第8話 非常事態でも令状は要ります
六本木交差点から三百メートル。
マオウ・ホールディングスが入るオフィスタワーの地下駐車場から、紫色の光柱が天を貫いた。
光柱は直径二十メートルにまで膨張し、周囲のビルの窓ガラスを軒並み粉砕した。ガラスの破片が六本木通りに降り注ぎ、悲鳴と車のクラクションが折り重なる。
光柱の中から、異形の獣たちが次々と吐き出された。
赤い毛皮の巨狼。翼を持つ大蛇。甲殻に覆われた蜘蛛型の魔獣。いずれも体長二メートル以上。異世界の次元門から、魔獣が現実の東京に溢れ出していた。
警視庁の無線が爆発した。
「六本木で大規模な魔獣出現、現在十二体を確認、なお増加中」「交通規制を要請、首都高三号線の封鎖を」「自衛隊に災害派遣要請の手続きを」「住民避難の指示を港区に」
署のモニターでニュース速報が流れている。ヘリコプターからの中継映像に、六本木の街路を駆け回る魔獣たちが映し出されていた。
鮫島は、モニターを見ていなかった。
デスクの電話機を手に取り、ある番号を押していた。
「東京地方裁判所の当直判事をお願いします。警視庁異世界生活安全課の鮫島です。至急、捜索差押許可状と逮捕状の発付をお願いしたい」
カイルが振り向いた。
「警部。今、それをやるんですか」
「やるよ」
「外では魔獣が暴れています。市民が危険に晒されています。一刻も早く現場に向かうべきでは」
「機動隊と自衛隊が向かってる。魔獣の対処は連中に任せろ。俺たちの仕事は魔王の身柄を確保することだ。そのためには令状がいる」
「非常事態です! 令状なしでも緊急逮捕は――」
「緊急逮捕はできる。だが、捜索差押えは令状がなきゃできない。あの地下にある次元門を証拠として押さえるには、捜索差押許可状が必要なんだ」
カイルは拳を握った。
「手続きに時間をかけている間に、被害が広がります」
鮫島は受話器を肩に挟んだまま、カイルを見た。
「カイル。聞け」
その声は、いつもの脱力した声ではなかった。低く、静かで、揺るぎのない声だった。
「手続きを飛ばしたら、俺たちはあいつらと同じだ。力で押し通す連中と何も変わらない。法律を武器にするってのは、法律に縛られることでもある。それが面倒でも、遅くても、この手順を守るから俺たちは戦える」
受話器の向こうで当直判事が出た。
「はい、鮫島です。被疑者は真王冴理。罪名は、まず電磁的公正証書原本不実記録。法人登記に虚偽の記載を行った件です。次に、組織犯罪処罰法違反。闇市場の運営を通じた組織的な犯罪収益の取得。それから消防法違反、廃棄物処理法違反、出入国管理法違反の幇助」
淡々と罪状を読み上げていく。
「捜索場所は港区六本木のオフィスタワー地下一階から地下三階。差し押さえるべき物は、次元門の起動装置および関連する魔法的物品一切、帳簿、電磁的記録媒体」
判事との応答が続く間、カイルは窓の外を見ていた。六本木の方角に、紫色の光が脈打っている。消防車と救急車のサイレンが途切れなく聞こえてくる。
桐生がモニターの前で実況する。「魔獣の数、二十体を超えました。機動隊が封鎖線を維持していますが、一部突破されています。負傷者が出始めました」
拳が震えていた。今すぐ飛び出して、警棒一本で魔獣を片端から叩き潰したかった。聖騎士だった頃のように。仲間が倒される前に、自分が前に出て盾になりたかった。
だが、カイルは動かなかった。
この国の法律を信じると決めた。この男を信じると決めた。カツ丼を食べたあの日に。あの高架下のカツ丼屋で、鮫島に言われた言葉が耳の奥で鳴っている。感情を動機にして、手段を法律に限定する。それが刑事だ。「いせあん」だ。
