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第32話 母印帳と助産婦の記憶

母印帳は、字を書けない母親たちのための記録簿だ。


 銀鉱町の古い産院跡から、六十一歳の助産婦グレーテがそれを持ち出してきた時、私は思わず深く頭を下げた。布にくるまれた帳面は薄いのに、抱えた重みは大きい。


「若い頃の私の宝物だよ」


 グレーテは皺だらけの手で表紙を撫でた。


「誰がどの子を抱いて、誰がその子を家へ連れて帰ったか。母親の指の印で残してた」


 頁をめくると、そこにエーミールの名があった。実母の親指印、死亡記録、そして『マルクス・バウアー、ハンナ・バウアー宅へ引渡し』。二人の署名こそないが、グレーテと立会人二名の名がある。


「正式養子縁組の前段階ですね」


 私が言うと、グレーテが頷いた。


「あの子は泣き虫でねえ。マルクスが一晩中抱いてたよ。誰が見ても、最初から息子だった」


 さらに彼女は、古い針箱から小さな布片を出した。婚礼の日、花嫁の袖を直した残り布だという。そこには北門礼拝堂特有の青糸刺繍が残っていた。


「ハンナの婚礼服だよ。あの子、嬉しくてずっと袖を撫でてた」


 席次札の染色糸と照らすと、色味も織りも一致する。


 私はその場で証拠目録を書き上げた。婚姻、養育、扶養、地域証言。切られた一本の線が、別々の頁から戻ってくる。


「ありがとう、グレーテさん」


「礼はいらないよ」


 彼女は鼻を鳴らす。


「消された名前を戻すのは、あんたの仕事なんだろ」


 その言葉はやさしいのに、背中を押す力があった。


 帰り道、クラウスが馬車の中で私の手を握る。


「君はいつも、失われたものを拾いに行く」


「拾わないと、誰かが最初からなかったことにするので」


「なら私は、君が拾ったものを二度と落とさせない」


 その低い声を聞きながら、私は母印帳を胸へ抱き直した。これはただの帳面ではない。誰かが家族になった瞬間の、指先の証明だ。


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