第27話 公爵夫人の巡回机
机は役所に固定されていなければならない、という決まりはない。
だから私は、市場広場へ丸机を一つ運ばせた。『巡回戸籍窓口』と書いた札を立て、ヘルガと二人で書式を並べる。すると午前中だけで、想像以上の人がやってきた。
「うちの母の葬送名簿です」
「この家賃帳に夫婦名が並んでます」
「養子の祝い酒のつけ帳なら、酒場に残ってるよ」
王都なら正式書式以外は鼻先で弾かれただろう。けれど辺境では、暮らしの証明は一冊にまとまっていない。配給簿、鉱夫名簿、診療控え、酒場の帳面。人はそれぞれの場所に少しずつ残る。
風が強くなり、紙が飛びそうになる。と、隣から大きな手が伸びて書類箱を押さえた。
「外で仕事をするなら、重しが要る」
クラウスだった。今日は視察だけのはずだったのに、いつの間にか私の机の横に立っている。
「公爵が重し扱いされるのは嫌では?」
「君の机の横なら構わん」
市場の人々がくすくす笑った。私は平静を装いながらも、耳が少し熱い。
午後、ハンナがエーミールを連れて来た。粉屋夫妻、鐘守の老夫婦、坑道仲間まで同行している。
「皆さん、立会証言に?」
「あんたが一人で戦ってるのが気に入らないんだよ」
粉屋の女将が言った。
「あの家は夫婦だったし、あの子は息子だ。それくらい、街の人間ならみんな知ってる」
私は証言欄へ一つずつ書き取る。マルクスとハンナの婚姻日、祝いの献立、エーミールが初めて『父さん』と呼んだ夜のことまで、細部が次々と揃っていく。
机の横でクラウスが低く言った。
「記録は残る。だが、人の記憶がこうして並ぶのも悪くない」
「ええ。紙だけでは拾えない頁です」
巡回机の前には、もう『整理対象』ではなく『ここにいる人』の列ができていた。