十五分後。
鮫島が受話器を置いた。
「令状、出た」
封筒を掴み、コートを引っ掛け、カイルに振り向く。
「行くぞ。逮捕状と捜索差押許可状、両方ある。手続きは完璧だ。あとは現場で仕事するだけだ」
パトカーが六本木へ向かって走る。
街は混乱していた。避難する市民の群れ、封鎖線を張る機動隊、上空を旋回するヘリコプター。路上に転がった車の残骸を巨狼が踏み越えていく。
オフィスタワーの前に到着した時、地下から三体の魔獣が駆け上がってきた。甲殻の蜘蛛型、二体。翼の大蛇、一体。
機動隊の隊員たちが盾を構えるが、魔獣の突進力に押されている。
「警部、ここは私が」
「ああ。道を開けろ」
カイルがパトカーから飛び出した。
手にあるのは警棒一本だけだ。
蜘蛛型の一体目が甲殻の脚を振り上げる。
疾風のようにカイルは真下に滑り込み、腹部の柔らかい関節に警棒の先端を叩き込んだ。
甲殻が砕け、蜘蛛がひっくり返る。
二体目が背後から突進する。
カイルは振り向きざま、警棒を回転させて甲殻の眼に突き刺した。
悲鳴を上げて蜘蛛が暴れる。
その振動を利用して跳躍し、上空の大蛇の首に飛び乗った。
大蛇が口を開けて毒霧を吐く。
カイルは首筋を駆け上がり、頭部の急所に警棒を全力で振り下ろした。
鈍い衝撃音と共に、大蛇がアスファルトに崩れ落ちる。
三体撃破。十二秒。
機動隊の隊員たちが唖然と見つめている。一人が呟いた。
「あれ、本当に警察官か……?」
カイルは汗一つかかずに敬礼した。
「道、開きました」
「よし、行くぞ」
鮫島がコートの裾を翻しながらビルに入る。
右手に令状の封筒。
左手にはいつもの火のついていないタバコ。
この男だけは、世界が崩れかけても変わらない。
エレベーターは停止していた。
非常階段で地下へ降りる。
一階分降りるごとに、紫色の光が強くなり、空気が冷たくなっていく。
地下三階。
巨大な空洞に、直径十メートルの次元門が渦を巻いていた。
紫色の光が天井を焦がし、空間そのものが歪んでいる。
その前に、真王冴理が立っていた。
スーツは乱れていなかった。髪も崩れていなかった。ただ、微笑みはなかった。
「来たか、鮫島警部」
「待たせたな、真王。逮捕状だ」
鮫島が封筒から令状を取り出した。
紙一枚。
だが、日本国の司法が発した正式な命令書。
真王はそれを見て、初めて笑った。
微笑みではない。嘲笑だった。
「紙切れ一枚で、魔王を捕らえるつもりか」
「そうだ。紙切れ一枚に国家の強制力が詰まってるんだよ。この一枚が力を持つために、名前も知らない大勢が、これまで働いてきたし、これからも動く。この世界を支えるために、この社会を保つために。だから、お前の魔力より、こっちの方が重い」
真王の目が細まった。
「面白い男だ。魔王の前で震えもしない人間は、二つの世界を合わせても、お前が初めてだ」
「褒め言葉として受け取っとくよ」
次元門が脈動した。
新たな魔獣が門の奥から咆哮を上げている。
門を通り抜ければ、東京の街にさらなる災厄が降り注ぐ。
真王が右手を掲げた。指先に黒い炎が灯る。
「この国のルールには十分付き合った。だが、もう終わりだ」
カイルが一歩前に出た。
警棒を構える。聖剣ではない。ただの金属の棒だ。
だが、それを握る手はもう震えていなかった。
第8話をお読みいただきありがとうございます。
「手続きを守るから俺たちは戦える」——鮫島のこの台詞が、本作のテーマです。
次の第9話は本日12:10に投稿。魔王が異世界へ逃亡。
しかし鮫島は追う。「前例がなきゃ俺が作る」。




