる。
乾いた草が身体を柔らかく受け止め、木の葉の匂いが鼻先を掠めた。
レイラは毛布を肩まで引き上げ、泉のそばに身を伏せているヴェルドラへ顔を向けた。
「おやすみなさい、黒竜さん」
ヴェルドラから返事はなく、赤い瞳も閉じられたままだった。
レイラはそれを気に留めず、ゆっくりと目を閉じる。
その直後、乾いた草を擦る音が聞こえた。
何かが寝床へ近づいてくる気配に、レイラは目を開いた。
すぐそばに、ヴェルドラの黒い巨体が立っていた。
焚き火の炎を背にしたその姿が、レイラの上へ大きな影を落としている。
「……黒竜さん?」
ヴェルドラは何も答えない。
赤い瞳が、毛布に包まれたレイラの身体へ向けられていた。
その視線が何を意味するのか悟り、レイラの胸が大きく脈打った。
黒い尾が伸び、毛布の上からレイラの腰へ巻きつく。
「きゃっ……!」
身体を引き寄せられ、毛布が肩から滑り落ちた。
ヴェルドラは尾へ巻きつけたレイラを寝床の上へ押し倒すと、その両脇へ黒い前脚をついた。
鋭い爪が乾いた草を深く抉る。
「待ってください……」
ヴェルドラの赤い瞳が細められた。
『何だ』
レイラは胸元へ手を置き、縋るようにヴェルドラを見上げた。
「あの……今日は、やめていただけませんか……?」
『やめろだと?』
低い声が、洞窟の中へ響いた。
レイラは身体を強張らせながらも、小さく頷いた。
「はい……お願いです」
ヴェルドラの喉から、低い唸り声が漏れる。
『貴様は、我に指図できる立場になったつもりか?』
「そういうつもりでは……」
『ならば黙れ』
ヴェルドラの尾が、レイラの腰をさらに強く締めつけた。
「っ……!」
レイラは苦しさに顔を歪め、それでも必死に言葉を続けた。
「ごめんなさい……ただ、この数日は何もされなかったので……今日も、許していただけるかと……」
『何を勘違いしている』
冷たく放たれた言葉に、レイラは息を呑んだ。
ヴェルドラの巨大な顔が、レイラの眼前へ迫る。
『貴様の好きにさせていたのは、我にとってどうでもよいことだったからだ』
「そんな……」
『火を使おうが、川で身体を洗おうが、どこで眠ろうが、我の知ったことではない』
赤い瞳が、逃げ場を奪うようにレイラを見下ろしている。
『だが、我が貴様をどう使うかは別だ』
ヴェルドラの爪先が、レイラのドレスの裾へ触れた。
布地を持ち上げられ、レイラは慌ててその手を押さえる。
「やめてください……お願いです……」
『言っただろう。貴様は我の玩具だ』
「でも……!」
『玩具に我を拒む権利などない』
ヴェルドラはレイラの訴えを聞き入れず、黒い尾へ力を込めた。
逃れようと身を捩っても、両脇へつかれた前脚と腰へ巻きついた尾に阻まれ、身体を引くことさえできない。
「黒竜さん……やめて……!」
『黙れ』
燃えるような赤い瞳が、レイラを見下ろす。
『飽きるまでは、貴様を我の好きなように使う』
その言葉とともに、頭上を覆う黒い影がさらに近づいた。
レイラはもう一度やめてほしいと訴えた。
けれど、その声がヴェルドラへ届くことはなかった。
焚き火の炎が大きく揺れ、重なった影が岩壁へ映し出される。
新しく作った寝床から、乾いた草の擦れる音がいつまでも途切れることはなかった。
どれほどの時間が過ぎたのか。
ようやく腰へ巻きついていた尾が解かれると、レイラは寝床の上で身体を丸めた。
乱れた呼吸を繰り返しながら、震える手でドレスの裾を戻す。
目尻から溢れた涙が、火照った頬を伝っていった。
初めの頃とは違い、身体には耐え難いほどの痛みは残っていない。
それでも、胸の奥には押し潰されたような苦しさが広がっていた。
今のヴェルドラなら願いを聞いてくれるかもしれないと、ほんの少しでも期待した自分が惨めだった。
それ以上に、自分の言葉がヴェルドラには何ひとつ届いていなかったことが悲しかった。
ほんの少しだけ近づけたように思っていたのは、自分だけだったのだ。
そのことが、たまらなく虚しかった。
ヴェルドラは、涙に濡れたレイラを冷たい赤い瞳で見下ろした。
『覚えておけ。貴様を生かしているのは、まだ使い道があるからだ』
ヴェルドラはそれだけ告げると、レイラへ背を向けた。
黒い巨体が離れていき、泉のそばにあるいつもの場所へ身を伏せる。
レイラは何も答えられなかった。
傍らへ落ちていた毛布を引き寄せ、新しく作った寝床の上で身体を丸める。
頭まで毛布に包まると、両手でその端を強く握りしめた。
食べ物を持ってきてくれたことも。
川へ連れていってくれたことも。
寝床のために、たくさんの草や葉を集めてくれたことも。
その一つひとつに、ヴェルドラなりの優しさがあるのかもしれないと思いかけていた。
けれど、それはレイラの勘違いだった。
ヴェルドラにとって、自分は今も玩具でしかない。
まだ使い道があるから、生かされているだけなのだ。
ならば、使い道がなくなれば。
ヴェルドラが自分に飽きれば——そのときは、これまでの人間たちと同じように殺されるのだろう。
洞窟での生活に慣れても、食事を作れるようになっても、眠るための場所ができても、何ひとつ変わってはいなかった。
レイラの命は今も、ヴェルドラの気まぐれ一つに握られている。
レイラは胸元に下がる青い石へ手を伸ばし、縋るように握りしめた。
毛布の中で目を閉じても、涙はしばらく止まらなかった。




