第9話 国外逃亡は異世界でも同じ
真王の指先から放たれた黒い炎を、カイルが警棒で弾いた瞬間、真王の体が次元門に吸い込まれた。
紫色の渦が真王を飲み込み、一瞬だけ膨張した後、急速に収縮していく。
「逃げる気か」
鮫島が走った。
だが間に合わない。
次元門は真王を通した後、直径一メートルほどまで縮小し、かろうじて人一人が通れるサイズで安定した。
まだ完全に閉じてはいない。
真王が向こう側から維持しているのだろう。
六本木の街に溢れた魔獣たちは、主を失って連携を失い、混乱し始めていた。
もう機動隊と自衛隊の敵ではない。一体ずつ制圧されていく。ここは任せていい。
問題は、門の向こうに消えた魔王だった。
鮫島の無線に、本庁との緊急回線が繋がった。
「マオウ・ホールディングス代表の真王冴理は、次元門を通じて異世界へ逃亡した模様。現時点で日本側から追跡する手段はなく、本件は事実上の捜査終結と――」
「待ってくれ」
鮫島が遮った。
「捜査終結? 逮捕状が出てるんだぞ。被疑者が海外に逃げたら捜査やめるのか? ブラジルに逃げようがドバイに逃げようが、国際手配して追いかけるだろ。逃亡先が異世界だからって、何が違う?」
回線の向こうが沈黙した。
「鮫島警部。前例がない」
「だから何だ? 悪い奴が悪いことするのに前例もクソもない」
鮫島は受話器を握り締めた。
「犯罪地は日本だ。被疑者が国外に逃亡した場合でも、犯罪地の裁判所に管轄権がある。刑事訴訟法第一条。逃亡先が外国だろうが異世界だろうが、法の理屈は同じだ」
「しかし、異世界に捜査員を派遣する法的根拠が――」
「国際捜査共助法の類推適用。異世界との間に条約はないが、次元門が物理的に開いている以上、事実上のアクセスが可能だ。捜査員の安全確保と身分保障については、警察法第六十七条の海外派遣規定を準用すればいい」
桐生が隣のデスクで目を丸くしていた。鮫島がこんな滑らかに条文を暗唱するのを初めて見た。普段はカツ丼の出前メニューすらまともに読まないのに。
回線の向こうで、複数の人間がざわめく音が聞こえた。
鮫島は続けた。
「俺は別に軍隊を送れと言ってるわけじゃない。捜査員二名の派遣だ。俺と、異世界の言語と地理に通じたカイル巡査。二人で行って、逮捕状を執行して、被疑者の身柄を確保して帰ってくる。それだけだ」
長い沈黙。
「……上に確認する。一時間待て」
電話が切れた。
鮫島は椅子に深く沈み込み、天井を見上げた。火のついていないタバコを咥えたまま、目を閉じる。
「警部」
カイルの声だった。
「聞いてました。本庁は許可を出すでしょうか」
「さあな。ただ、あの次元門はいつ閉じるかわからない。一時間猶予をもらったが、門が閉じたら本当に終わりだ」
カイルは窓の外を見た。夜の東京の灯り。この街に来て数年。異世界に帰ることなど、考えたこともなかった。
「カイル。門の向こうは、お前の故郷だ」
「はい」
「帰りたいか」
カイルは少し考えた。
「帰りたくはありません。でも、帰らなければならないなら、今日がその日です」
「なんでだ」
「あの男を放置したら、また次元門を開いて日本に来ます。今度は異世界から軍勢を連れて。次はもっと大きな被害が出る。それを防ぐには、向こう側で決着をつけるしかない」
鮫島は目を開けた。
「もう一つ理由があるだろ」
カイルが黙った。
「レオンの妹。まだ結社に捕まってる。門の向こうに連れていかれた可能性が高い」
カイルは頷いた。
「被害者の救出も、警察の仕事です」
四十七分後、本庁から回答が来た。
鮫島は無線が鳴った瞬間に受話器を取った。待ちかねていたのが丸わかりだったが、声は平静を装っていた。
