第39話 夫婦台帳の余白
騒ぎが落ち着いた夜、私は自室ではなくクラウスの書斎にいた。
灯りは一つ、机には二冊の台帳。片方は今日締めた補正簿。もう片方は、私たち自身の家門台帳写しだ。結婚の登録以降、正式な続柄欄だけが増え、その下はまだ白い。
「余白が多いですね」
私が言うと、クラウスが茶器を置いた。
「不満か」
「いいえ。余白は嫌いではありません。勝手に埋められなければ」
彼は少し考えたあと、私の横へ椅子を寄せる。
「私は急かすつもりはない」
「何をですか」
「子どものことも、養子のことも、この家に誰を迎えるかも」
まっすぐ言われて、私はしばらく黙った。仕事でなら即答できるのに、こういう時は言葉を選ぶ。
「……昔の私は、空欄を見るのが怖かったんです」
「消される余地だと思っていたからか」
私は頷く。
「でも今は違います。白いままなのは、これから自分で書けるからだと思える」
クラウスの指が、台帳の余白にそっと触れた。
「なら、この先は君と相談して埋めよう」
「ええ」
「人でも、仕事でも、猫でも」
「最後だけずいぶん気軽ですね」
思わず笑うと、彼もわずかに笑った。
静かな時間だった。甘い言葉は多くない。でも私は知っている。この人は、私の名前を守るためなら、書類箱の火の中にだって入る。
私は彼の肩へ額を寄せた。
「次に余白へ書く時も、隣にいてください」
「そのために結婚した」
短く、揺るがない返答だった。
白い頁は、もう怖くない。そこには、まだ来ていない幸福の席が残っているだけだ。