「異例中の異例だが、次元門が閉鎖される前の緊急措置として、捜査員二名の異世界派遣を認める。ただし、あくまで逮捕状の執行と被害者の保護を目的とし、武力行使は正当防衛の範囲に限定すること。帰還期限は七十二時間。以上」
鮫島は電話を切り、小さくガッツポーズをした。本人は隠したつもりだったが、カイルにはしっかり見えていた。
「行くぞカイル」
装備は最小限にした。逮捕状と捜索差押許可状の原本。手錠二組。警棒。無線機。懐中電灯。鮫島の私物の携帯灰皿。それから、カイルが署の近くのコンビニで買ってきたカロリーメイト八箱と水のペットボトル四本。
「カツ丼は向こうにないですからね」
カイルが真面目な顔で言った。
「お前の故郷にカツ丼屋がないのは知ってるよ」
二人はビルの地下三階に戻った。次元門はまだ開いている。直径一メートル弱。紫色の光が明滅を繰り返し、その向こうに別の世界の風景がぼんやりと透けて見えた。
緑の丘陵。赤い空。二つの月。
カイルの足が止まった。
数年ぶりに見る故郷の空だった。
あの赤い空の下で、聖騎士団の仲間と共に戦った。
背中を預け合い、共に笑い、共に血を流した。
そして三十七人の仲間を失い、何も守れなかった自分を恥じながら、逃げるように次元の穴に飛び込んだ。
目の奥が熱くなった。
だが涙は出なかった。
泣いている場合ではない。
今の自分には、やるべき仕事がある。背中を支えてくれる仲間がいる。
「カイル」
鮫島がトレンチコートの襟を立てながら言った。
「お前の故郷にカツ丼屋はないけどさ。コンビニもないし、警察署もない。法律もあんまりない」
「はい」
「だから、俺たちが持っていく」
鮫島はポケットから逮捕状を取り出し、ひらひらと振った。
「日本の法律と、日本のカツ丼精神を。異世界に持ち込んでやる」
カイルは笑った。故郷を前にして、初めて笑えた。
「行きましょう、警部」
「ああ」
二人は次元門に踏み込んだ。
紫色の光が二人を包み、東京の地下室が遠ざかっていく。
門を抜けた先に広がっていたのは、果てしない荒野だった。
赤い空に二つの月が浮かび、冷たい風が枯れた草を揺らしている。
空気は東京より薄く、乾いていて、どこか甘い花の匂いがした。
遠くに、黒い山脈が連なっている。
地面を見下ろすと、足元はひび割れた大地だった。
鮫島の革靴が、異世界の土を踏む。
人類史上初の出来事のはずだが、当の本人はまるで隣の区に出張に来たような顔をしていた。
そして荒野の中央に、それは聳えていた。
漆黒の城。
尖塔が赤い空を突き刺し、城壁からは紫色の瘴気が立ち上っている。
城門には見たこともない紋章が刻まれていた。
魔王城だった。
カイルが息を呑んだ。この城を、かつて聖騎士団は百人がかりで攻め、そして壊滅した。
鮫島はタバコを咥え直し、城を見上げた。
「あれ、建築確認申請出してないだろうな。まあ、ここ日本じゃないから管轄外だけど」
カイルが隣に立った。
「警部。僕はもう聖騎士ではありません。日本の警察官として、あの城に入ります」
鮫島は頷いた。
「行くか。令状の有効期限が切れる前にな」
二つの月が、トレンチコートの中年と、スーツの元聖騎士を照らしていた。
異世界に、日本の警察が来た。
第9話をお読みいただきありがとうございます。
カイルにとって数年ぶりの「帰郷」。そして赤い空に聳える魔王城。
聖騎士団百人が壊滅した城に、警察官二人で乗り込みます。
最終話(第10話)は本日17:10に投稿。
逮捕状と破産決定通知書で、魔王を詰ませます。
最後のカツ丼と共に、結末を見届けてください。




